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シンポジウム「うまくいく」ことの倫理と技術
学会員が編集と執筆に参加した『ディスポジション——配置としての世界』の刊行を記念するシンポジウムが行われました。
『ディスポジション』刊行記念シンポジウム 「うまくいく」ことの倫理と技術
6月21日(土)14:00-17:00
代官山・ヒルサイドプラザ(東京都渋谷区猿楽町29-18 ヒルサイドテラス内)
岡崎乾二郎、小林康夫*、藤村龍至、柳澤田実*、萱野稔人、染谷昌義、大橋完太郎*、平倉圭*、天内大樹*(*は学会員)
以下は門林岳史さんによる報告です(REPRE編集部)。
*6月21日、『ディスポジション——配置としての世界』(柳澤田実編、現代企画室)出版を記念して、「「うまくいく」ことの倫理と技術」と題されたシンポジウムが代官山ヒルサイドプラザにて開かれた。「disposition」——配置・傾向性・気質など、多義性に向けて開かれたこの言葉は、近代合理主義とそれが拠って立つ主客二元論を批判するべく、この本のなかで執筆者たちが提示している概念である。つまり、この概念によって目指されているのは、存在者たちがそれぞれに傾向性を孕みながら関係しあい、そうすることで世界のなかで一定の配置をかたちづくっていく有様を、二元論が前提とする主従関係に還元することなく、その複雑さを保ったまま記述することなのである。ある領域に埋め込まれた様々なエージェントが、一見それぞれ別個に活動しているように見えながら、しかし全体としては「うまくいって」いる、そういうことはどうして可能なのか。こうした問題構成を捉えるために提案された「ディスポジション」というこの概念は、したがって、「うまくいく」ための技術への問いを即座に要求しているし、また、さらには、世界が「うまくいく」こと、私たちの生が「うまくいく」ことの倫理を模索するための指標にもなりうるだろう。シンポジウムにおいては、そうした「ディスポジション」の問題構成について、まず編者である柳澤田実氏から、サッカーのゲームにおける様々なセッティングがつくりだす身体の配置を例に説明され、続いて執筆者を代表して染谷昌義氏と萱野稔人氏が、それぞれ生態心理学、スピノザ哲学の立場からディスポジションの哲学の可能性についてコメントした。
それに続いたのは三名のゲストからのプレゼンテーションとコメントである。まず、一人目のゲスト、建築家の藤村龍至氏は、「BUILDING K」(2008年)を中心に自作を紹介しながら、プロジェクトを規定する諸々のルールを発見し、それらを形態の複雑化として具現化していく自らの設計プロセスを、「ディスポジション」という考え方と響き合うものとして提示した。続く美術家の岡崎乾二郎氏のコメントは、キュビズムと第一次世界大戦の関係をめぐるガートルード・スタインの記述、初期ルネッサンスの芸術家にして軍事技術者フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニの多彩な活動、ロバート・ラウシェンバーグの作品に見られる自律したシステムの均衡など、多岐にわたるトピックを取り上げるものであったが、それらを通じて氏が示そうとしたのはつまるところ、ディスポジションをそれとして提示しようとするとそれ自体ひとつのコンポジションになってしまうというアポリアであったように思う。そして、最後のゲスト、小林康夫氏は、ディスポジションとして世界を把握するという構想の先に必要となってくるのは、そうした世界に再び介入する作業ではないか、と述べながら、自ら介入の身振りで、刊行された本に収められた個々の論文を論評してみせた。ここでは、とりわけ柳澤氏の論文「イエスの〈接近=ディスポジション〉」に反応して、介入者としてのイエスというモティーフが提起されたことを書き留めておきたい。
これらの刺激的な発言を受けて始まった総合討議のセッションにおいては、会場からの問題提起を受けて、「教育」というテーマが大きな問題として浮上することになった。それは言い換えれば、「うまくいかない」という事態に対して、ディスポジションの観点からどのような思考が、そしてどのような実践が可能なのか、という問いにほかならず、おそらくこれこそが、「うまくいく」ことの技術と倫理が最大限の試練にさらされる局面であろう。もちろん、即座に答えを出すことのできる問題ではないが、議論の過程でいくつかのヒントが与えられていたように思う。萱野氏が的確に指摘したように、ディスポジションとして捉えられた世界には原理的に外部は存在せず、それが「うまくいく」ようにするための介入も、内部からのディスポジションの変更としてしかなしえない。そして、そうした再配置の作業は、同じく定義上、終りがない(おそらく「芸術作品」とは、こうしたディスポジションの際限なさを断ち切ってコンポジションへと飛躍する契機のことではないか)。このことは、ディスポジションを生態心理学の観点から捉えた場合には、それは世界が無限の探求可能性に向けて開かれていることを意味する、という染谷氏のコメントと、ニュアンスを変えながら響きあっていたように思われる。ディスポジションに終りがないということ。そのなかにとどまって、延々と探求し、発見し、配置換えを続けることができる(あるいはそうするほかない)ということ。そのことに希望を見出せるかどうか、さらに言えば、そうした希望をどのように具体的な実践として組織することができるのか、おそらくそれが、「うまくいく」ことの技術を倫理へと転じうるかどうかの分かれ目となるのではないだろうか。(門林岳史)