第9回大会報告 | パネル1 |
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2014年7月6日(日) 10:00-12:00
東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム1
パネル1:鳥をめぐる想像力、周縁への感度
絶望の淵の「希望」と「暴力」──目取真俊『虹の鳥』考
崎濱紗奈(東京大学)
「父」なるものの受容、そして転換──大江健三郎作品における「鳥」の表象に注目して
菊間晴子(東京大学)
(音)風景を与える──鳥を書き分けるブランショ
高山花子(東京大学)
【コメンテーター/司会】田中純(東京大学)
「鳥をめぐる想像力」の問題は多岐に渡る。翼を持ち、空を飛び、囀りを発する鳥たちは、古代から現代まで、西洋東洋を問わず、様々な場面で憧憬の対象となったり、神のような超越的存在と人間の媒介者の役割を担った。本パネルは、モーリス・ブランショ、大江健三郎、目取真俊という、それぞれ地域も時代も異なる三人の作家による文学作品を、そこで特権的な役割を果たしている「鳥」をキーワードに考察しようとするものであった。パネルには「周縁への感度」という言葉が題されているが、パネル構成者の高山花子氏は、本パネルは、「鳥」を周縁の存在と見なすというよりも、むしろ、中心としての「鳥」に注目することによって、それまで見えなかった周縁を前景化させ、新たな考察を加えようとするものだと述べた。
フランスの作家・批評家モーリス・ブランショの最初の小説作品『謎のトマ』には、1941年に出版された初版と、それをおよそ三分の一になるまでに大幅に削減した1950年の新版の二つがあるが、高山氏の発表は、前者から削除された部分を視野に入れつつ、後者における鳥の描写に注目し、分析を試みるものであった。そもそも『謎のトマ』には多くの生物が登場するが、その中で、鳥以外の生物たちが「翅鞘のない蜻蛉」や「盲目の蟇蛙」などというように、種そのものが明らかにされず、不完全な動物として現れるのに対して、鳥たちは、しばしば、郭公、鵲、ヒバリ、ナイチンゲールといった種別に書き分けられ、かつ、鳴き声を発し、飛び交う正常な動物として登場する。さらに、例えば、「郭公は、ものが聞こえない彼(引用注:主人公トマ)の耳のために、途方もなくすばらしい歌を歌っていた」というように、これらの鳥は、トマとその恋人アンヌとは接触を持たず、距離を保ったまま存在するものとしてあらわれる。高山氏は、このような鳥たちが『謎のトマ』に与える、単に「イメージ」という言葉には収まらない、聴覚的要素を含み得るものを「(音)風景」と呼び、このような視座から『謎のトマ』を分析する可能性を提唱した。
菊間晴子氏は、大江健三郎の連作短編集『新しい人よ眼ざめよ』(1983)の内の一篇「蚤の幽霊」において、主人公「僕」が見る、ウィリアム・ブレイクの作品に触発された夢に注目する。そこで、成人を前にした知的障害を持つ息子イーヨーは、ブレイクの版画作品「喜びの日(グラッド・デイ)」におけるアルビオンと同様の美しい肉体を持って現れ、「ミソサザイ」という鳥の姿をした「僕」は、自分の姿を見るために息子の眼を覗き込もうとするところで目覚めてしまう。菊間氏は、この神話的ヴィジョンにおける「鳥」を読み解くにあたって、『個人的な体験』(1964)における、知的障害を持って生まれた息子をめぐって苦悩する主人公「鳥(バード)」をはじめとする初期の大江作品の「鳥」を参照し、それらが、「父なるもの」の記号、より広くは1945年以前の戦中の時代の影を指し示す記号でもあり、嫌悪され、排斥されるべき抽象的な存在であったと述べる。しかしながら、イーヨーのモデルである大江の息子・光が幼年期に鳥の声に関心を持ったことにより、「鳥」は、親子のコミュニケーションの可能性を開く具体的な存在へと変容し、その中でも、「溝にすむ小さな鳥」という意味の名称を持つ「ミソサザイ」は、四国の故郷「谷間」で幼年・少年時代を過した大江自身の生と深く結びつくものであったと菊間氏は考える。以上のような、父子の関係と連動した「鳥」が約20年の間に被ったバシュラール的「想像力」による「歪形」を跡付けることで、菊間氏は、「蚤の幽霊」における夢を、『個人的な体験』の最後において「鳥(バード)」が自身の赤ん坊の眼に映った自己像を見ようとする場面の再演であると述べた。
崎濱紗奈氏が扱うのは、沖縄生まれの作家・目取真俊による長編小説『虹の鳥』(2004)である。1995年の米兵による少女暴行事件以降、沖縄は、もはやデモや集会といった従来型の政治的行動を重ねても現状を動かし得ないという意識が広まり、「敵‐味方」という明快な対立関係の成立しない、「闘争」の可能性が予め封殺された状況となったが、崎濱氏は『虹の鳥』を、このような閉塞状況に「裂け目を刻もうと試み」た作品として捉える。本小説において、ギャング・グループの手下として働く主人公カツヤは、クスリ漬けにされ、ほぼ生きる気力を失った空ろな少女マユを預かり、彼女に売春させるのだが、その少女マユの背中に彫られている頭に傷を負った「虹の鳥」は、彼女が他者へ暴力を発動するとき、鮮やかに浮かび上がる。崎濱氏は、このようなグロテスクであると同時に美しい「虹の鳥」は、かつて、祖国復帰運動という戦後沖縄最大の「闘争」の中で幻視された「日本」に重ね合わすことの可能な、沖縄における絶望感、苛立ちを解放する「希望」の表象であるが、それは、既存の暴力構造を拒否しながらも、「闘争」の果てに幻視される存在であるという、ダブルバインド的な性格を持っていると指摘し、さらに、それが琉球独立論のアポリアと重なり合う可能性について述べた。
コメンテーターの田中純氏は、まず高山氏の発表に関して、『謎のトマ』の鳥の叙述と、セイレーンたちの最も強力な武器は人を惑わせる歌声ではなく沈黙であったとする、カフカ「セイレーンの沈黙」(1917)との共通性を見出し、ブランショの後の著作『来るべき書物』(1959)を視野に入れた上で、ブランショにおけるセイレーンをめぐる想像力と鳥という主題との関係について問うとともに、高山氏が「(音)風景」に対して用いた「小さな奥行き」という言葉に注目し、そのような空間性を視野に入れたさらなる論の発展への期待を述べた。
次いで、菊間氏の発表には、『個人的な体験』の最後の場面と、「蚤の幽霊」の夢の両者において、主人公は鏡としての息子の眼を通して自分の姿を見ようとしており、そこには、父親の息子に対する不安だけでなく、父親自身の狂気、性的な欲望への恐れがあったことを指摘した。また、イーヨーと父親は、神話的な夢においてはアルビオンとミソサザイに対応しているが、その一方で、性的な欲望を持つ息子を「蚤の幽霊」とするならば、それに対する父親は、子殺しのアブラハムではないかと述べ、「蚤の幽霊」を分析するにあたっては、そのような父子関係の「暗黒面」をも押さえておくことが必要なのではないかと述べた。
また、崎濱氏の発表に対して、田中氏は、「虹の鳥」がアセファル的な、強烈な、凄まじい暴力のイメージでありながらも、最後まで美しい多彩色のイメージとして描かれている点から、結局のところ「虹の鳥」は、テロリズム的な暴力を美化し、閉塞状況における人々を慰撫するイメージと考えられるのではないかと述べ、それがどのような現実的な効果を持ち得るかという疑問を投げかけた。
残念ながら、会場からの質疑とそれへの応答は、時間の都合上極めて限られてしまったが、高山氏の発表に対して、沈黙の問題や、「(音)風景」という概念の今後の展望についての質問や、このような音や声の問題がブランショの最初の小説に見られることの意義、『謎のトマ』以外への敷衍の可能性等々の指摘があった。
今回の三発表は、各々の文学作品における「鳥」という表象に注目することで、これまでの研究では得られなかった独自の思考の可能性を開くものであったと言えよう。ここで行われた議論、得られた知見をより広く敷衍してゆく余地はかなり大きい。各々の作品の成立年の差に開きがあるとは言え、現代における「鳥をめぐる想像力」、こと文学における「鳥」の表象の持つ機能の問題系を、本パネルは模範的なかたちで提示することができたのではないだろうか。
原瑠璃彦(東京大学)
【パネル概要】
テクストに描かれる鳥を、どのように読み解くことができるだろうか。鳥のさえずり、はばたき、飛翔、色彩。古来、先史にさかのぼる頃から、鳥をめぐる想像力は、宗教、神話、芸術のさまざまな局面で作用してきた。かつて言葉を話すとさえ思われていた鳥は、脊椎動物と一般に理解されるが、その進化の過程をふくめ、鳥の生態・分類は21世紀のいまなお謎をはらみ、生物学の進展とともに変わりつづけている。地域および歴史を横断する数え切れない程の姿かたち。つまびらかとならない鳥とその周縁性に向かう契機は、テクストにおいても、多ジャンル・文化における鳥の表象の氾濫、過去の言説の蓄積と相乗して増加している。本パネルが接近を試みるのは、決して鳥が主題ではないにもかかわらず、目立たない形で、しかし確かに現代のテクストに描かれる周縁的な鳥たちとなる。暴力をめぐる問い、精神分析的な問い、あるいは言語をめぐる問いをめぐり、ときに変容する形で息づく鳥がいる。それらは動物なのか、あるいは人間の分身であるのか、そもそも生命を持つものなのか──。そのような、単なる象徴に還元されることを拒むかのような謎めいた鳥たち、鳥を巡る系譜学からは零れ落ちてしまいそうな不気味な漂白物にあえて分析の軸を置き、テクストを再読する。目取真俊、大江健三郎、モーリス・ブランショをつなぎながら、現代における鳥をめぐる想像力、周縁への新たな感度を探りたい。(パネル構成:高山花子)
【発表概要】
絶望の淵の「希望」と「暴力」──目取真俊『虹の鳥』考
崎濱紗奈(東京大学)
本発表では、目取真俊の長編小説『虹の鳥』(2004)を中心に「希望」と「暴力」の関係について考察する。前嵩西一馬が指摘するように、我々は『虹の鳥』の中に、掌編小説『希望』(1999)以降目取真が執拗に問い続けてきた同一の主題を発見する。その主題とは、既存の権力構造の打破を企図して発動される暴力を巡る問いである。
麻薬漬けにされ、売春を強要される少女マユ。売春を統括し、絶対者として君臨する比嘉。比嘉の命令に絶対服従し、マユを管理するカツヤ。マユの背中に彫られた虹の鳥は、比嘉からの脱出不可能性という絶望の淵に立つカツヤにとって唯一つの「希望」への手がかりとして表象される。ここで鳥は決して無条件に美しいものではなく、むしろ、べとついた血腥い臭気をまとっている。二つの作品の背景には、1995年に発生した沖縄米兵少女暴行事件がある。『希望』において「今オキナワに必要なのは、数千人のデモでもなければ、数万人の集会でもなく、一人のアメリカ人の幼児の死なのだ」と語られた言葉は、『虹の鳥』において「八万五千の人々に訴えている少女の姿は美しかった。だが、必要なのは、もっと醜いものだと思った。少女を暴行した三名の米兵たちの醜さに釣り合うような。」というカツヤの呟きに橋渡しされる。
本発表は、鳥を「希望」と「暴力」を読み解く鍵とし、昨今高まりつつある「琉球独立」論をはじめとした現代沖縄思想を考察する一助となることを目指す。
「父」なるものの受容、そして転換──大江健三郎作品における「鳥」の表象に注目して
菊間晴子(東京大学)
大江健三郎の連作短編集『新しい人よ眼ざめよ』(1983)の中の一篇、「蚤の幽霊」には、ウィリアム・ブレイクの詩に触発されたある神話的ヴィジョンが示されている。主人公は、障害を持つ息子がアルビオンのような美しい肉体によって霊的な特性「イーヨー」を彼に啓示する一方で、自身は小さな野鳥の姿をとって霊的な特性「ミソサザイ」を啓示する情景を夢に見る。すなわちこの作品では、「ミソサザイ」という「鳥」が主人公のセルフ・イメージとして描かれているのだ。また大江がそれ以前に発表した作品の中にも、「鳥」のイメージは印象的に用いられている。例えば短編「鳥」(1958)には主人公を取り巻く亡霊のような「鳥」達が登場するし、『個人的な体験』(1964)の主人公には文字通り「鳥(バード)」という名が与えられている。作者である大江自身の姿が色濃く投影された主人公と「鳥」のイメージとは、作品を追うごとにその関係を変化させつつ密接に絡み合ってきた。そこで本発表では、初期から1983年までの大江作品における「鳥」の表象に注目し、「ミソサザイ」が主人公のセルフ・イメージとなるに至るまでの過程を分析する。大江の「鳥」をめぐる想像力に焦点を当てることで、幼年時代の彼に忘れ得ぬ傷を与えた「父」なるものと執筆活動を通して対峙し、自身もまた実生活で「父」となるという転機を経ながらそれと苦闘し続けた彼の生の軌跡を読み解いてみたい。
(音)風景を与える──鳥を書き分けるブランショ
高山花子(東京大学)
ウグイス、ヒバリ、ミミズク、カササギ、カッコウ、インコ、カラス…。モーリス・ブランショの作品『謎のトマ』(初版1941、新版1950)には、いくつもの鳥の名が現れる。ときに「鳥たちles oiseaux」「一羽の鳥un oiseau」とも示されながら、樹上で歌い、叫び、あるいは羽ばたく鳥の描写が散在する。作品中に描かれる動物をめぐっては、既に先行研究において指摘されているように、登場人物トマとアンヌの蜘蛛や猫、虫への変容といった人間と動物の境域の問題、あるいはそれにともない顕在化する死の問題との関わりが大きな位置を占めるように思われる。それに比すると、新版では描写が大幅に削減される鳥は、登場人物たちとの直接的な接触をほとんど持たず、ある種の距離感をもって描かれていることは否めない。一方で、トマがかつて自らの声が鳥のようであったと終盤で示唆する箇所もあり、鳥の扱いが広域に渡る点は注目に値する。総称と種名の書き分けに伴う描写の相違、その表出の頻度の落差はほかの動物より顕著であり、固有の姿形、鳴き声などを視覚的にも聴覚的にも断続的に想起させ、物語中に(音)風景を遠近感とともに与えるかのようだ。本発表では、初版と新版の異同を踏まえ、鳥をめぐる筆致をほかの動物と比較しながら分析することで、筋書きの不透明なこの作品にブランショが展開した動物のいる世界、生態系を読み解く一助とすることを試みる。