研究ノート | 小松浩之 |
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いとも高貴なるナポリ:19世紀後半ナポリにおける都市と歴史記述
小松浩之
はじめに
『ナポリ・ノビリッシマ(いとも高貴なるナポリ)』は、1892年、ベネデット・クローチェや詩人サルヴァトーレ・ディ・ジャコモなど、ナポリの知識人サークルが創刊した雑誌である。「地誌とナポリの芸術」をテーマにかかげたこの雑誌の第一期は、1906年までの15年間、一年に12号ずつのペースで刊行された。その後、何度かの中断と再開を経て、現在も刊行されているこの雑誌は、ナポリとその周辺の芸術、建築、都市にかんする研究発表の場という役を担い続けている。近年、この『ナポリ・ノビリッシマ』創刊の背景や、この雑誌にかかわった歴史家たちにかんする研究が相次いで発表されている ※1。本稿では、これらの研究成果を紹介しつつ、この雑誌のタイトルが選択された理由について少し検討してみたい。
1. 「かすかに古びた風味」
この『ナポリ・ノビリッシマ』という大仰なタイトルを提案したのは、クローチェであったという ※2。クローチェによれば、この雅なタイトルは、17世紀に出版されたナポリのガイドブックのひとつ、ドメニコ・アントニオ・パッリーノ『いとも高貴にして、古代的、そして、いとも敬虔な都市ナポリ』(1700年)に由来する ※3。16世紀から18世紀にかけて、ナポリでは郷土史、ガイドブックが数多く出版された。この文学ジャンルは、都市の貴族や裕福な商人にくわえ、17世紀の多くのガイドブックがそのタイトルに冠するように、イタリア内外からナポリを訪れる「異邦人(フォラスティエーリ)」に対して書かれたものである。そこには、ナポリの起源からの歴史、古代の遺構、聖堂の謂れやその内外の装飾、名士の邸宅とコレクションなど、さまざまな事柄が記されている。それゆえ、これらの郷土史書、ガイドブックは、伝記集や理論書の登場が大幅に遅れたナポリの美術史研究を特徴づける資料でもあるのだ。
それでは、クローチェが雑誌のタイトルに選んだガイドブックが描く17世紀のナポリとは、どのような都市だったのであろうか。13世紀後半からイタリア王国が成立する1861年にいたるまで、ナポリは、何度もその支配者を代えながらも、500年以上にわたってイタリア半島の四分の一を統べる王国の首都という地位を保った。16世紀にスペインの支配下に入った後、ハプスブルクの帝国の軍事戦略と財政を支える一大拠点となる。スペイン本国より派遣された副王が主導する都市空間への介入は、王宮の建造にくわえて、トレド通りとスペイン人地区をもたらした。くわえて、宗教改革にたいして巻き返しをはかるカトリックのムーヴメントは、新旧さまざまの修道会の活動を活性化し、それぞれがよりどころとする聖堂・修道院の増改築を可能にした。これらの都市空間の変容に呼応するように、北イタリア、フランドル、スペインなどからも多くの芸術家たちがナポリに集まったことで、バロック芸術が花開く。こうして17世紀ナポリは、パリに次いでヨーロッパ第2の規模の都市へと変貌することとなったのだ。
17世紀の郷土史的なガイドブックは、クローチェら、『ナポリ・ノビリッシマ』創刊メンバーにとって、このように他国の支配を受けながらも、ナポリが豊かな学術、芸術、文化を育んできたことを示すものであった。創刊にかかわった7人の連名による創刊号の巻頭挨拶には次のように記されている。
「われらが愛すべき祖国、いとも高貴なる地は、われわれの郷土に、一度に不和と不毛の種を撒こうとするさまざまな征服者たちによってたっぷりの塩を撒き散らされた。それでも、いつも肥沃で幸福であったナポリは、その塩を種にふたたび変えて、イタリアの思想と文化にかんするもっとも溌剌として栄光に満ちた書物のために、歴史がたっぷりと集めたいと望む果実を産み出したのだ。それに、タイトルのかすかに古びた風味をわれわれは、悪趣味だとは思わなかった。過去にふたたび生命を与えようとするわたしたちの仕事は、まさにこのようなものなのだ ※4。」
2. リサナメントとナポリにおける文化財保護
イタリア王国の成立とともに、ナポリが長らく保ち続けた首都の座を失ったことに鑑みると、いにしえの郷土史やガイドブックに記された輝かしい都市のイメージは、たとえそれが異国の厳しい統治下にあったものだとしても、ある種のノスタルジーを喚起するものであっただろう。しかし、だからと言って、『ナポリ・ノビリッシマ』の刊行を、イタリア王国のなかに一地方都市として組み込まれていくナポリの状況を憂う郷土偏愛的で、反動的な活動と見なすことは早計である。美術史家トマス・ウィレットが指摘するように、『ナポリ・ノビリッシマ』がアンシャン・レジームの遺物を扱う雑誌であるにしても、その雑誌の創刊メンバーの多くは、イタリア統一運動のイデオロギーとともに、ナポリが近代化されることを待望した知的エリートのグループでもあったのだ ※5。
それでは、『ナポリ・ノビリッシマ』と題した雑誌はどのような意図によって企画されたのであろうか。第一期最終号に掲載されたクローチェの「いとまごい」によると、この雑誌誕生のきっかけとなったのは、1891年10月、クローチェとディ・ジャコモが共通の友人の邸宅で交わした会話だったという。
「ディ・ジャコモは、彼の願いをわたしに明かした。それは、ひどくなおざりにされているナポリの歴史的、文化的記念物のためになることを試みたいというもので、ほとんど何も明らかにされていない南イタリアのいにしえの芸術にかんする知識を広めるためであった ※6。」
ディ・ジャコモの、そしてクローチェ自身の憂いはまず、ナポリの歴史的な建造物が「ひどくなおざりにされている」ことに向けられている。この会話の数日後、クローチェは、友人数名を自宅に集め、新しい雑誌の構想を話し合うことになるだろう。そこで練られた基本理念にもとづいてディ・ジャコモが起草した創刊号巻頭の「あいさつ」には、次のような一節が記されている。 「ここ、ナポリには県と市それぞれの記念物保護委員会がある。しかし、彼らの発議は、それらを実行に移すときに、かならずしも効果をあげていない ※7。」
建築史家フランチェスコ・ディヴェヌートによると、この記念物保護委員会への不満は、『ナポリ・ノビリッシマ』が創刊された当時、ナポリで行なわれていたリサナメントと呼ばれる都市の再開発と無関係ではないという ※8。1884年、ナポリを襲ったコレラの流行は、貧困層の多い歴史地区を中心に多くの市民の命を奪った。イタリア語で再開発、健全化を意味するリサナメントは、甚大な被害を受けた歴史地区の解体と再建を目指す計画である。コレラ流行当時、旧市街の貧しい家々は、道々の行き止まりや閉ざされた回廊といった空気の循環しない場所に集中し、半地下であることも少なくなかった。そこに、上下水処理機能はなく、ひとつの小さな部屋に5人以上が同居することもざらであったという ※9。このような劣悪な衛生状態による被害の拡大を受けて、政府は「ナポリを開腹する(ズヴェントラーレ・ナポリ)」ことを決意したのだ。その都市計画は、ウンベルト1世大通りという「一本道(レッティフィーロ)」と、ガラス屋根を戴くウンベルト1世のガッレリーアを生むことになるだろう。
リサナメントの過程でとり除かれゆく「ナポリの腹(ヴェントレ・ディ・ナポリ)」のなかには、当然、それぞれに歴史を負う建造物、広場、道、そして芸術作品も含まれている。ディ・ジャコモの言うように、当時、ナポリでは県、市それぞれが記念物保護委員会を組織しており、ともにリサナメントにかかわるプロジェクトを抱えていた。しかし、『ナポリ・ノビリッシマ』の執筆者たちは、トーンはそれぞれ異なるものの、リサナメントに際して壊されることになった聖堂や都市空間の保護を明確なかたちで打ちだすことはしていない。むしろ、この再開発は、旧市街を解体すること自体が都市の衛生問題を解決する方法であった以上、基本的には好意的に受け止められるものだった。さらに言えば、『ナポリ・ノビリッシマ』のメンバーは、中世の構造を保った貧民層が集中する地区を空間全体として保存すべきと考えていないことも確かである。
もちろん、クローチェのように、リサナメントの効果を評価する一方で、古いナポリの道々が消えゆく様に哀惜の念をあらわす巧みな修辞家もいなかったわけではない ※10。ほかにもクローチェは、総合病院の建設のために取り壊されることになった修道院の保護も訴えているし、市の歴史を刻み込むために失われた古い道の名前を新しく舗装された道に与えることさえも提案している ※11。また、市の記念物保護委員会のメンバーでもあった美術史家ジュゼッペ・チェーチならば、建造物を保存すべきか否か判断する際、それが構造上の特殊性をもつか、制作年代の典型例でもなければ、建造物そのもののクオリティは考慮に入れず、むしろ内部を飾る芸術作品をその場の記憶として博物館へ移し、保存することをより重視するだろう ※12。
おわりに
都市が古いナポリから新しいイタリアになる過程において、歴史的遺産の保護と衛生状態の改善とのはざまで、『ナポリ・ノビリッシマ』の執筆者たちは、現状をどう評価するのか、むずかしい判断を迫られていた。ここでの歴史的遺産の保護の訴えはほとんど勝機のないものばかりであったが、それだからこそ、彼らは創刊時に次のように宣言していたのではないだろうか。 「本誌の各号が刊行されるにつれて一冊の書物がかたちを得てゆくだろう。そして、もしわれわれが幸運を友とするならば、そして、粘り強さをわれわれの作品に忠実な仲間とするならば、その本は現れるだろう。これから3、4年のあいだに、たとえ、そのときに読まれる多くのものにかんして、追憶と、おそらくは哀惜のほかには、もはや何も現存せず、残ってはいないとしても ※13。」
歴史的建造物が失われる一方で、テクストは、博物館とともに歴史的記憶の避難所として表われる。それは、『ナポリ・ノビリッシマ』がまず、トポグラフィーをテーマに掲げたことと無関係ではないだろう。第一期最終号においてクローチェは、トポグラフィーの研究について次のように記している。
「ナポリの場所、道々、建造物、そしてそれらと関係する歴史的記憶のいろいろな変遷について解説すること ※14。」
ここで17世紀のナポリのガイドブックについてもう一度、想起してみよう。17世紀のナポリは、他国の支配を受けながらもまさに"黄金世紀"と呼ぶに値する栄光の時代であった一方で、ヴェスヴィオ火山の噴火、内乱の発生、ペストの流行、地震など、度重なる災厄に見舞われていた時代でもあった。もちろん、17世紀の著述家たちがそのような状況における文化財の危機を告発したわけではない。しかし、このいにしえの著述家たちの仕事がそれぞれに伝えるナポリの相貌の変化に着目することで、その都度、失われ再建されゆく都市の歴史を辿りなおすことができるだろう。このようなガイドブックのひとつにあやかって名づけられた『ナポリ・ノビリッシマ』第一期は、その効果を自覚して、変わりゆく都市の変化を記述したのではないかと思われる。「過去にふたたび生命を与えようとするわたしたちの仕事は、まさにこのようなものなのだ」というアナクロニズムはそのように理解できるだろう。
最後に、筆者が2012年の秋からおよそ一年間ナポリに留学した折、ナポリの歴史的な記憶を伝えていく作業に立ち会ったことを記して結びとしたい。留学中にお世話になったナポリ・フェデリコ2世大学の美術史家フランチェスコ・カリオーティ教授のゼミでは、16世紀後半からおよそ300年のあいだに出版されたナポリのガイドブックや地誌の校訂に取り組んでいた。これは、フィレンツェを拠点とするメモフォンテ財団が推進する、美術史研究のさまざまな一次資料を校訂し、オンライン化するプロジェクトの一環である ※15。2週間に一度のペースで開かれたそのゼミは、校訂版のテクストに慣れきった筆者にとって衝撃以外なにものでもなかった。リーマン・ショック以降なお続くナポリの文化財をとり巻く厳しい状況のなかで、ナポリの歴史的記憶を丁寧に読み解いて、それを現代に伝えるという作業は、『ナポリ・ノビリッシマ』第一期の営みを思わせた。「過去にふたたび生命を与えよう」と企図した『ナポリ・ノビリッシマ』第一期の精神と実践は、このようにふたたび生命を与えられているのだ。
小松浩之(京都大学)
※1 Willette, Thomas. È stata opera di critica onesta, liberale, italiana: Benedetto Croce and "Napoli nobilissima" (1892 - 1906), In: The Legacy of Benedetto Croce: Contemporary Critical Views, Tronto : University of Toronto Press, pp. 52-87. 5-30. Divenuto, Francesco. Il risanimento e la "Napoli Nobilissima" di Croce e di Di Giacomo, In: Letteratura & arte, 4.2006, pp. 175-190. Balzano, Roberto. Le ragioni di una rinascita interrotta: la seconda serie di Napoli nobilissima 1920-22, In: Scheria- Rivista semestrale del Circolo G. Sadoul e dell'Istituto Italiano per gli Studi Filosofici, Vols. 34-35.2010, pp.199-230.
※2 Croce, Benedetto. Ai lettori. Commiato, In: Napoli Nobilissima, XV.1906, fasc.11-12, p. 175.
※3 Parrino, Domenico Antonio. Napoli citta nobilissima, antica, e fedelissima esposta a gli occhi, & alla mente de' curiosi, 1700. 17世紀のナポリのガイドブックの内容やその著者にかんしては以下を参照。Pinto, Valter. Racconti di opere e racconti di uomini. La storiografia artistica a Napoli tra periegesi e biografia. 1685-1700, Paparo : Pozzuoli 1997,Sabbatino, Pasquale. Il viaggio a Napoli tra Cinquecento e Seicento. Descrizioni, relazioni, ritratti e guide per i forastieri, In: Il viaggio a Napoli tra letteratura e arti, Napoli : Ed. Scientifiche Italiane, 2012, pp.39-80.
※4 Ai nostri benevoli lettori, In: Napoli Nobilissima, I.1892, fasc. 1-2, p.1.
※5 Willette, Thomas. op.cit., pp. 54-57.
※6 Croce, Benedetto. op.cit., 1906, p. 175.
※7 Ai nostri benevoli lettori, In: Napoli Nobilissima, I.1892, fasc. 1-2, p.2.
※8 Divenuto, Francesco. op.cit., pp. 175-190.
※9 Ghirelli, Antonio. Storia di Napoli, Torino : Einaudi, 2010, pp.304-329.(la prima edizione:1973).
※10 Croce, Benedetto. L'agonia di una strada, In: Napoli Nobilissima, III.1894, pp. 177-80.
※11 Divenuto, Francesco. op.cit., p. 184.
※12 Ibid., pp.179-180.
※13 Ai nostri benevoli lettori, In: Napoli Nobilissima, I.1892, fasc. 1-2, p.1.
※14 Croce, Benedetto. op.cit., 1906, p. 175.
※15 16世紀から18世紀のナポリのガイドブックの校訂版は、以下のメモフォンテのウェブサイトで閲覧できる。http://www.memofonte.it/ricerche/napoli.html