第9回大会報告 パネル7

パネル7:Le temps différé─デリダ歿後10年─|報告:松田智裕

2014年7月6日(日) 16:30-18:30
東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム1

パネル7:Le temps différé─デリダ歿後10年─

痕跡と切迫──デリダの差延論と決定の思考
吉松覚(京都大学)

力の差異としての歴史の構想──デリダのハイデガー、ニーチェ読解から
島田貴史(東京大学)

『資本論』の亡霊たち──ジャック・デリダと柄谷行人のマルクス読解をめぐって
唐橋聡(東京大学)

【コメンテーター】宮﨑裕助(新潟大学)
【司会】吉松覚

「Le temps différé─デリダ歿後10年─」と題されたパネル7では、吉松覚氏の司会のもと、島田貴史氏、唐橋聡氏含む以上3名による発表が行われた。コメンテーターは宮崎裕助氏が務めた。

2014年、私たちはデリダ歿後10年という大きな契機を迎えている。本パネルは、そうした転換点にあたり、彼の思想に同時代的であることができなかった若い世代、つまり「遅れてきた世代 Le temps différé」によるデリダ思想への応答である。その主要テーマはデリダにおける「時間と差異」であり、各発表者はそれぞれの立場からこの問題を追求していった。当日は、多くの質問が飛び交うほどの大盛況だった。

吉松氏は、「差延」という戦略概念のもつ「遅れ」と「切迫」の2つの側面を取り上げた。現前の形而上学における目的論的時間性を内側から突き崩す「差延」は、なによりもまず「遅れ」として特徴づけられるが、この「遅れ」は単なる時間的な遅れではなく、「切迫」という位相をも孕んでいる。ここから、デリダ独自の時間モデルを再構成できるのではないか。このような視点から氏は、様々なテキストを参照しながらこれら2つの連関を跡づけ、そこにデリダの「自由」への問いを看取することができると結論づけた。

島田氏は、デリダの構想した「力の差異としての歴史」を取り上げた。デリダは、形而上学の歴史をめぐってニーチェ・ハイデガーと対峙するなかで、それを「諸力の強弱の差異の歴史」として理解する視点を得る。こうしたデリダの立場は、歴史を力の強弱によって紡ぎだされる仮象の歴史=物語と捉え、そしてそれを支える力そのものの次元を開くことにある。その反面、デリダの言説そのものもまた仮象となる危険を孕んでいる。氏は、これを踏まえたうえでなお、デリダのエクリチュールのもつ力を問い続けることが重要であると強調して論を閉じた。

唐橋氏は、デリダと柄谷行人それぞれのマルクス読解が共鳴する地点を取り上げた。柄谷においてマルクスの価値形態論は、普段は抑圧されてはいるが、資本制経済の背後で商品価値の同一性を生み出している無意識的な形式として理解される。そして、彼が「恐慌」のなかに抑圧された価値形態の病理的な前景化を見いだすとき、柄谷はマルクスのなかに、デリダの「グラマトロジー」や「憑在論」と共鳴するような問題を見て取っていたのではないか。このような観点から、氏は柄谷の試みを「貨幣のグラマトロジー」と呼び、それをデリダの「原−エクリチュール」や『マルクスの亡霊たち』の「悪魔払い」の問題へとつなげていった。

コメンテーターの宮崎氏は、まずデリダと同時代的でないからこそ可能となる読解があると述べ、本パネルの試みを高く評価した。それに加えて、各発表者に対して本質的なコメントもなされた。吉松氏には、「遅れ」と「切迫」からなるデリダの時間論が下敷きにしているものとしてハイデガー・ブランショにおける死の問題との関係があることを示唆した。島田氏には「力の差異としての歴史」というデリダの構想が贈与論やエコノミーの問題とも連関していることを指摘した。そして唐橋氏には、柄谷のマルクス解釈が記号論的な観点から価値形態論を読解したJ=J・グーの解釈とどのように区別されるのかと問いを投げかけた。

会場からも、デリダにおける「超越論的なもの」の地位や「空間性」の問題、さらにはデリダ・柄谷がマルクスのなかに見いだしていた可能性等々、有意義な質問が多数寄せられた。これらはいずれも重要な問題であり、各発表者もそれに即座に応答できない場面もあったが、質疑それ自体は十分活発になされた。

「時間と差異」という観点からデリダ思想を再考し、改めてその射程と意義を焙りだそうという試みは興味深いものではある。だが「差異」の側面を強調するあまり、「同じもの」に関して踏み込んだ考察がなかったことが個人的に残念でもあった。たしかに、デリダは差延やアナクロニーの議論を展開する際、しばしば目的論や同一性を批判する。だが彼においては、純粋な同一性と同様に、純粋な差異もまた斥けられる以上、同一でも差異でもない「同じもの」という視点から時間論を考えることも必要ではないだろうか。だがそれが「遅れてきた世代」たちの提題をとおして浮かび上がってきた「課題」であるという点で、彼らの報告が大いに刺激を与えるものであったことは疑いない。

松田智裕(立命館大学)

【パネル概要】

ジャック・デリダが歿してから10年が過ぎようとしている。当パネルは、デリダの歿後に研究を始めた、つまりある意味で「リアルタイムではない(en temps différé)」世代の研究者が彼の思想に応答しようと試みるものである。そしてまさにこの応答の企図は、彼の思想に一貫する差異化(différenciation)と時間化(temporalisation)の問題について、デリダの内在的読解に始まり、彼の歴史への態度の検討を経由して、その思想の持つ不可視の可能性の中心に迫っていくことである。

吉松発表では、デリダの主要概念、「差延」の遅れと切迫という一見矛盾する二側面について、『法の力』の前半部におけるアポリアを範例に、時間論の見地から検討する。

島田発表では、デリダのハイデガー読解とニーチェ読解を端緒として、彼の構想していた「力の差異としての歴史」に焦点があてられる。

最後に唐橋発表では、デリダのマルクス読解(『マルクスの亡霊たち』『マルクスと息子たち』)と、柄谷行人のマルクス論とを引き比べ、『資本論』をデリダ、柄谷両者の考えていた時間化と差異化の問題の結節点に位置付けることで、デリダが指摘することのなかった、『資本論』における亡霊たちの形象を浮かび上がらせる。

以上を通じてデリダの思想における時間・歴史の問題を検討することで、この思想そのものをどのように歴史のなかに位置づけうるのかを明らかにすることが当パネルの課題である。(パネル構成:吉松覚)

【発表概要】

痕跡と切迫──デリダの差延論と決定の思考
吉松覚(京都大学)

ジャック・デリダの思想は端的に、差延などの哲学素に代表されるような「遅れ」の思想と形容されることがある。だがしかし、このことはただ単に遅れてしまうに任せるということを指すのではない。寧ろ、デリダ自身が、差延そのもののために切迫しているとさえ言っている。われわれは本発表で、差延の持つ「遅れ/切迫」というこの二側面を、1980年代以降のデリダによる政治論──とりわけ『法の力』第一部を範例とする──における「決定不可能性」と「決定」という、一見相矛盾するかに見える二つの要素の関係と類比的に検討していく。具体的には、初期以来の痕跡の亡霊化と遅れ、そして決定不可能性という側面については最晩年のデモクラシー論における繰り延べ的脱自を補助線に据えて思考する。さらに、差延の切迫、決定の切迫という側面についてはブランショ論や、ハイデガーを読解した時間論、さらにはアナクロニーについて言及したマルクス論を参照し、差延と切迫の関係を探っていく。これらによって、遅れと切迫、決定不可能性と決定はなぜ差延という一つの概念のうちに共存するのかを明らかにする。

以上の議論から、無限の正義や責任という問題、無限なものに対するわれわれの有限性とその境界画定というデリダの哲学的企図をわれわれは浮き彫りにするだろう。同時に、所謂「政治的転回」を決定づける著作と見做されてきた『法の力』に、転回点ではなく初期と後期の「結節点」としての位置づけを与えることを試みたい。

力の差異としての歴史の構想──デリダのハイデガー、ニーチェ読解から
島田貴史(東京大学)

本発表では、デリダが断片的に書き遺した、可能と不可能、強さと弱さが交換される〈力の差異としての歴史〉に向けて、彼がどこまで議論を進め、どのような構想を抱いていたか、彼のハイデガー、ニーチェ読解から追跡する。

ニーチェの生を全体化することでニーチェを生物学主義から救うハイデガーが、同時に人間主義を再導入したことをデリダは明かす。ニーチェに存在史の思惟を禁じるハイデガーによる人間主義の再導入にこそデリダは、動物の歴運的現象(存在が贈られ(zuschicken)かつ宙吊りにされる(エポケー)歴史としての歴運(Geschick)同様、人間主義的観点のみによる動物の現象)を読み込む。生物学主義からの救出を可能にしたものが人間主義の回避を不可能にするこの歴運を、我々は、デリダがハイデガー読解によって示した〈力の差異としての歴史〉として読むことができる。

他方で、ニーチェ読解も、ハイデガー読解と呼応するようにデリダによって継続されていた。〈力の差異〉は、力への意志の差異、つまり意志の自己との非同一性を意味し、デリダが晩年に序説を書いた〈嘘の歴史〉におけるse mentirの問題の背景を成すと考えられるからである。ここにもまた、〈力の差異としての歴史〉の構想を我々は見出す。

最後に我々は、〈力の差異としての歴史〉の構想の一部として断片的に配置された他の論点に接続し、デリダがそれへ向けどこまで議論を進め、どのような構想を抱いていたか、明らかにする。

『資本論』の亡霊たち──ジャック・デリダと柄谷行人のマルクス読解をめぐって
唐橋聡(東京大学)

デリダが明示的なかたちでマルクスに取り組み、その「継承」を指向したのは、90年代以降の後期の著作『マルクスの亡霊たち』『マルクスと息子たち』においてであった。だが、ロゴス中心主義、音声主義の脱構築を試みた60年代の仕事、とりわけ『グラマトロジーについて』のなかに、いわば「マルクス的契機」というべきものを見ることができる。

本発表では、まず、柄谷行人によるマルクス論(『マルクスその可能性の中心』『トランスクリティーク』)を参照しながら、自己同一的な言語記号のなかに時間化としてのエクリチュールを見いだすデリダ(『グラマトロジーについて』)の眼差しと、商品の謎を異なるもの(相対的価値形態と等価形態)の等置としての「価値形態」のなかに見るマルクス(『資本論』)の眼差しを、相同的なものとして位置づけることを試みる。その過程で、ルソーとソシュールを同時に相手取るデリダの立ち位置と、ベイリーと古典派経済学への二重の批判において商品を考えたマルクスの立場が、相反するものの「あいだ」に立つ思考として共鳴していることを示す。

続いて、『マルクスの亡霊たち』で提示された「亡霊」の« out of joint »としての時間性を『資本論』読解の問題として検討する。『グラマトロジーについて』におけるエクリチュールの問題と柄谷の「恐慌」に照準するマルクス読解を経由することで、デリダのマルクス論を批判的に継承し、『資本論』のなかにデリダが示さなかった亡霊の契機を跡づける。