第9回大会報告 パネル5

パネル5:メディアと(しての)音声──20世紀諸芸術におけるその実践|報告:宇佐美達朗

2014年7月6日(日) 14:00-16:00
東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム2

パネル5:メディアと(しての)音声──20世紀諸芸術におけるその実践

アンリ・メショニックにおける演劇性の概念──新たなる声としての「オラリテ」を翻訳するために
森田俊吾(東京大学)

目と耳のあいだ──ベルナール・ハイツィックにおける応答としての声
熊木淳(早稲田大学)

外部の声──レトリスム映画における音声の役割について
門間広明(早稲田大学)

【コメンテーター】鈴木雅雄(早稲田大学)
【司会】星埜守之(東京大学)

少なくともここ数年のプログラムを振り返ってみると、表象文化論学会では「音声」への関心が絶えることがないように思われる。今回の大会でも、「接触」をテーマとする1日目のシンポジウムでは「音」が大きな手がかりとなっていた。文学作品における鳥の形象をテーマとする2日目午前中のパネル1も、文字によって書かれた文学作品から鳥の「声」がいかにして立ち上がるかという問いを抜きにしてはありえなかっただろう。フランスを舞台に活躍した詩人や映画作家を取り上げた本パネルが立ち見の盛況となったのも、「音声」への関心が聴衆に広く共有されていたためだと思われる。というのも、本パネルの三つの発表のうち二つはレトリスムやそこから派生した音声詩に関わるものだったが、こうした潮流の存在自体が日本ではあまり知られていない。にもかかわらず、趣旨文から興味を惹かれた聴衆が多かったわけである。だとすれば、様々な文脈から「音声」に関心をもつ聴衆が、本パネルによってフランスのこうした潮流を精確で明確な位置づけのもとに知ったのであり、その意味で、本パネルは未来に向けて重要な種を撒いたように思われる。発表に先立って、音声詩の代表者フランソワ・デュフレーヌの作品《ピエール・ラルースの墓》が会場に流され、聴衆が具体的に作品に触れるところから始まったのもよかったと思う。資料準備の時間を使ったものだったが、パネル企画者、熊木氏の柔軟な対応が功を奏した。

森田俊吾氏の発表は、フランスの詩人にして批評家、聖書翻訳者でもあるアンリ・メショニック(1932-2009)をめぐるものだった。メショニックは聖書を翻訳するだけでなく朗読もしており、最初によく響く彼の声による朗読が流されて、その「オラリテ(oralité)」を探ることが発表の目的であると述べられた。しかし、発表全体から感じられたことだが、メショニックの用いる用語はその通常の意味を大きく逸脱しており、「オラリテ」はその代表格のようである。「オラリテ」とはメショニックにおいて声が発されることではなく「主体が自らの語りを最大限にリズム化する様態」とされ、しかしその「リズム」もまた通常の意味とは異なり、拍節の交互生起ではない。そしてそのような「オラリテ」を理解するための補助線として「演劇性(théâtralité)」が持ち出されるのだが、これもまた通常の意味での演劇を問題にしているのではなく、言語(langage)のうちにあるものであり、言語そのものがヒステリー化する「逆ヒステリー」のようなものだという。いわゆる劇や朗読というものは、言語そのもののうちに孕まれたそうしたオラリテ、テアトラリテ、逆ヒステリーを表出する可能性ということになろう。発表を聴く限りでは、「原(アルシ)−エクリチュール」(デリダ)ならぬ「アルシ−オラリテ」、「アルシ−テアトラリテ」とでもいうべきものが想定されているように思えたが、誤解だろうか。

熊木淳氏の発表はベルナール・ハイツィック(1928-)の音声詩をめぐるものだった。ハイツィックの名のみならず音声詩そのものがよく知られていないという現状に鑑み、最初にダダから音声詩に至る歴史的な流れが解説された。それによれば、音で詩を表現する試み自体は20世紀前半のダダから行われていたが、ダダからレトリスムまでの試みを「音響詩(poésie phonétique)」、《ピエール・ラルースの墓》(1958)以後のものを「音声詩(poésie sonore)」と呼ぶことができる。その主な違いは、後者における録音機器・マイクの必要性である。この整理のうえで、「ハイツィックにとって声はテクストに取って代わるものなのか」という問いが提示された。まず、イジドール・イズーなどの音響詩には、詩をテクストに起こすことができないような仕方で録音するなど、テクストを徹底的に排除しようとする還元主義的傾向が見られる。それに対してハイツィックにおいては、《楽譜詩》(1955-65)では視覚的なテクストと音声が相補的になっているが、《生体材料採取検査》(1965-69)や《マスターキー》(1969-)ではテクストと多層的な音声が照応しないようにずらされている。その結果、音響詩とは異なり、同じように詩を「テクストから解放する」ことが目指されてはいても、テクストは排除されるべきものではなく、視覚と聴覚の「ズレ」を表現し「多感覚詩(poésie multi-sensorielle)」となるために却って不可欠なものとなっており、それゆえ逆説的にも、テクストの視覚性を重視した具体詩の文脈に近づくことになる。以上のことが、具体的な作品(テクストと音声)を伴って、きわめて明確な説明によって示された。

門間広明氏の発表は、熊木氏の発表にも登場したレトリスム運動の創始者イジドール・イズーの映画をめぐるものだった。最初にレトリスムと映画との関わりが年表で辿られた後、イズーの映画《涎と永遠についての概論》(1950)の分析が行われた。この映画は映像と音が同期しない「ディスクレパン映画(cinéma discrépant)」であることが当の映画のなかで宣言されている。登場人物は音声上にのみ存在し、映像にはそれとは無関係なイズーと有名人たちのツーショットなどが現れる。しかし、単に「ディスクレパン(ちぐはぐ)」なだけでなく、音声の方が映像よりも明らかに優位に立っている。たとえば、レトリストたちのコーラスが全篇を覆っていたり、映像なしで音声のみの部分があったりする。他のレトリストたち(ヴォルマン、ドゥボール、デュフレーヌ)の映画においてもこの傾向は同様である。では、音声にはいかなる価値が与えられているのか、といえば、意味以前のプリミティヴな身体性の表現である。とはいえ、イズーがそこで目指しているのは、映画という有機体に外から異質なものをぶつけることで、音声に映画をのっとらせることである。このようにして、一時的ではあれ、イズーは映画というメディアに映像と音声の緊張を持ち込んだ。以上のことが詳細な作品分析を通して示された。

コメンテーターのシュルレアリスム研究者、鈴木雅雄氏は三つのコメントを行った。第一は、三つの発表から共通して取り出せる「声とテクストとのズレ」という問題は本パネルの表題にある「メディア」の問題と不可分ではないか、という指摘、第二は、本パネルのテーマはデリダが批判的に問いに付した「声」の問題系とどう関わるのか、という疑問であった。だが、氏の専門に関わる第三のコメントが、それに対する熊木氏の応答と併せて大変刺激的で、このやりとりを聞けただけでもこの場に居合わせてよかったと思わされるものだった。すなわち、仏文学史の教科書からレトリスムも音声詩も完全に無視されているのはなぜかと考えた場合に、そこには、言葉そのものを実験的に突き詰めることを放棄してロマン主義的なものに接近し、フランスにおける前衛-後衛の構造を破綻させたシュルレアリスムの存在があるのではないか、だとしたら、一旦そうなった後に登場したレトリスムや音声詩にはどういう意味や「覚悟」があるのか、という疑問が提起され、対して熊木氏は、問題はおそらくシュルレアリスムではなく「叙情性(lyrisme)」の問題だろうと答えた。「叙情性」は1990年代半ば以降、詩の読解におけるキータームとなっており、その潮流において音声詩は否定されている。また、音声詩はいわゆる20世紀前半的な前衛ではなく、熊木氏の発表で示された通り、そのような前衛に対してはいわば「退行」でもある。だから、レトリスム、音声詩を考えるためには、前衛−後衛が崩れ去った後の前衛というのでもない「別の軸」が立てられなければならない、という趣旨の応答だった。

会場との質疑では、メショニックの聖書翻訳やハイツィックの音声詩に関する時間性や記憶、また、イズーのジャズ批判の文脈について質問が提起された。

映像と音声、視覚と聴覚の非同期という問題は、今回の三発表で取り上げられた作品だけでなく、たとえばゴダールやデュラスの「オフの声」など、様々な試みを連想させるものであり、聴衆はそれぞれ自分の専門や関心においていろいろな作品を思い浮かべながら発表を聴いたのではないだろうか。それでもやはり、レトリスムや音声詩というものには、何か特別にひとを判断停止に追い込むものがあるように思われる。純粋で還元主義的な前衛でもなく、それに対するシュルレアリスム的な見切りでもなく、作品に接しても、個人的には正直なところ、さしあたり価値判断を保留したくなってしまうのだが、そうしたもの、熊木氏の言う「タモリ倶楽部」的なものが、しかしそれ自体として探究される「別の軸」が拓かれるとすれば、それはきわめて魅力的なことである。本パネルの企画が今後も何らかの仕方で続いてゆくことを期待したい。

郷原佳以(関東学院大学)

【パネル概要】

20世紀以降、伝達技術の多様化によってあらゆる芸術分野において声に大きな役割が付与されることになった。しかしそれぞれの分野や制作者において、その声の担う役割は様々である。例えばダダイストたちにおいては、声はページから詩を伝達する役割を奪い新しいメディアとしての地位を獲得することを目指すだろう。またアルトーは演劇において声および息を俳優の内面と外部とを結ぶ紐帯として練り上げ、独特の叫びの概念を作り出すだろう。だが単に声は何かを伝える媒介として機能するだけではない。例えばライヒの「It’s gonna rain」やシュトックハウゼンの「少年の歌」におけるように、声は何らかのメディアによって伝えられる内容そのものとなるだろう。このように、20世紀以降の芸術の各分野において声はそれがもつ情報伝達というそれまでの役割から大きく逸脱して、独特の位置を占めるようになったのである。

本パネルでは以上のことをふまえ、演劇、詩、映画の各ジャンルにおいて「メディアと(しての)音声」の役割を明らかにしていく。森田はアンリ・メショニックにおける口承性が「演出すること=翻訳すること」を通じていかに演劇性と結びつくかについて、熊木は音声詩の詩人であるベルナール・ハイツィックにおける声とテクストの共犯的な関係について、そして門間はイジドール・イズーをはじめレトリストたちの映画における音声が担う独特な役割について検討する。(パネル構成:熊木淳)

【発表概要】

アンリ・メショニックにおける演劇性の概念──新たなる声としての「オラリテ」を翻訳するために
森田俊吾(東京大学)

アンリ・メショニックは、主体が語る言葉の運動を組織する「リズム」をいかにして翻訳すべきかという問題に取り組み、その実践としてヘブライ語聖書をフランス語に翻訳してきた。この翻訳では、これまで音声の支配下にあったリズムの概念を根底から問い直し、リズムを音声/意味の二元論から解放することが目指されている。しかし、こうしたリズムの再現のために施された破格構文や空白の多用といった、実験的手法への評価は今なお定まっていない。それゆえ、 1995年と2005年にメショニックの翻訳した聖書がクロード・レジによって上演されたことは、リズム翻訳の可能性を問い直す鍵となりえよう。同時にメショニックの翻訳における演劇というこれまで論じられてこなかった問題系も浮かび上がる。メショニックの演劇論にはアントワーヌ・ヴィテーズに関するものがいくつかあるが、ヴィテーズの提唱する「上演=翻訳」という定式はメショニックの翻訳論やその実践と決して無関係ではない。

本発表では、メショニックの考える「演劇性」という概念を明らかにした上で、リズムが全面化した状態である「オラリテ(口承性)」という新たな「声」がど のように翻訳されるかを明らかにする。ヘブライ語聖書における「声」が翻訳され、そこで生み出されたテクストの「声」が演出=翻訳によって再現されるとき、われわれは複数の主体が発する重層的な「声」に耳を傾けることができるだろう。

目と耳のあいだ──ベルナール・ハイツィックにおける応答としての声
熊木淳(早稲田大学)

声とは何かを伝えるメディアであり、また同時にメディアによって伝えられるその内容でもある。ダダイストからレトリスト、そしてアンリ・ショパンに 至るまで、前衛詩の主流においては、声をそれが伝えるべき言葉やその意味に従属するものと見なさず、むしろ声そのものの表現をめざした詩的実践が行われた。

このような文脈の中で、フランソワ・デュフレーヌに続いてフランス音声詩を担うことになるベルナール・ハイツィックはこの声の絶対性とでもいいうる傾向に必ずしも同意しなかった。声の自立性を主張する前衛詩人たちはしばしばテクストを放棄しようとするのに対し、ハイツィックはむしろ声とテクストとの間に共犯関係を見出し、両者の間に新たな関係を打ち立てようとした。ハイツィックの詩の大きな特徴は、その音声詩という名付けにもかかわらずテクスト、その視覚詩的な側面を重視しているという点である。彼の詩はまず最初にこの視覚詩が提示され、対応する音声がそれに続く。視覚詩自体が線的に展開する詩でない以上、 一般的な意味での朗読は不可能である。ハイツィックが目指すのはそのことで引き起こされる多感覚性であり、目と耳との間の知覚のずれである。本発表では、 音声詩へといたる問題意識の中でこの詩人が実現しようとしたテクストと声との独特な関係を指摘し、彼が目指した知覚のずれがいかなるものであるかを明らかにする。このことによって、現代詩におけるメディアとしての声のもつ意義、他のメディアとの関係を問いたい。

外部の声──レトリスム映画における音声の役割について
門間広明(早稲田大学)

レトリスムの創始者イジドール・イズーは、映像と音声の同調を破壊する「ディスクレパン映画」を提唱したが、実際には、これまでの映画では映像に音声が従属していたという認識から、映像から音声を解放するという方向性が強く打ち出されている。このことはイズーのフィルム『涎と永遠についての概論』にも確認できるが、それに続いてジル・J・ヴォルマンの『アンチコンセプト』およびギー・ドゥボールの『サドのための叫び』という二本の「映像のないフィルム」が制作されたこと、またイズーが「フィルム‐デバ」、すなわち観客たちの議論のみからなるフィルムを提唱したことも、この流れにおいて理解できる。

しかし、そのとき音声はある両義性を帯びている。一方では、レトリスム映画における音声の特権化は、声こそがもっとも原始的な感情の発露であるという一種のプリミティヴィズムに基づいている。しかし他方で、イズーは映画において音声が後から/外から付け加えられたものであるという事後性/外部性に着目し、それを際立たせるような仕方で音声を用いることを提唱している。これはつまり、運動の記録としての映画(シネマトグラフ)には本来備わっていなかった音声を映画の主役へと転じる戦略である。そのとき音声は、解放されるべき原始的なものというより、後からやって来て映画に寄生し、最終的に映画そのものを乗っ取ってしまうものとして立ち現れる。イズーから離反した後のドゥボールの映画もこの観点から考えてみることができるだろう。