第9回大会報告 シンポジウム:接触の表象文化論──直接性の表象とモダニティ

シンポジウム:接触の表象文化論──直接性の表象とモダニティ|報告:高山花子(東京大学)

2014年7月5日(土) 13:00-15:00
東京大学駒場キャンパス18号館ホール

シンポジウム:接触の表象文化論―直接性の表象とモダニティ

透過性と身体──医学史から見る〈接触〉の問題/田中祐理子(京都大学)
接触から震動へ──〈響き〉としての内面性の誕生/吉田寛(立命館大学)
ヴァルター・ベンヤミンにおける二つの触覚とアナクロニスティックな時間の創設/高村峰生(神戸女学院大学)
痕跡・距離・忠実性──聴覚メディア史における〈触れること〉の地位をめぐって/福田貴成(中部大学)

【司会】橋本一径(早稲田大学)

接触、という言葉が意味するものは広い。指先、皮膚、身体の表面だけでなく、内部でもいくつもの細胞が、膜が、何かと触れ合い、微小なレベルで生理学的な現象を引き起こしている。ひとは、夢の中、記憶の想起の中、錯覚、幻視と呼ばれる経験においても、あたかも時空を超えるかのように、何かに触れられる。しかし、触れられないものも、数かぎりなくあるように思われる。あるいは、人間ではないとされるもの、生物ではないとされるものたちも、すでにたえず接し、触れ合っていると言えるのではないか。世界は接触に満ち満ちている──。どのように、考えられるだろうか。

シンポジウムのタイトルに聴衆が覚える既視感を先取りしつつ(けれど既視感とは何だろう?)、司会の橋本一径氏は次のように切り出した。たとえば、ディディエ・アンジューの『皮膚=自我』(1985年)以後、一時期盛んとなった議論が下火となったのは、視覚のオルタナティヴとして接触が論じられるという、身体対精神の二項対立の延長におちいったからなのではないか。そうした二項対立におちいらずに、接触の問題を思考することはできないだろうか。そして、手がかりとなるのは、それを表象の問題としてとらえることではないか、と。すなわち、歴史的、文化的に、触れることができるものは移ろいゆく。それらがどのように表象されてきたかを見る。そこに、いわゆる近代という時代との重なりを見出すことができるのではないか。そうして、医学思想史、感性学、比較文学、聴覚メディア論と、フィールドを異にする四人の登壇者たちが、問題設定を引き受けた。

田中祐里子氏は、16、17世紀の解剖図学書、および近代細菌学の成立をたどり、触れることの地位が医学の発展によって変わりながらも、ルネサンスの人々にとって皮膚は居心地のよい境界侵犯を支える、安心感、信頼感のあるものだったのではないかということ、コッホによる細菌同定法の根底には、生きた身体の上にのみ現れる機能的表象としての症状が必須であることを確認した。そこから、触れることがいまなお科学的認識を支えている可能性、そこにある触覚の共同性の存在を示唆した。

近代的聴覚的自我を唱えたスティーヴン・コナーの思考を批判的に引き継ぐ吉田寛氏は、接触とほかの五感のせめぎ合いをたどった。ルソー、ヘルダー、カントののち、聴覚を非物質、内的魂の知覚と措定するヘーゲルに、モリニュー問題に象徴される接触パラダイムから振動パラダイムへの移行を見出す。そして、視覚ないし触覚によって耳のメカニズムを説明する20世紀以降の生理学モデルの出現を、ルソーへの回帰として確かめた。

高村峰生氏は、複製技術時代をめぐるベンヤミンの晩年の思考に、触覚の二重性──注意散逸的な新しい芸術メディアを触覚的と呼ぶ一方、アウラ的なもの、経験概念と結びつく触覚──があることを指摘し、それを彼自身のアナクロニックな歴史観へ接続することを試みた。ウィーン学派の美術史家リーグルの影響を受けつつも、あえて自らの時代とその芸術に触覚を強調することで、ベンヤミンが啓蒙主義的な進歩史観、オプティミスムを批判し、文明の野蛮の相対化を企てていたのだと主張した。

最後の発表者、福田貴成氏は、1860年に記録されたフォノトグラフを起点とし、身体器官の触覚が、痕跡と針先の接触にたとえられながらも、そこでは鼓膜の忠実性の保証が不可能であったこと。デジタル化ののち、鼓膜の中で常に二重化される仕組みを技術が取り込み、聴覚的な対象の移動、あたかも眼前に見えるかのような距離が付与されたこと。結果として、直接的な、純粋な視覚経験へと変容をとげた、遠ざかりつつ触れるという触知性の現れたことを仮説として差し出した。

触覚をめぐる思考がなお、視覚モデルに依拠している可能性、さらには、それぞれの触覚の意味するものは何かという問いが、論者をつなぐ橋本氏の言葉が示していたとおり、議論にはまとわりついていたように思われる。とはいえ、各論者は、触れることを中心に据えながらも、人間の感覚、知覚をめぐる思考が、複雑に、科学技術とせめぎあいながらも連動してきたことを示していた。最後、ディスカッションの時間が限られたことは惜しまれるが、知覚自体の不可視性、科学自体が表象であり、研究自体が視覚ベースなのではないかということ、あるいは接触における二重性の有無をめぐって交された応酬は興味深かった。また、会場の平倉圭氏が、諸感覚の複合性を踏まえた上で、福田氏の「媒介された直接性」という言葉に対して投げかけた問い──技術によって可能となった新たな両耳聴は、immediateに聞くのか、それともmediateに聞くのか、歴史と切り離さずに考えられないか──も、さらに問いを深めるための貴重な契機となったに違いない。キリスト教神学における触覚の問題など、接続可能な論点は尽きないだろうが、直接性をめぐる欲望、痕跡をめぐる倫理さえ視野に入れつつ、近代を接触とともに新たに問う道が開かれたと言えるだろう。

現代は近代以後なのだろうか、と今考えている報告者は、シンポジウムの最中、登壇者たちの声に追いつかないままペンを走らせつつ、接触をめぐって駆けめぐるわたしたちの言葉自体が表象システムに含まれていることを、ぼんやりと考えていた。言葉は、文字であれ、声であれ、おそらくは視覚にも、聴覚にも、何にも、単純には還元できない。冒頭で橋本氏がほのめかし、のちに福田氏が確認したような、「音が触れる」といった表現のありよう。言葉もまた複合性を有し、変わりつつある。そのことも決して保留せず、ディシプリンを超え、事象とともに、思考する強度が試されていたように思われる。

高山花子(東京大学)