新刊紹介 | 編著/共著 | 『陶酔とテクノロジーの美学 ドイツ文化の諸相 1900-1933』 |
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高橋宗五、田中純、長木誠司(分担執筆)、長谷川晴生(訳)
竹峰義和(共編)
『陶酔とテクノロジーの美学 ドイツ文化の諸相 1900-1933』
青弓社、2014年6月
有機的全体性と一体化することがもたらす熱狂的な陶酔と、テクノロジーによってすべてを合理的に統御しようとする冷徹な志向。たがいに相反する両ベクトルのあいだの弁証法的葛藤という観点を軸に、世紀転換期からヴァイマール時代をへて、ナチス体制へといたるドイツの社会と文化を多角的に考察するというのが、この論集の企図である。
そこでは、文学(ホーフマンスタール、ベン、デーブリーン)、音楽・音楽論(シェーンベルク、P・ベッカー)、演劇(ラインハルト)、映画(『カリガリ博士』、『メトロポリス』)といった芸術ジャンルや表現メディアだけでなく、哲学(ベンヤミン、ブロッホ、ヴァールブルク)、心理学(フロイト、フィレンツィ)、さらには政治運動(ナチズム)にいたるまで、さまざまな対象が扱われるが、そのなかでつねに浮上してくるのが、大衆化と機械化による〈個〉の解体というモティーフである。最新鋭のテクノロジーがもたらす圧倒的な速度やリズム、匿名かつ巨大な人間集団としての大衆が孕みもつ強烈なエネルギーに晒されるなかで、あらゆる主体的統御が消失し、自我の境界が根底から揺らいでいくという新たな知覚経験。とりわけ両大戦期間のドイツの芸術家や思想家たちは、近代社会がもたらしたそのような脱自的な契機のうちに、美学的・政治的な解放のための潜勢力を積極的に見出そうとする一方、愚劣な大衆や機械技術の統御しえない力に個々人が盲目的に隷属していくという暗鬱なヴィジョンを呈示する者も少なくなかった。そして、ナチスによる暴力支配は、〈個〉の解体という近代的な現象のひとつの極限的な帰結を示しているといえるだろう。
本書に収録された各論考は、大衆/技術、個/集団、機械/身体、熱狂/覚醒といった対概念をしばしば手がかりとしながら、陶酔とテクノロジーが複雑に織りなす布置状況の一端を解明しようとする。いささか硬派なテクストぞろいであるが、この時代のドイツの社会や芸術文化に関心をもつ方はもちろん、テクノロジーや陶酔にまつわる問題系について思考を深めたい方にぜひ手に取ってもらいたい。(竹峰義和)