研究ノート | 高山花子 |
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ロジェ・ラポルトをたずねて─ビオグラフィと音楽のひと
高山花子
フランスの作家ロジェ・ラポルト(Roger Laporte, 1925-2001)の手稿がファタ・モルガナ社にあると直接ひとの口から聞いたのは、2013年12月のことだった。パリ3区のチュレンヌ通りの小さなカフェで、イタリア出身のフェデリコ・ニコラオは、いくつもの連絡先を教えてくれた。その一つが、時たま作品の献辞に名を見るラポルト夫人のものだった。二日考えて南仏モンペリエに住む彼女にメールを送ると、ひと月経って返事が届いた。何度かやりとりを重ねつつ、春先のパリで対面した。実際に、2014年6月初旬、彼の地に赴くと、そこにあったのは、執拗な、けれど軽やかな、日々のエクリチュールの繰り返しと堆積だった。
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昨秋出版されたカイエ・ドゥ・レルヌ誌のモーリス・ブランショ特集号に、ブランショからラポルトに宛てた手紙の抜粋、それも明け方自宅にかかってきた不可思議な悪戯電話の内容が掲載されていたように、ラポルトという人物と同時代人たちの交友関係は、ただ広いだけでなく、妙に親密であったことをうかがわせる。教授資格試験受験のために、毎週ビュトールやリオタールたちと古典語の勉強会をしていた話。ボーフレをめぐって深刻なトラブルの渦中にいた話。当時を回想するミシェル・ドゥギーが語る、ハイデガーも隣席して地中海料理を食べた話。ハイデガー講義のDVDのほか、販売されている特別CD-ROMを取り寄せると、生誕時から出棺時までのモノクロ写真に加えて、三人の子供や孫に捧げられた詩の朗読も収められている。彼をめぐって断片的に記されるエピソードから構成される人物像は定まらない。筆者がラポルトに出逢ったのは、何年も前、『災厄のエクリチュール』(1980)を読む授業に際し、原書の156頁に至ったときだったのか、いくつかの邦訳を手にとったときだったのか、おそらくほとんど同時だった。
作家として知られていないとはいえ、著作は三十冊を越え、文学だけでなく、絵画も含んだ評論ないしエッセイ集、日記形式のもの、それから600頁を超える『ひとつの生』(1986)にまとめられた、『不眠』(1963)から『モリエンド』(1983)に至るまでの、「ビオグラフィBiographie」、生の記述と分類された作品群——「書く」ということについてひたすら書かれているとしか表現できないもの——に大きく分かれる。ほとんどが絶版になっている。1960-70年代、レヴィナスやフーコー、ソレルスによって書評の対象となり、ジャン=リュック・ナンシーによって雑誌企画が組まれるなどしているが、フランス国内で彼に関するまとまった論稿は今に至るまで存在しない。物語られ、探究の的となる交友関係に比べると、地方都市のリセ哲学教師だった彼自身が、作家としてどのような位置づけにあったのか、彼自身のテクストがいかなるものであったのかについて、アクセスできる情報は乏しかった。この不可思議なギャップに筆者がとらわれているのは、隨筆めいているとはいえ、彼がブランショの著作における音響、とりわけ歌に、繰り返し、なにか核心を突く形で言及しているからであり、それがひいてはジャック・デリダの1970-80年代の作品群に描かれる「音楽」の奇妙なありようを読み解く手がかりになると思われたからだ。たとえばデリダの『絵葉書』(1980)に描かれる歌や音楽という表現のかかわり。『プシシェ』(1987)所収の「音楽の力のおかげで残るもの」(1979)はラポルト論である。バルト追悼文に見られる音楽の使われ方、あるいはツェラン論で研ぎ澄まされる歌と残滓をめぐる思考。彼らの中に、歌をめぐる思想が、連なるかたちであったのではないか。けれど、だとすれば、それはいかなるものなのか。邦訳や関連文献に導かれ、素朴に考え、少しずつラポルトを読み調べはじめた。ところが、ラポルトが志した「ビオグラフィ」というものが、彼らにおける独特の音楽という語と強く結びついていると同時に、通常伝記と呼ばれるものとはずいぶん異なる、生きることと書くことが一致する境地として措定されていると判明する。この辺りの経緯は、後述のマクラクランおよびアロヤスによる博論や、Ann Jefferson, Biography and the Question of Literature in France(Oxford University Press, 2007)に詳しいのだが、いずれにせよ、その生きることと書くことが音楽とともに思考されているという事態を捉えなければならない。
1950年代から、ランスの大聖堂を訪れる自伝的小説を執筆していたこと、そこに既にビオグラフィの萌芽が見られること、ハイデガーを経由して、ヘルダーリンやヘラクレイトスの思想を意識しつつ、ブランショだけでなく、デリダ、レヴィナス、ラカン等の影響を強く受け、1980年代まで文体が移り変わり、新たなジャンルを追求していたという網羅的な情報は、彼の試みが最終的に『テル・ケル』誌と結びつくものだったことも示唆するIan Machlaclanの博論をもとにした著作、Roger Laporte : The Orphic Text (Legenda, 2000)にまとめられている。彼はMaking Time (Rodopi, 2012)という著作の中でも『フーガ〔遁走曲〕』(1970)における時間の問題を論じているが、一貫してビオグラフィと音楽の係わりを実際の音楽ないしほかの音楽論との係わりでは深く追求しないというスタンスを取っている。それを補完するのが、音楽形式としてのフーガとラポルトのそれを照らし合わせるFédérique Arroyas, La lecture musico-littéraire (Les presses de l’université de Montréal, 2001)なのだが、実際のところ、ラポルトにおける「音楽」が何を指しているのかは、彼がほかにもモーツァルトに関するエッセイを取り留めなく書いていることなども鑑みて、総合的に読み解く必要がある。なにより、ラポルトの『カルネ』(Carnets (extraits), Hachette, 1979)には、「論文と日記…そして小説の統合が、どうして出来るというのだろう?」(1948年3月27日)、「小説=詩=音楽=哲学=小説。[…]詩=音楽だから、したがって、音楽とフィロの融和。」(1953年12月26日)といった記述もあり、ゆえに、日付を信じるならば、極めて初期から、彼にとって、新しいジャンルの創出の企図と、音楽は結びついていた。ラポルトにおけるビオグラフィの用法に関しては、ほかにソレルス『ロジック』(1968)において引用されるシャルル・ボードレールの記述との関連をMaclachlanが指摘している。付け加えると、それがブランショのマラルメ論経由であることが、ブランショ論である「パッション」の初版から見て取れる。第二版でそうした記述は尽く削除されるのだが、ビオグラフィを書くという意味で書くことを止めた1990年代に至って、ラポルトが「精神的な広大さune immensité spirituelle」という言葉、「人工楽園」の一節(Charles Baudelaire, « Les paradis artificiels », Œuvres complètes Ⅰ, Gallimard, 1975, p. 497)に執着していた様子は見逃せない。
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ファタ・モルガナ社のブリュノ・ロワに、どの資料を読みたいのかと聞かれ、手紙を含めた三十近くのボックスのうち、ラポルト自身が最も音楽的であったと考えていた最後のビオグラフィ、『モリエンド』(1983)の草稿に目を通したいと答えた。結論から言えば、あとがきまでを含めて、2161枚のおよそA4サイズの原稿が存在した。『モリエンド』が実質、数十頁しかないことを換算すると、そのひとつの作品のために、二千枚程度の草稿があることは、たいして目新しくない。ただし、目を引くのは、たとえば、最終的に出版される際には5頁に満たない第1章を書くために、1979年7月13日から、同年8月29日まで、最初の一語から最後の一語までを、形を大幅に変えながらではあるにせよ、タイポグラフィによる清書も含めると、三十数回、初期化して繰り返し、合わせて261枚を費やしているということである。紙は、オレンジ色、薄黄色、水色、白、紫が使い分けられ、日付印、枚数を記すメモが記入されている。同様の繰り返しのシステムが、あとがきにおいてまで採用されている。翻って、「ビオグラフィ」を断念したあともなお、さまざま書き続けていたラポルトが、薄紙に日付を刻印しながら繰り返すというスタイルから、容易に脱け出せなくなってしまったということと、ビオグラフィ自体が音楽の方へと志向されていたことを、どのように考えるべきか。
ラポルトをめぐっては、たとえばAnima誌への寄稿や、南仏における受容、フィリップ・ラクー=ラバルトとの交遊と思想的な連関など、整理すべき事柄は多く残っている。そしておそらくは、ロラン・バルトが、批評家を寄生者と言い切った上で、ラポルトが書く欲望を貫いて書き連ねるエクリチュールの謎の根底に「声」があると答えることに、鍵がある。風が吹渡る小さな出版社の二階、脚立にのぼり、箱を本棚に出し入れするとき、右手を伸ばしたすぐ先、届く距離に、ブランショからの書簡が収められた箱もあった。それらに触れることを欲する前に、この作家の希求した不可思議な音楽の動きを探り当てたいと思う。
高山花子(東京大学)