小特集 | 各国の出版事情 | 韓国 |
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不具の知とパルチザン──韓国における人文社会系出版の現状について
金杭
現状は来歴を持つ。歴史はその来歴の多声性を汲みつくすことができない。むしろその試みを断念するところで歴史は可能となる。だが断念の対価は高い。来歴を断念することは現状そのものを思考から消し去り、虚構の主体と空虚な言葉からなるナラティブに世界を託すことになるからだ。そのとき世界は経験を逸失する。経験がモノとコトからなる世界を全くの他者として無媒介に出会うことならば、歴史はモノとコトをあのナラティブに還元させることによってその他者性を抹消してしまう。したがって現状の危機を謳う言説に注意せねばならない。それは現状を構成するモノとコトの危機ではなく、モノとコトを飲み込んだ空疎なナラティブの危機である可能性が高いからだ。現状の危機はあまりにも容易に社会、国家、文化、産業「の」危機として流通し、件のモノとコトはいつのまにか思考の前景から退場するのである。
今、日本における人文社会系出版の現状は危機を迎えているらしい。ここ韓国も事情は似たようなものだと言える。人文社会系単行本の売り上げは減退するばかりで、文芸と思想系の雑誌は苦戦を強いられている。本や雑誌の担い手たる筆者群はみな劣悪な状況のなかで文筆から遠ざかろうとしているし、編集者といえば安月給で日々の生活を維持していくのが必死な状況にある。もちろん1,2年前から空前の人文学ブームではある。だが人文学ブームでホットな知は社会・国家・資本に適応するための道徳談義か、過酷な生の状況を耐え抜くための鎮痛剤でしかない。そうして、とても人文社会系出版とは呼べない代物が本棚の前面を飾ることになり、筆者も編集者もこれまで人文社会系の言説を担ってきた人々とは違った顔ぶれで、全く新しい市場が生まれている。韓国におけるかつての人文社会系出版、つまり学生と市民からなる「パルチザン」に批判の武器を提供したり、お互いと社会全体を巻き込んだ闘争の場を提供していた出版世界は、いまや過去の遺物になろうとしているのだ。
しかしこの現状を人文社会系出版「の」危機として捉えることは危機をさらに増幅させ深化させることにつながるだろう。というのも、そのような危機は新たに浮かび上がる市場によっていつの間にか克服されることになるだろうからである。それが人文社会系出版の危機と認識される限り、その「業界の危機」は道徳談義と鎮痛剤としての人文学によって克服されうるのだ。ゆえに問題は、危機を迎えているとされる現状を業界や言説界という主語に還元し克服策を模索するのではなく、危機にさらされた現状の来歴を問うことであらねばならない。だがそれは「どうしてこうなったか」という原因の分析などではない。来歴を問うとは現状を構成する不規則で偶然で一回限りの出来事からなる地層を探ることである。韓国の人文社会系出版の現状を問うことは、したがって、現状という言葉で馴らされることのできない多声性を経験することだと言える。
もちろんこの短い紙面でこのような大掛かりの課題に向き合うことはとうていできない。ただここでは「現状の危機」と言いながら安易にその克服や打開へと思考を向かわせることに異議を唱えることで多声性を経験する一つの可能性を暗示することに止めたい。
朝鮮半島に人文社会系出版(近代的な意味において)が途についたのは20世紀の初頭である。愛国啓蒙を謳いながら列強の侵略に立ち向かいながら民族の実力養成に励む目的だった。だが日本による植民地化の後、近代的なネーションを前提とするヨーロッパと日本経由の近代の知はショーウィンドーに飾られたきらびやかな展示商品に過ぎなかった。というのも、国家を前提とした近代法学は植民地を定義する法規範をついに見出すことができなかったし、母国語を自然化する文学談義に植民地文学を専有し思考しうる批評の居場所などあるはずはなく、民族と個人の間の弁証法を説破する歴史学は歴史を破壊され自由を剥奪された植民地の住民に過去から未来へと連なる時空の地平を開示できなかったからである。
韓国の人文社会系出版は、このような根源的な不毛を原体験として内在させながら現状に至っている。解放後においても近代の知が半島の民を一つのネーションとして、地を一つの国家として表象することは至難のわざだった。南北分断が近代の知が描き出す正常な身体という思念を断念させたからである。韓国の人文社会系出版は、その意味で、知と世界のあいだの不和を記しづける根源的な不具を体現していた。60-80年代の過酷な政治状況に立ち向かう勇敢なパルチザンたちに人文社会系の知が武器を提供できたのはこのためだった。知と世界の不和があるからこそ未来への展望が人文社会系の知のなかで垣間見れたからである。
しかし1990年代以降、いわゆる 「民主化」 と 「先進国化」 は人文社会系の知が不具を克服し「正常な近代の知」なるものへ様変わりすることを促すことになる。いまや分断は民の住処への蹂躙として受け止められることなく、二つの国民国家の成立と存続として「合理的に」処理されてしまう。独裁国家かつ開発途上国という規定はグローバリゼーションの波に乗った資本の膨張によって過去の苦難の歴史として片付けられる。そうするうちに人文社会系の知はいつの間にか自らの不具を忘却する。いつのまにか国家と資本を常数においた、社会的な設計を任務とする知へと様変わりしてしまったのである。
たぶん人文社会系出版が壊滅状態にある現状には、みずからの不具を克服し世界と調和しうる正常な知へと様変わりした知の来歴が内在しているのだろう。業界の危機はここに由来する。不和ではなく調和を求める知の変身に。しかし国家と資本を常数においた人文社会系の知に危機などない。世界との不和においてモノとコトを見いだせない知に危機を語る資格はないのだ。だから韓国の人文社会系出版の危機は克服や打開という展望のもとで語られてはならない。むしろそのような語りが壊滅を早める。現状の危うさは危機を語りながら知と文の不具を忘却するところにある。この状況から脱却する唯一の道は、世界との不和という知の根源的な危機と不具を奪還することでしかない。おだやかな市民に成り果てたかつてのパルチザンたちを呼び起こすためにも。
金杭(延世大学)