第9回大会報告 書評パネル:杉山博昭『ルネサンスの聖史劇』を読む

書評パネル:杉山博昭『ルネサンスの聖史劇』を読む|報告:森元庸介(東京外国語大学)

2014年7月6日(日) 16:30-18:00
東京大学駒場キャンパス18号館メディアラボ2

書評パネル:杉山博昭『ルネサンスの聖史劇』を読む

杉山博昭(早稲田大学)
松原知生(西南学院大学)
森元庸介(東京外国語大学)

【司会】黒岩卓(東北大学)

第9回表象文化論学会では、この春に学会奨励賞を受けた杉山博昭氏の著作『ルネサンスの聖史劇』(中央公論新社、2013年)をめぐる書評会が企画パネルとして開かれた。聖史劇を中心に15世紀以降のフランス文学を専門とする黒岩卓氏が司会を務め、コメンテータは、ルネサンス絵画史の研究を基軸としながら日本をも視野に収めた幅広いイメージ研究を展開する松原知生氏、ならびにキリスト教道徳における演劇の扱いに関心を抱く報告者(森元庸介)が担当した。

まず冒頭に、司会の黒岩氏から、研究史上における著作の意義について、簡潔な、しかし間然するところのない要約が示された。杉山氏の最大の眼目が、聖史劇を(台本から上演に至る、また制作と受容にまたがる)トータルなありかたにおいて「再構成」しようとした点にあること、そのうえで演劇学的なアプローチはもちろんのことながら、文献学的な配慮とともに台本を詳細に読み解きつつ、ひるがえって美術史の知見を意欲的に吸収してテクストとイメージの相互関係を描き出したこと、さらには聖史劇の主たる担い手である兄弟会の出納帳などの調査結果をそこに加えたこと──つまりは本書が人文学的な方法をおよそあまねく動員した高度な綜合であることが明快となった。また、巻末に収められた──紙数のうえではおよそ半分を占める──聖史劇14篇のシナリオ翻訳と上演記録リストの代えがたい価値は、黒岩氏によってはもちろん、パネルのなかで何度も強調されたところである。

ついで、パネルは杉山氏本人による著作梗概の紹介に移った。入念に準備されたスライドが必要十分な説明と相俟って効果を挙げ、すでに読んだ者には読書体験を別のしかたで辿り直す機会となり、これからの読者にはきわめて魅力的な誘いになったと感じる。自著の紹介は心理的な負担もあって決して簡単なことではないはずだが、杉山氏が会衆への配慮とともに、その責をみごとに果たしたことを特記すべきである。とりわけ印象的な場面をひとつ。著作中で論じられたアンドレア・デル・サルトの《洗礼者ヨハネの説教》を改めて説明しながら、杉山氏は「この画面左手奥のイエス役が…」と口にしかけ、はにかみながら「…いや、イエスなのですけれども」と訂正を加えた。対象への思い入れと誠実な人柄が漣のような笑いを呼び、場の空気は一気に和んだ。

その後を引き継いだ報告者は、実質において冒頭の黒岩氏によるコメント以上のものを付け加えられなかったが、杉山氏の研究姿勢として、実証レヴェルで言えることがらを丁寧に画定しつつ、あえて「その先」に手を伸ばそうとする、いわば抑制と果断の結合が印象的であることを述べた(そのひとつのハイライトは、『洗礼者ヨハネの斬首の聖史劇』において「とてもゆっくりやってくる」とト書きされたイエスの歩みを「メシア的時間の可視化」と重ね合わせた211-212頁の記述であろう)。そのうえで、非専門家であることを口実として、いくつかの初歩的とも思われる質問を投げかけることにしたのだが、そのやりとりについては後段でまとめることにする。

つづく松原氏のコメントは、マテリアルな次元で本書に凝らされた工夫を指摘することから始まった。白地のきわめてシンプルな表紙を舞台に見立てるならば、帯にあしらわれたジョルジョ・マルティーニ《キリストの降誕》がその舞台上で上演される聖史劇そのものであるかのように見えること、背景の凱旋門に走る亀裂と惹句の「ルネサンスが宗教劇に刻み込んだ断裂」が位置的にぴたりと対応していること、また、著作内部においては各章の扉にピランデッロ『作者を探す六人の登場人物』からの引用が配され、脚注方式の採用もあって、議論の展開そのものをひとつの上演行為としてパフォーマティヴに演出していること──そのうえ巻末で「台本」までも読むことができるわけだ! とりわけ絵画における演劇的要素の嵌入、すなわちメタ表象の問題が本書の核心的な考察対象であるとすれば、オブジェとしての書物はそこへさらにメタ‐メタ表象の次元を加えているとも言えるのではないか。飄々と重ねられる洒脱な指摘に会場は湧く。

だが、そのうえで加えられた問いかけは、本書が提示する主要な仮説に美術史研究の観点から鋭く切り込むものであった。杉山氏はさまざまな絵画作品のうちに舞台装置や小道具を思わせる細部を見出し、「絵画的リアリティ」と「演劇的リアリティ」のあいだの齟齬が作品受容にもたらし得た豊かさを強調している。しかしながら、扱われた絵画作品がもっぱら15世紀のものであることを思えば、問題とされた細部の「ぎこちなさ」はむしろ当該時期における絵画の全般的な特徴──ヴァザーリの用語を借りるなら「第二マニエラ」──とも言えるのであり、杉山氏の指摘は、よりなめらかな「近代マニエラ」以降の視点をアナクロニックに「密輸入」していることになるのではないか。また、固有の意味での異時同図法と聖史劇の舞台空間への参照を区別する基準はどのように設けられるのか、さらに、観者の没入を誘う演劇的な構成ということがあるのだとして、それでは(ルネサンス以前の絵画からすでに観察される)画面内に「現に」描き込まれた観者──それはしばしば現実の特定の人物をモデルとしている──の存在はどのように解されるべきか。

時空間の(乗り越えがたいかもしれない)境界に改めて注意を向けるこれらの指摘に、杉山氏は、まずもって絵画に描き込まれた観者の存在については、それが聖史劇の上演の実態(たとえば演じる子供たちを舞台脇の観客席から見守る親たち)にむしろ対応しているのではないかと応じた。他方で(悪しき)アナクロニズムという点については、その危険のあることを真率に認めていたが、これは、絵画的リアリティと演劇的リアリティという自身の理論モデルを今後の研究において時間の試しにかけてゆくという意志の表明でもあったろう。

前述のとおり順序が前後するが、報告者の問いは主として聖俗の境界をめぐるものであった。より大きな枠組みとしてのフェスタには異教的なモティーフも大々的に取り込まれているが、そのなかで聖史劇の位置はどのようなものであったか。また、13世紀における実体変化の教義の確立が、現前化への志向という点で聖史劇の実践と軌を一にするものと述べられているが、教会側からは聖史劇の猥雑さへの懸念もコンスタントに表明されており、両者は相通じればこその競合関係にあったと言えないか。これらについて杉山氏からは、聖史劇がフェスタの構成要素として不可欠ではなかったかもしれないこと(なくてならないのは、とりわけ饗宴であった)、また、公式の教義との緊張関係は、たとえば『聖体の奇蹟の聖史劇』のイレギュラーな構成のうちに看取されることなど、貴重な事実確認とともに、奥行きのある応答がなされた。

もう一点、聖史劇と(ひとまずは、それ以降に隆盛を見るといってよいだろう)世俗演劇の関係をめぐる問いに対して、杉山氏は両者のあいだに積極的なつながりは見出しにくいように思うと応じたのだったが、ここで黒岩氏からの息呑むほかない絶妙の一言があり、少なくともフランスにおいては、テクスト構成や上演の担い手のうえで、両者のあいだに相当の連続性が認められるという見解が示された。黒岩氏はまた、杉山氏が提示した「台本」と「読み物」の区別についてニュアンスを加えながら、当時の人間の横断的な存在のありかた、その結果としての文脈の多様性を考慮することが、この研究領域においてとりわけ有意であるだろうことを強調した。

かくて舞台は大詰め…であるはずなのだが、なんとも惜しいことに、当日のパネルにはやむをえぬ時間上の制約が課されており──東京の不便を痛感したことを言っておく──、ここで幕を閉じざるを得なかった。紛れ込んだにすぎないとはいえ報告者も登壇していたのであるから不適切な感想かもしれない、しかし、この書評パネルは晴朗な饗宴の場であったと率直に思う。豊かな知見に満たされながら風通しのよい書物をめぐって密度の高い言葉が取り交わされ、自分の立場を忘れて聴き入り、蒙を啓かれた。フロアとの質疑が許されなかったことはそのぶん幾重にも残念であったが、閉会後には杉山氏を囲む大小の輪がいくつも広がり、それもまた、親密なカーテンコールのようであったことを記したい。

なお、最後に、とりわけ未読の方のために。本書には、ほんのり色づいた実に魅力的な一文字がひそんでいる。色彩豊かな図版を本文のうちに織り込む、という(これもまた)決して簡単ではない編集上の努力からこぼれたものであることを事後に教わった。揚げ足を取らんがために記すのでないことは、その一文字を見つけられた方にはきっと明らかだろうと思う。

森元庸介(東京外国語大学)

【パネル概要】

第5回表象文化論学会賞の奨励賞を受賞した杉山博昭『ルネサンスの聖史劇』(中央公論新社)をめぐり、松原知生、森元庸介、黒岩卓(司会)の各氏を迎えて、著者と共に議論を繰り広げる。演劇史や美術史の交錯するきわめて重要な主題でありながら、日本においてはこれまで本格的な研究の不足していたルネサンス期の聖史劇に、真正面から取り組んだ本書をめぐって、中近世イタリアの宗教画を専門とする松原氏は美術史の立場から、また16~17世紀キリスト教の決疑論と世俗的演劇の関係を考察の対象としてきた森元氏は主に思想史的な立場から、それぞれの読解を披露していただく。中世フランス演劇を専門とする黒岩氏にも、司会の立場を超えて議論に参加していただくことで、さらなる重層的な読みが提示されることが期待される。