研究ノート | 齋藤 理恵 |
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阿部修也と《パイク=アベ・ヴィデオ・シンセサイザー》
齋藤 理恵
近年、日本の戦後現代芸術に対する企画展示が国内外で活発に開催され、とりわけ1960年代から70年代の文化や社会情勢との関連性の再考察が行われている。このような状況で、ビデオアートという電子芸術に対する関心も再び注目を集めている(※1)。本稿では、昨年来のビデオアートを巡る国内の動向について、ナムジュン・パイク(Nam June Paik, 1932-2005)のエンジニアとしてその作品制作に多大な貢献をしてきた阿部修也(1932-)について説明しつつ、今後の研究の方向性を示唆していきたい。
そもそも2013年は、1963年にナムジュン・パイクがドイツ・ヴッパータールのパルナス画廊にて『音楽の展覧会──エレクトロニック・テレビジョン(Exposition of Music - Electronic Television)』を開催してから50年にあたり、諸説ある中でもビデオアート生誕50年の節目を迎える年とされている。こうした状況下で、1970年代に活発な動きをみせた日本のビデオ・アーティスト達が自らの半生を振り返るコメントを発表し、これらを編纂した一連のドキュメンタリー制作も行われている(※2)。2013年1月には、早稲田大学表象・メディア論系にて、トークセッション「日本のビデオアートと実験映画──70年代を中心に」が開催され、日本におけるビデオアートの黎明期に大きな役割を担ったマイケル・ゴールドバーグ(Michael Goldberg, 1945-)、小林はくどう(1944-)、安藤紘平(1944-)がパネリストとして参加し、当時の状況を振り返る試みがなされた。
上記セッションから4ヶ月後の2013年5月に、再び同大学にて「ナムジュン・パイクと電子の亡霊(ゴースト)──阿部修也さんとパイク・アベ・シンセサイザーの夕べ」が開催(※3)された。本企画は、1969年から1972年にかけてパイクと阿部によって開発された《パイク=アベ・ヴィデオ・シンセサイザー》を復元し、公開チューニングやピアニストの寒川晶子と共にパフォーマンスが実演される等、多くの来場者と当時の状況を追体験することが出来た時間だったといえる(※4)。
《パイク=アベ・ヴィデオ・シンセサイザー》は、アナログの信号発振器(オシレーター)、またはモノクロカメラの絵、等々をモノクロ映像の信号としてRGB信号に取りこみ、これらを加工し、彩色してビデオ信号としてエンコードする構造になっており、テレビで受像されるデータを抽象的かつ非常に強力な色彩で異なるイメージへと変換させることが出来る。また阿部によれば、パイクは“High Contrast, Too Bright Picture(ハイコンラストかつ非常に高輝度な画)” を好んで再生することに熱中していたため、これに応じて機器のエンコーダーユニット全体を変更している(※5)という。パイク自らが多目的カラーテレビ・シンセサイザー(Versatile Color TV Synthesizer)に関する以下のような表現をしている(※6)ことや、その他作品における色彩を考慮しても、この傾向は明らかであるといえよう。
万能シンセサイザーによってテレビ・スクリーンのキャンヴァスは、
レオナルドのように精確に、
ピカソのように自由に、
ルノワールのようにカラフルに、
モンドリアンのように深遠に、
ポロックのように猛々しく、そして
ジャスパー・ジョーンズのようにリリカルに
かたちづくることが可能になる(※7)。
もともとエンジニアとして東京放送TV(現在のTBS)の技術部で働いていた阿部修也がパイクと対面したのは1963年の秋、つまり阿部が31歳の頃であり、当時、既にパイクは現代音楽家、ハプニングの旗手そしてフルクサスの一員として活躍していた。パイクとの出会いは、後の阿部の人生を大きく動かすこととなる。NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)での展覧会『オープン・スペース2014』にて《アベ・ヴィデオ・シンセサイザー》(1972/2012)の展示(※8)と併せ、阿部は「パイク・アベ・ヴィデオ・シンセサイザーの歴史」と題する解説を以下のように執筆している。
1969年9月5日、かなり暑い午後、ナムジュン・パイクの兄、白南一氏の一室にN.J.Pより呼び出され、そこでA1サイズ(新聞紙1枚)のセクション・ペーパー(方眼紙)を、今回これを日本で製作したい、ということで見せられた。
その中央に面積で1/6程度のN.J.独特のブロック図または配線図または説明図が書いており、周辺は余白になっていたが、鉛筆で色々な書き込みがしてあった。50年経った現在、オリジナルの図面の周辺はこすれてよく読めなくなってしまっていたが、この現物は今スミソニアン博物館にて保管されている。小生はこの図を見て、製作することは可能だと考えたが、「たぶん小生が働いている会社に迷惑がかかり、辞めてしまうかもしれない」と頭の中で考えた。
何しろ条件は、一般AV向けではなく、放送規格で製作し、かつビデオ出力レベルを普通の3倍にする。特に面倒なカラーエンコーダー部は故障のことを考え2台製作する。予算は100万円程度、製作期間5ヶ月、出来上がったら直ちにボストンのWGBH(放送局)に航空便で送る、といった具合であった。当時(1969年)、東芝の最高性能のカラーエンコーダーが950万円であることを小生は知っていたから、かなり無謀な計画だと思ったが、ナムジュン・パイクの言葉から察するに「彼はこれに自分の将来を賭けている」ということがはっきり分かっているのでNOとは言えなかった。小生はN.J.を助けると、その場で決めてしまった。…
ビデオアートの父とされるナムジュン・パイクと、エンジニアである阿部修也の双方の出会いは、新しいテクノロジーの可能性を芸術の領域で模索していく試みを拡張し、その後のビデオアートの潮流に多大な影響を与えたといえる。阿部は、この後1970年に自らも勤務先を退職して渡米し、パイクの作品の技術的側面を長期に渡り支援し続けることとなる。お互いの才能を評価して認め合うなか、揺るぎない信頼関係が新たな作品を生み出していったともいえるのではないだろうか。
また、これまでパイク作品における阿部の功績は、正当な評価がなされなかった側面もある。ナムジュン・パイクというビデオアートの歴史のなかで唯一無二の存在が強烈な個性を持っていたことも事実ではあるが、これまで公の場で阿部自身がパイクと自らとの関係性について積極的に話す機会が少なかったこともその理由として挙げられるだろう。先述の2013年5月に《パイク・アベ・シンセサイザー》が復元公開される4ヶ月前、中京大学の幸村真佐男研究室(当時)にて、阿部自身によるシンセサイザーの実演が行われた。それまで阿部がこのような復元による公開の場を設けることはなく、それはパイクとその作品に対する敬意の表明でもあったと考えられる。しかしながら、残された作品の保存状態や今後の機材の修復について考慮した際、パイク亡き後、その当時の姿を再現する必要性が強く求められていることを阿部自身も痛感していたといえるだろう。
阿部によると、1970年から72年夏までに製作した《パイク=アベ・ヴィデオ・シンセサイザー》は3台であり、その後、パイクと阿部が教鞭を執ったカリフォルニア芸術大学(Cal Arts : California Institute of the Arts)の学生とともに小型版の製作がなされた(※9)。現在稼働するものは2008年に開館した韓国のナムジュンパイク・アートセンターに存在しており、トラブル用の代替機も別途保管されている。また、日本では映像作家の瀧健太郎(1973-)が保有している。
その後、2013年度第17回文化庁メディア芸術祭(2014年2月5日から2月16日まで開催)にて、阿部修也はこれまでの功績が評価され、功労賞を受賞する。受賞理由には、ナムジュン・パイクへの技術的支援だけではなく、その対等な関係性やコミュニケーションにより、パイクの思想の根底を常に深く理解しようとした姿勢が評価された (※10)。これに対し、阿部自身は非常に謙遜した態度を示し、恐れ多いとくり返し述べていた(※11)。受賞により、メディア芸術祭の会場でも《パイク・アベ・ヴィデオ・シンセサイザー》は展示の機会を得た。その後、上述のように2014年6月から開催されたICCでも復元展示される等、この1年間を通じて多くの人々がその歴史を目の当たりにすることができるようになった。
こうしてパイク亡き後に、改めて脚光を浴びるようになった《パイク=アベ・ヴィデオ・シンセサイザー》について振り返る際、今後の方向性について示唆的な出来事がある。それは、これまで自らの貢献について多くを語らなかった阿部修也が、先述のICCでの展示に際して記載した解説に記された一言から推測できる。
…この2台(筆者補足:現在動作中のヴィデオ・シンセサイザー)の名はN.J.死後製作のためAbe.SYNTHとする(※12)。
つまり、阿部はこの執筆文において、これまでの《パイク=アベ・ヴィデオ・シンセサイザー》と、パイク亡き後のシンセサイザーを《アベ・シンセサイザー》とすることで、明確に切り分けることにしたのだ。これには大別して2つの理由が考えられる。第一に、パイクの死後、自らが製作したものはパイクの意志によるものではないため敬意をもって別のものとした点、そして第二に、パイクとの共同作品という枠を取り外すことで、将来のヴィデオ・シンセサイザーの後継者に可能性を与えたと予測される点である。
私見ではあるが、現在残されたヴィデオ・シンセサイザーが《パイク=アベ・ヴィデオ・シンセサイザー》であり続ける以上、様々な著作権等の権利関係や保存に関する問題が発生することが十分に考えられる。しかしながら、阿部が単独で製作したものであれば、そのような制約にとらわれる必要性は低くなる。既に日本に存在する《アベ・シンセサイザー》を瀧健太郎に委ねることで、その将来を今後の映像作家に阿部は託したのではないだろうか。もちろん、現存する機材の確保や、将来のメンテナンスを考慮した際、個人が所有し続けることは容易ではない。ただ、テクノロジーの変容により、既にブラウン管モニターを用いて再現することが困難になった部分については、デジタル技術によるアナログ表現のシミュレーションを施すといった試行錯誤が却って可能になってきている(※13)。作品のオリジナル性を担保することは重要な課題ではあるが、同時に、今後の動作性についても様々な状況を予測し、検討していくことが映像作品では特に求められている。その意味では、この先も多くの人々が作品と出会える機会を得られるように、阿部はパイクと自らの名前を切り分けることを選んだといえるのではないだろうか。それは、阿部だからこそ実現可能な、パイクに対する最大の友情と尊敬の証でもあると考える。
阿部修也はナムジュン・パイクの作品製作において、かけがえのないパートナーの一人であった。そして、阿部の語るパイク像を通じて、時には作家の声、そして作家が意識的に語ろうとはしなかった別の側面がみえてくる。それは作家や作品に向き合う際、ともすれば客観的になることを見落としてしまいがちな研究において、第三者的視点の重要性を再度気付かせてくれる機会も与えてくれる。日本におけるビデオアートの学術的研究はようやく活発になりつつあるが、引き続き多様な人々との関わりとその功績を足がかりに、今後の研究の糧としていきたい。
齋藤理恵(早稲田大学)
※1 様々なシンポジウムと並び、ビデオアートに関しては以下の主要文献の邦訳が出版された。
Spielmann, Yvonne “Video. Das reflexive Medium”. Frankfurt an Main: Suhrkamp, 2005. (イヴォンヌ・シュピールマン著;海老根剛監訳、柳橋大輔・遠藤浩介訳『ヴィデオ──再帰的メディアの美学』、東京:三元社、2011).
Meigh-Andrews, Chris “A History of Video Art: The Development of Form and Function”. Berg, Oxford and New York, 2006.(クリス・メイ=アンドリュース著;伊奈新祐訳『ヴィデオ・アートの歴史──その形式と機能の変遷』、東京:三元社、2013).
またナムジュン・パイクの妻、久保田成子による以下の回顧録も邦訳出版されている(原著は2010年出版)。
久保田成子・南禎鎬著 ; 高晟埈訳『私の愛、ナムジュン・パイク』、東京:平凡社、2013年.
※2 瀧健太郎(監督)・NPO 法人ビデオアートセンター東京(企画・制作)『キカイデミルコト──日本のビデオアートの先駆者たち』2013年、現代企画室.
本ドキュメンタリー映画パッケージには、ビデオアートセンター東京並びに著者が編集した「ビデオアートの先駆者たちとその周縁図」として、ドキュメンタリーに登場する作家を含めた膨大な人物や事象の相関関係を視覚化したリーフレットが同梱されている。
※3 本企画は早稲田大学総合人文科学センター「イメージ文化史」部門主催、表象・メディア論系・早稲田大学川口芸術学校共催の公開講座として、2013年5月28日に早稲田大学大隈小講堂にて行われた。
※4 本講座の詳細な報告は、草原真知子によりREPRE19号にて行われている。下記より参照可能:
http://repre.org/repre/vol19/topics/02/
※5 阿部修也「最終的なパイク=アベ・ヴィデオ・シンセサイザーのまとめ」(NTTインターコミュニケーション・センター『オープン・スペース2014』への寄稿文、2014年6月10日執筆)。
※6 Paik, N. J., ‘Versatile Color TV Synthesizer’, In J. Rosebush, ed. “Videa 'n' Videology”. New York: Syracuse, 1973. なお、本文は1969年の段階でパイクが記載したものと考えられる。詳細は下記より参照可能:
http://www.vasulka.org/archive/4-30d/Videa(1000).pdf
※7 邦訳は福住治夫(編)『ナム・ジュン・パイク タイムコラージュ』、東京:ISSHI PRESS, 1984, 67頁参照。Wooster, Ann-Sargent., “Nam June Paik: Granddaddy of Video Art”. Museum Magazine (New York), May/Jun, 1982.より。
※8 『オープン・スペース2014』は、NTTインターコミュニケーション・センターで2014年6月21日から2014年3月8日まで開催。なお、2014年8月8日、ニューヨーク近代美術館(MOMA)で1973年から2013年までキュレーターを務め、日本のビデオアートにも深い造詣を持つバーバラ・ロンドン(Barbara London)によるスペシャル・トークがICC内で行われ、阿部修也もゲストとして登壇した。
※9 阿部修也, op.cit.
※10 第17回文化庁メディア芸術祭
下記より参照可能:http://j-mediaarts.jp/awards/special_achievement_award?locale=ja
※11 阿部修也と直接交わした会話内容を基にしている。
※12 阿部修也, op.cit.
※13 デジタル・テクノロジーによって、アナログのシグナルフローを完全に再現することは不可能であるため、ここでは「シミュレーション」という表現を用いている。しかしながら、阿部修也によれば、ナムジュン・パイクは《パイク=アベ・ヴィデオ・シンセサイザー》製作初期から、そう遠くないデジタル・テクノロジーの時代を予見しており、このためアナログ表現のオリジナリティを維持することに固執してはいなかった。このパイクの作品に対する価値観については、さらに研究を深めていきたい。
シンセサイザーをチューニングする阿部修也(早稲田大学にて、2013年5月、謝天撮影)
早稲田大学でのパフォーマンス風景(謝天撮影)
NHK教育テレビ『日曜美術館──現代美術のスーパースター ボイス、パイク展から』(1984年6月24日放送)にて、1984年6月2日に草月ホールで行われたナムジュン・パイクとヨーゼフ・ボイスによる「2台のピアノによるコンサート・パフォーマンス」
*NHKアーカイブス 学術利用トライアル研究IIに基づいて、NHKアーカイブスより提供された資料
公開講座終了後の様子(謝天撮影)
文化庁メディア芸術祭での展示準備風景(筆者撮影)