新刊紹介 | 編著/共著 | 『こども映画教室のすすめ』 |
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土田環(編)
『こども映画教室のすすめ』
春秋社、2014年5月
大学の教員として、教壇に立つようになって数年が経とうとしている。学生に対して無責任な話でしかないのだが、教える立場になればなるほど、ますます映画について語るすべが分からない。そもそも、私自身、人に「すすめ」られて観た映画で、面白いと思った記憶があまりないのだから言っても始まらないのだが、この作品を見なければならないといったように、親からも大学院時代の指導教官からも強くいわれたことはなかったし、映画史の教科書を読みながら、観た映画に印を付けていったこともない。私にとって、映画とは、「ふと映画館に入って観るもの」であり、そうして出会った映画との記憶の方が、「学習」を意識して観た映画よりも、強く心に残っている。だからこそ、教科書や学校から想起される映画のイメージは、居心地の悪いものでしかないのだ。
本書の企画は、映画に魅せられた「大人」が、映画を「こども」に伝えることの困難を前にして、その戸惑い自体を共有したいという想いから生まれた。役に立つ映画史や映画制作の知識が述べられているわけでもなければ、映画教育の手法を効率的に学ぶことができるわけでもない。映画監督、映画館主、大学教員など、執筆者がそれぞれに固有のフィールドで思考しようと努めたのは、映画のまとう物質的な表情にどのように感応しうるのか、その驚きへこどもたちをどのように誘っていくのかという問いにある。
従来の教科教育の枠組みではすくいきれない「人間形成」や「コミュニケーション能力」の向上といった側面で映像教育の活用が期待される一方、その運用が一律であれば、かえって、映画の魅力は失われかねない。「映画による教育」だけでなく、これまで論じられてこなかった「映画のための教育」についても考える場を持たなければ、映画はただの教育の「手段」になってしまう。まず、映画を観る楽しさや作る楽しさから始めたい。こどもたちの「成長」は「目的」ではなく、あくまでも、その副産物なのである。映画を「メディア」「エンタテイメント」「アート」などの個別の役割に還元してしまうことを避けて、あえて、映画そのものから出発して、議論をより重ねていくべきではないか。映画そのものを論じる教育の在り方を、いま一度、問い直す必要がある。(土田環)