新刊紹介 | 単著 | 『フーコーの美学 生と芸術のあいだで』 |
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武田宙也(著)
『フーコーの美学 生と芸術のあいだで』
人文書院、2014年3月
本書は、フーコーが晩年に提唱した「生存の美学」を切り口として、その思想全体を美学の観点から体系的に捉え返した研究書である。「生政治」や統治論に近年関心が集まる中、フーコーの芸術論は彼の思想史研究を補完する傍流的問題系として扱われることが多い。それに対し本書は、60年代の文学論・絵画論のうちにフーコーのライフワークを貫く思想的基盤を観取しつつ、それが後期の主体論や倫理の系譜学において、いかに「生存の美学」あるいは「生の作品化」といった中心的概念へと継承、展開されたかを読み解いていく。
フーコーにおいて「生存の美学」という言葉が含意するのは、自己の生を美的に洗練させることではなく、創造的に形成され変形され得るものとしての自己といかに関わるかという実践の問題であるが、筆者は各時代におけるフーコーのイメージ論やエクリチュール論を辿りつつ、この実践の場が、「感性的なもの」と「倫理的なもの」の交わる「外の美学」と呼ぶべきトポスに他ならないことを説得的に示していく。
ブランショやルーセルの文学的言語をめぐる初期の考察に始まり、「エートス制作的」技術としての「ヒュポムネーマタ」および「書簡」へと帰着するエクリチュール論の系譜、またベラスケス、マネ、マグリットの絵画をめぐる周知の論考から、ポール・ルベロルやジェラール・フロマンジェの絵画、シュレーターの映画、デュアン・マイケルズの写真といった同時代の視覚芸術にアクチュアルに感応した70年代以降の批評までを広く扱う本書は、フーコーの芸術論を一望する上で格好の案内書を成している。と同時に、ときにフーコー論の枠を超え、「外の美学」をドゥルーズ=ガタリをはじめとする現代フランス・イタリア哲学へと接木するその考察は、ペルニオーラの言う「この上なく美学的な時代」である今日において主体論が置かれている思潮そのものを映し出している。(大池惣太郎)