新刊紹介 | 翻訳 | 『アート建築複合態』 |
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瀧本雅志(訳)
ハル・フォスター(著)『アート建築複合態』
鹿島出版会、2014年5月
アートと建築の複合状況を批判的な視点から論じた2011年刊行のハル・フォスターの評論集。そこに働いているのは、美術批評や美術史研究の対象となるアートの領域が、もはやますます自明ではなくなっているという危機意識である。フォスターから見ると、昨今のグローバルな資本主義(とりわけ、そこでのポスト産業的な「デザイン」)の中で、アートの専門領域の曖昧化は、いっそう成し崩し的に進行している。よって、まずは現状認識として、そうしたアートの自明性の溶解をとりわけ昂進させているアイコン化・画像化・彫刻化した現代建築群が分析の的とされることになる。序文に続く最初の章で論じられるのは、レイナー・バンハム、スミッソン夫妻、アーキグラムやヴェンチューリ等の「イメージの建築」である。そして、それに続く第1部の3つの章では、リチャード・ロジャース、ノーマン・フォスター、レンゾ・ピアノの建築が検討されるが、フォスターは、それらに共通して見られる新たなるモダニティの様式を、「インターナショナル・スタイル」ならぬ「グローバル・スタイル」と命名している。
第2部では、アートが出発の鍵になった建築家たち(ザハ・ハディド、ディラー&スコフィディオ+レンフロ、ヘルツォーク&ド・ムーロン等)が取り上げられている。また、ミニマリズムやインスタレーションとリンクした1970年代以降の新手の美術館建築の流れがトレースされる。かつてロザリンド・クラウスは、「拡張=展開された領野における彫刻」という有名な論文を書いた(1979年)。フォスターもまた、60年代のアートの「拡張=展開された領野」を問い直し、それをアート建築複合態(の加速)の淵源として、史的に捉え返そうとしている(それはまた、先述の通り(第1部に先立つ)第1章では、建築の側から、「第一ポップ時代」とでも言うべき時期以降の複合態の系譜としてトレースされていた)。もっとも、フォスター自身が明言するよう、そこではクラウス流の記号「論理的」な「拡張=展開」だけが問題なのではない。むしろそれ以上に、文化や社会や経済の中でメディウム間の差異の複合や布置の変容を動的に問うのが、フォスターの採るベクトルなのだ。そうした問題意識から、第3部では、リチャード・セラの「彫刻」、アンソニー・マッコールの「フィルム」、ジャッド、フレヴィン、タレル、アーウィンらの物体そして/あるいはイメージが、「ミニマリズム以降のメディウム」の状況として分析される。というのも、The Return of the Realでもはっきり明示されたように、フォスターにとっては、ミニマリズムが「拡張=展開」の発現する急所であったからだ。
こうしてフォスターは、アートや美術批評や美術史研究の危機=批評ばかりでなく、芸術諸ジャンルの境界がメルトダウンした文化や社会の危機=批評、ひいてはそれと連動した主体の危機=批評も、本書で問おうとしている。それが、グローバルな資本主義下での建築とアートの関係を大きな論点のひとつにして行われているという意味では、本書は、2002年の『デザインと犯罪』の続編だとも言えよう。また、フォスターは、(「抵抗のポストモダニズム」も含めた)ポストモダニズムの失墜以降のアート建築複合態の展開を、モダニズムがポストモダニズムへと転回する60年代の急所へと立ち戻って問い直している。それゆえ、そこでは、モダニズムとポストモダニズムの二重の事後状況が強く意識されながら、「拡張=展開」した批評の可能性が賭けられているのである。そして、目下の危機的状況の中での対抗的な動きもまた、いくつか注目されているのだ。本書では、序文に続き、第1章が置かれ、次に各3章からなる3つの部が展開される。そして、第3部に続く最終章は、第1章「イメージの建築」と、3つの部を挟んで対置されるかのようにして、「イメージに抗する建設」がテーマとなる。この最後の章は、リチャード・セラへのインタビューになっている。このように本書は、アート建築複合態のオールタナティヴも、また開こうとしている。(瀧本雅志)