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「哲学と芸術における目と眼差し」報告
Recensione a “Occhi e sguardi nella filosofia e nelle arti”
International Congress, Eyes and Gazes in Philosophy and Arts
Rome, March 2-3, 2015, University of Rome Tor Vergata with Kyoto University (Japan)
Monday, March 2
09.00-09.30 Welcome Message: Lazzaro Rino CAPUTO (Delegato del Rettore per la Cultura, Università di Roma Tor Vergata)
Opening Remarks: Giuseppe PATELLA, Atsushi OKADA
Session 1 – Chair: Atsushi OKADA
09:30-10.00 Hideki SABAE (Kansai University, Osaka) La politica del ritratto: una riflessione di Koji Taki
10.00-10.30 Giuseppe PATELLA (Università di Roma Tor Vergata) Eyes Wide Shut. Lo sguardo, lo schermo, il quadro
10.30-11.00 Hiroyuki KOMATSU (Kyoto University / JSPS) L'immagine del pittore a Napoli tra Sei e Settecento
Session 2 – Chair: Ayako IKENO
11.15-11.45 Genta OKAMOTO (Okayama University) The Savage Eye and the Image of Nature: From the Anthropology of Images to Aesthetics of Nature
11.45-12.15 Roberto TERROSI (Tokyo University of Foreign Studies) Perché gli dei non hanno sguardo: immagine versus sguardo
12.15-12.45 Moe FURUKAWA (Kyoto University / JSPS) Looking out from the Vasari Corridor: Giorgio Vasari, the Arno, and the Gaze of the Ruler
12:45-13.30 General Discussion
Session 3 – Chair: Roberto TERROSI
15.00-15.30 Vincenzo CUOMO (Direttore rivista kaiak) Arti senza sguardo: una cartografia delle poetiche non simboliche
15.30-16.00 Satoru YOSHIMATSU (Université Paris Ouest-Nanterre La Défense) Tear, the Veil. On Blindness in Derrida's Aesthetics
16.00-16.30 Claudia COLOMBATI (Università di Roma Tor Vergata) Riflessioni sulla musica e l'immagine sonora
Session 4 – Chair: Genta OKAMOTO
16.45-17.15 Ako KATAGIRI (Kyoto University) Mito contemporaneo: l'invisibilità della trascendenza e il linguaggio mitico nel pensiero di Luigi Pareyson
17.15-17.45 Marie SATO (Kyoto University of Education) Al di là del viso: lo sguardo del prósōpon
17.45-18.15 Toshihide KURIHARA (Kyoto University) Lo sguardo del figlio. Migrazione e immaginazione nella letteratura di Carmine Abate
18.15-19.00 General Discussion
Tuesday, March 3
Session 5 – Chair: Giuseppe PATELLA
09.30-10.00 Giovanni SALMERI (Università di Roma Tor Vergata) Che cosa si vede in un'icona? Un problema nella storia della teologia cristiana
10.00-10.30 Atsushi OKADA (Kyoto University) Ut pictura kinesis: teoria della pittura e teoria del cinema
10.30-11.00 Paolo D'ANGELO (Università di Roma Tre) Lo sguardo delle statue
11.15-11.45 Rossana BUONO (Università di Roma Tor Vergata) Sguardo pubblico. Public art e scempi visivi
11.45-12.15 Ayako IKENO (Tokyo University / JSPS) Volo e caduta: l'immaginazione cartografica nell'arte contemporanea
12.15-12.45 Michiko OKI (University College London) Making it Intelligible: Art and Violence in the Nuclear Age in Postwar Japan
12.45-13.30 General Discussion and Conclusion
去る3月2、3日ローマ大学トル・ヴェルガータでシンポジウム「哲学と芸術における目と眼差し」が開催された。本シンポジウムは、イタリアの美学関連のシンポジウムとしては、日本人研究者が揃い踏みをした初の機会である。これまで日本人研究者は、概して東洋学研究の領域に追いやられてきた。この観点からして本シンポジウムは、日本人は日本の文化について話すべきで、ドイツやフランス、アメリカの研究者がしているように文化一般やイタリアの芸術文化について語るべきではない、という「人文学(humanities)」の領域に潜むオリエンタリズムの偏見を乗り越えようとした、重要な一歩であったと言えよう。こうした先入観は自然科学の領域には存在しないが、興味深いことに、そうした偏見に対してもっとも批判的であろうとするはずの人文学にあっては根強いのである。われわれ組織側が望んだのはまさしく、伝統的な日本文化の魅力という軛から日本人が自由になることであった。日本文化の魅力は、歴史的にみて、ある時期には日本にとって有益なものであったが、今や日本人研究者がヨーロッパやアメリカの研究者たちと同じ土壌にあがる際の障害になりさえしているのである。以上の前置きを述べた上で、内容に移ることにしよう。このシンポジウムが画期的だったのは、イタリアと日本のアカデミアに対話の道を開いた点にあるだけではなく、美学とヴィジュアル・スタディーズ──日本においては表象文化論という名前で呼ばれている──の両者にまたがって関心をもたれるような内容を扱った点にあるだろう。議論の中心になった眼差しとは、つまり、美術史とカルチュラル・スタディーズ、哲学と芸術、視覚芸術と映画、主体と客体の交差点にあたる。こうした理由からして、本会は1990年代に生じたヴィジュアルのブームのあと、不安に満ちた停滞期を通過しようとしているヴィジュアル・スタディーズの問いにたいして、現時点での参照点を示す機会になった。
こうした地平で、複雑な現状に尺度を与えるような様々な観点が比較検証された。まず基本的なこととして、理論的・方法論的問いに関する発表と、特殊な事例に焦点を当てた発表とを区別する必要があるだろう。一般的にはそれは、教授と若い研究者のアプローチの違いを示すものだが、別の事情を思い出しておかねばならない。すなわち、日本とイタリアのアカデミアの慣例の違いである。日本では学会の大会や会合が博士課程在籍者や若手研究者のデビューの機会となるため、少数の教授たちと多数の若手が出席する点に特徴がある。その一方で、イタリアでは伝統的に博士課程在籍者や駆け出しの研究者は、何らかの出版物を通じて認知されるまでは概してシンポジウムや大会からは排除されている。このため、この会合でも、多くの若い日本人研究者が出席する一方で、中堅以上のイタリア人大学教授らの「客席」が見受けられた。この区分は、議論の性格にも現れていた。日本人であれイタリア人であれ、概して教授たちは一般的な理論的問題を扱うことを好むのに対し、若手は多かれ少なかれ自分の論文の議論に関連した個別のケースを扱う。とはいえそれは、個別の事例を扱った研究が、理論的なものより面白くないということではない。総じて、このシンポジウムでは、共通の立場にもとづいた満場一致の声が聞かれたわけではなく、必ずしも互いに相反しない様々な視点のあいだの豊かな討論が生まれた。いや、むしろそれらは往々にして、さまざまな側面に関心を払いつつも補完的で相互に互換可能な立場なのである。
ここまで述べた上で、全般的なことからまずは岡田温司の発表へと話を移すことにしよう。岡田は、このシンポジウム全体のキーパーソンであった。岡田にとって眼差しとは、まずもって、絵画と映画のあいだの「接合線/ハイフン(trait d’union)」である。岡田は、まさしく眼差しに捧げられたマイケル・パウエルのカルト的映画『血を吸うカメラ(Peeping Tom)』に議論の手がかりを見出す。パウエルがヒッチコックの弟子であることは偶然ではない。この映画を通して岡田は、映画の三つのメタファーを明らかにする。すなわち、投影(窓)と、皮膚、そして鏡である。それらは、絵画の本性についての三つの名高い概念にわれわれを送り返す。つまり、影の輪郭としての絵画、表面としての絵画、反射としての絵画である。このようにして岡田は、主体の問題と眼差しの関係ではなく、映画的イメージと絵画的イメージのステータスに焦点をあてる。一方、主体と眼差しの関係が中心的な主題となったのは、ジュゼッペ・パテッラと筆者(ロベルト・テッローシ)の発表においてであった。パテッラは、ラカンを引き合いに出すことで眼差しを脱主体化し、「もの」の眼差しについて語る。この眼差しこそが私たちの注意を「もの」へと向けさせるのだ。他方、筆者の発表において眼差しとは、英米のヴィジュアル・スタディーズのうちに残る主体のパラダイムと、ある種の大陸的伝統の特徴──そこでは、脱主体化されたイメージが存在論的中心性を占める──との対比における関数である。いずれにせよ、これらの発表では、脱主体化の視点にたいする共通の関心が示されており、それは他の発表にも看取することができる。ここからすると、他の三つの発表がとりわけ興味深い。まず、パオロ・ダンジェロの発表を紹介しよう。ダンジェロは、自身がヘーゲルと観念論の研究者でありながら、一部の人々によって大陸の文化主義の起源と見なされうるヘーゲルの考えを批判する。というのもヘーゲルの考えは、新古典主義の美的モデルに影響をうけている点で単純に間違いであるからだ。ヘーゲルは古典的彫刻には眼差しがないと考えたが、ダンジェロによれば彫刻は眼差しを有しているのである。もう一つの重要な発表は、ジョヴァンニ・サルメリによるものである。キリスト教思想史の研究者であるサルメリは、イコノクラスムをめぐる名高い問いを再び取り上げ、ここ数十年の専門的研究の知見を踏まえて、イメージをめぐる当時の論争に新たな光を投げかけた。サルメリは、『カロリング文書』のようにこれまでどちらかといば等閑に付されてきたテクストについての掘り下げた研究によって、東方世界のなかには、西方とは異なり、イコン破壊(イコノクラスム)とイコン崇拝という対立が完全に含みこまれているということを明らかにした。対する西方教会は、イコン破壊とイコン崇拝の両者から距離をとる。イメージが聖なる価値を持つか否かを理解するために、イメージに対してある種の批判的距離をとるのである。つまりこう言ってよければ、西方教会はすでにその時代から、美的アプローチを取っていたのだ。このような概念的枠組みにおいてとりわけ重要であったのは、岡本源太による発表だ。岡本は、イメージの力をめぐるデイヴィッド・フリードバーグとルイ・マランの理論を俎上に載せる。対峙するかに見える二人の理論のうち、岡本は、マランとともに、フリードバーグの根本的に心理主義的な立場を批判する。しかし、岡本の議論はそうした批判からさらに先へと進み、ベルトラン・プレヴォーの理論を手がかりに、歴史的・文化的領域を抜け出て自然の領域へと至るのである。自然の領域にあっては、動物とイメージ(それは、たとえば皮膚の擬態や求愛の羽の色彩など、さまざまな目的に役立つ)の関係は、意識的な主体の意志という歴史的・文化的領域をはっきりと越え出ている。鳥は、自ら意図して自身の羽を作り出したりなどしない。このような点で、岡本の解釈もまたイメージの力に関して、主観的で心理学的な意味を抜け出て、脱主体化された考え方へと向かい、文化的行為の領域の先へと進む。それは、脱主体化された概念という点で、パテッラの発表と、とりわけ筆者が提起した模倣の解釈に再び結びつくことになるのである。さらに、ヴィンチェンツォ・クオーモの発表もまたこうした全体の流れのなかで想起されるだろう。クオーモは、とくにベンヤミンの語るショックの利用を支持する。ショックの利用は、歴史的・社会的に登場することになった一連のショックに対して、われわれを備えさせるという意図せざる効果を持っている。そのようなショックの登場が歴史的アヴァンギャルドとその後のネオアヴァンギャルドの時代を特徴づけているのは偶然ではない。このような場合にあっては、芸術家や観者の意識的意図を越えた非人称的機能が引き起こされることになる。
その他の発表は、大きくわけて二つのグループと、位置づけが難しいいくつかの事例からなった。第一のグループは、ヴィジュアル・スタディーズによる文化研究から明らかに影響を受けたグループである。イタリアの一般聴衆にはほとんど知られていない著述家、多木浩二についての鯖江秀樹の発表、ヴァザーリの回廊の政治的機能についての古川萌の発表、それに17世紀ナポリのメタ絵画をめぐる小松浩之の発表がこのグループにあたるだろう。第二のグループには、アリギエロ・ボエッティとロバート・スミッソンの事例を通じてネオアヴァンギャルドの地図製作学的眼差しを論じた池野絢子、パブリック・アートの議論含みの介入に目を向けさせ、現在のイタリアにあって優勢なストリート・アートの潮流に注目を促したロザンナ・ブオーノ、さらにフクシマ以後の現代美術における放射能汚染という切迫したテーマに問いを投げかけた大木美智子がいた。
最後に、これらとは異なるものの興味深さでは劣らないその他の発表に言及しよう。クラウディオ・コロンバーティは、音楽と視覚の関係を論じる発表を行った。佐藤真理恵は、プロソポンについての自身の研究から出発して、デモクリトスの視覚理論について興味深い検証を行い、眼差しの脱主体化の理論について別の観点を導き出した。片桐亜古は、ルイジ・パレイゾンの象徴的想像力の議論を再考し、吉松覚はデリダの議論を引き継ぎつつ、眼差しの否定、すなわち盲目性から眼差しの問題に対峙した。 最後に、栗原俊秀は移民の眼差しという現代的な問題を、脱臼されたアイデンティティという観点から論じた。(ロベルト・テッローシ/翻訳:池野絢子)
Nelle giornate del 2 e 3 marzo scorso si è tenuto a Roma, presso l’università di Tor Vergata il convegno “Occhi e sguardi nella filosofia e nelle arti”. Questo convegno è il primo convegno di estetica in Italia che vede una massiccia presenza di giapponesi, i quali solitamente vengono relegati agli studi orientali. Da questo punto di vista tale convegno rappresenta un significativo passo in avanti nel superamento del pregiudizio orientalista secondo il quale nelle humanities i giapponesi devono parlare della cultura giapponese e non della cultura in generale o della cultura artistica italiana come già fanno invece tedeschi, francesi e americani. Questo preconcetto che non esiste nell’ambito scientifico si è curiosamente mantenuto proprio nell’ambito umanistico che vorrebbe essere il più critico verso tali pregiudizi. Ma la nostra intenzione di organizzatori era proprio di sottrarre i rapporti con gli studiosi giapponesi allo straripante fascino esercitato dalla tradizione culturale giapponese che, se in certi momenti storici è stato benefico per il Giappone, oggi rischia di trasformarsi in un ostacolo alla considerazione degli studiosi giapponesi sullo stesso piano dei loro colleghi europei o americani. Fatta questa premessa veniamo ai contenuti. Questo convegno infatti non è innovativo solo per questa particolare apertura di un dialogo filosofico tra accademia italiana e giapponese, ma anche per i suoi contenuti relativi a quell’ambito che interessa l’estetica e i visual studies che qui in Giappone va sotto il nome di cultura della rappresentazione. Il discorso era incentrato sullo sguardo e cioè su un punto di snodo tra storia dell’arte e cultural studies, tra filosofia e arte, tra arti visive e cinema, e tra soggetto e oggetto. Per questi motivi tale conferenza è stata un’occasione per fare il punto della situazione riguardo alla questione degli studi visuali che sta attraversando un periodo di stasi e di profonda incertezza dopo il boom del visuale negli anni ’90.
Su questo terreno si sono confrontati vari punti di vista che danno la misura di quanto la situazione sia complessa. Per prima cosa occorre fare una distinzione fondamentale e cioè quella tra gli interventi che si occupavano di questioni teorico-metodologiche e gli interventi che si focalizzavano su casi specifici. Questo è in generale il discrimine che ha marcato la differenza tra gli approcci dei professori e quelli dei giovani ricercatori. A questo riguardo occorre ricordare anche un’altra circostanza e cioè la presenza di due usanze accademiche diverse in Giappone e in Italia. Infatti se in Giappone i convegni e le riunioni delle società accademiche sono occasione di debutto dei dottorandi e dei giovani ricercatori e quindi sono caratterizzate dalla presenza di tanti giovani studiosi con pochi professori, invece nella tradizione italiana i dottorandi o i giovani alle prime armi di norma sono esclusi da convegni e congressi fino a quando non si fanno notare per qualche loro pubblicazione. Quindi in questo incontro, da una parte si trovavano molti giovani studiosi giapponesi e dall’altra parte un parterre di maturi professori universitari italiani. Questa divisione ha inciso anche sul tono dei discorsi. Infatti i professori in generale sia italiani sia giapponesi hanno preferito trattare questioni teoriche di ordine generale, mentre i giovani si sono concentrati sul riferimento a casi particolari collegati per lo più all’argomento della propria tesi. Questo non significa che questi ultimi interventi fossero per questo meno interessanti. Nel complesso ciò che ne è emerso non è stato un coro unanime in cui si evidenziava una posizione comune, ma un ricco dibattito tra punti di vista diversi non necessariamente in contraddizione tra loro. Anzi molte volte si è trattato di posizioni compatibili e complementari che si interessano ad aspetti diversi.
A questo punto non mi resta che offrirvi una carrellata delle posizioni generali a partire da quella di Atsushi Okada che è stato il personaggio chiave di tutto il convegno. Per Okada lo sguardo è innanzitutto il trait d’union tra pittura e cinema. Egli prende spunto da un film proprio dedicato allo sguardo che è Peeping Tom, un cult movie di Michael Powell, allievo non a caso di Hitchcock. Attraverso questo film egli mette in evidenza tre metafore del cinema: la proiezione, la pelle e lo specchio, che ci rimandano a tre ben note concezioni sulla natura della pittura e che sono: la pittura come contorno d’ombra; come superficie; e come riflesso. Okada si concentra dunque sullo statuto dell’immagine cinematografica e piitorica, non sul rapporto dello sguardo con la questione del soggetto. Tale questione, invece, è centrale negli interventi di Giuseppe Patella e di chi scrive. Nel primo, Patella, ricorre a Lacan per desoggettivare lo sguardo parlando di uno sguardo delle cose che ci richiama verso di loro. Da parte mia invece ho considerato lo sguardo come funzionale a un paradigma del soggetto che permane all’interno dei visual studies angloamericani in opposizione a una centralità ontologica dell’immagine desoggettivizzata che caratterizza una certa tradizione continentale. Resta comunque l’interesse comune per un punto di vista desoggettivizzato che si può cogliere anche in altri interventi. Da questo punto di vista assumono un particolare interesse tre altri interventi: il primo è quello di Paolo D’Angelo che sebbene si sia affermato come studioso di Hegel e dell’idealismo critica la concezione di Hegel che per certi può essere considerata all’origine del culturalismo continentale bollandola semplicemente come erronea in quanto influenzata dai modelli estetici del neoclassicismo e che attribuisce alla scultura classica un’assenza di sguardo che secondo lui invece c’è. Un altro intervento significativo a tal riguardo è quello di Giovanni Salmeri, studioso di storia del cristianesimo, che ha ripreso la nota questione dell’iconoclastia alla luce degli studi specialistici degli ultimi decenni, i quali gettano una nuova luce sulla questione dell’immagine dibattuta in quei secoli. Egli cioè spiega come lo studio approfondito di un testo relativamente trascurato come i Libri Carolini, metta in evidenza come l’opposizione tra iconoclasti e iconoduli fosse tutta interna al mondo orientale laddove invece la Chiesa occidentale prendeva le distanze da entrambi, proponendo già allora un approccio che potremo definire estetico, che pone una sorta di distanza critica verso l’immagine a partire dalla quale si tratta di comprendere il suo valore sacrale o meno. In questo quadro concettuale particolarmente significativo è stato l’intervento di Genta Okamoto che ha ripreso in esame la questione del potere delle immagini che vede opporsi le teorie di David Freedberg e Louis Marin e critica con Marin la posizione fondamentalmente psicologistica di Freedberg. Ma il discorso di Okamoto si spinge ancora oltre. Infatti grazie alle teorie di Bertrand Prévost esso sconfina dall’ambito storico culturale per trapassare in quello naturale dove il rapporto tra animali e immagini (di cui essi si servono per vari scopi come il mimetismo della pelle, il piumaggio colorato per il corteggiamento ecc.) eccedono chiaramente l’ambito storico culturale di una volontà soggettiva e comunque cosciente. L’uccello non costruisce da sé e volontariamente il proprio piumaggio. Da questo punto di vista anche nella lettura di Okamoto si passa da un’accezione soggettiva e psicologica del potere dell’immagine a una concezione tanto desoggettivata da andare oltre il dominio delle azioni culturali, che la ricongiunge all’intervento di Patella e in particolare all’interpretazione memetica da me proposta. Infine su questo tenore può essere ricordato anche l’intervento di Cuomo, soprattutto laddove sostiene che l’uso dello choc di cui parlava Benjamin ha l’effetto involontario di prepararci a tutta una serie di choc storici e sociali che hanno caratterizzato non a caso il periodo delle avanguardie storiche e poi delle neoavanguardie. In questo caso si vengono a determinare delle funzioni impersonali che vanno oltre le intenzioni coscienti dell’artista e dello spettatore.
Per quanto riguarda il resto degli interventi questi possono essere divisi in due grandi gruppi più alcuni casi più difficilmente inquadrabili. Possiamo dire che c’è un primo gruppo influenzato evidentemente dalle ricerche culturali dei visual studies. A questo gruppo possiamo riferire gli interventi di Hideki Sabae, su Koji Taki autore poco conosciuto al pubblico italiano; quello di Moe Furukawa sulla funzione politica del corridoio del Vasari; quello di Hiroyuki Komatsu sulla meta-pittura nel Seicento napoletano. All’altro gruppo possiamo assegnare gli interventi di Ayako Ikeno sullo sguardo cartografico nell’arte delle neoavanguardie attraverso il caso delle opere di Smithson e di Boetti; quello di Rossana Buono che ha proposto una carrellata di interventi di arte pubblica discutibili e ha concluso riportando l’attenzione sulla street art tendenza dominante nell’arte italiana di questo momento; e poi quello di Michiko Oki che ha richiamato la questione scottante della tematizzazione della contaminazione nucleare da parte dell’arte contemporanea dopo i fatti di Fukushima.
Una menzione spetta infine ad altri interventi che pur essendo più a se stanti non sono per questo meno interessanti. Pensiamo a quello della Claudia Colombati sul rapporto tra musica e visione; quello di Marie Sato che oltre a ricordare le proprie ricerche sul prosopon conclude con un’interessante disamina delle teorie ottiche di Democrito che offrono da un altro punto di vista una teoria desoggettivata dello sguardo; quello di Ako Kataghiri che riprende la questione dell’immaginazione simbolica nel pensiero di Pareyson; quello di Satoru Yoshimatsu che riprendendo Derrida affronta la questione dello sguardo a partire dalla sua negazione e cioè dalla cecità e concludiamo con Toshihide Kurihara che ci ha riportato nei problemi contemporanei dello sguardo del migrante rispetto alla propria identità dislocata.
(Roberto Terrosi / traduzione: Ayako Ikeno)