新刊紹介 | 編著/共著 | 『デジタルの際 情報と物質が交わる現在地点』 |
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畠山宗明(分担執筆)
河島茂生(編)『デジタルの際 情報と物質が交わる現在地点』
聖学院大学出版会、2014年12月
現在、氾濫するデジタル技術は、様々な問題を生み出している。それらは、その技術的可能性の楽観的称揚から、デジタル化が進む環境においてどのような倫理が打ち立てられるべきかといった哲学的探究まで、多岐にわたっている。
しかし、本書は、そのようなデジタル時代を泳ぎきるための指南書ではない。そうした方向性を打ち出す前に、何よりもまず必要なのは、情報技術と物質の、そしてその結合が再分節する個と集合性のありようを、虚心に見つめることなのではないか?本書は、そのような動機から編まれている。
徹頭徹尾デジタル礼賛の書物というのはそれほど多いわけではない。そのように受容された書物であっても、実際には新しいテクノロジーに対する危機意識に突き動かされて書かれたものであったということがしばしばである。その意味では、情報技術の礼賛にも忌諱にも陥らず、という本書の目論見は、珍しいものでは決してないかもしれない。
しかしながら、本書にとってデジタルと物質という課題は、より今日的な時代診断から導き出されていることに注意しなければならない。70年代から80年代にかけてなされたデジタル技術論は、きわめて進歩主義的な色彩を持ったものであった。記号の自律というボードリヤール的な記号理解と結びついた情報空間のイメージは、しばしば人類の未来に置かれ、情報と物質の対立は、「新しいもの」と「古いもの」という対立図式に埋め込まれた。
対して、2000年以降に登場した様々なプラットフォームが前景化させたのは、そうした情報化の残余であったはずの身体であったと言える。もちろん人工知能やビッグデータのように、人間の知能に迫り得る技術としての、あるいはヴァーチャル空間やデータ化を推し進める技術としてのデジタル技術は現に進歩している。しかし、今日の社会における技術の配置は、物質とデジタルの二項を、歴史的な進歩における対立としてではなく、同時的な与件として共存の層で考察することを、要求しているのではないだろうか?
このような技術環境においては、ある技術がもたらす疎外的状況も、その克服も、技術と自然の多様な接合の様態から考えられなければならないだろう。楽観的な技術中心主義と、ラッダイト的な技術拒否の双方から距離を取らなければならないという定言命法は、今日ではいやおうなく、批評的な洞察というよりも、ごく自然な現状認識に近いものとなっているのである。
ビックデータを武器に物財の再接収へと向かうオンラインビジネスや、二重化するネットアイデンティティ。ネットとゲームセンタにおいて多重化するコミュニケーション、あるいは運動の中で知覚を二重化していくデジタル動画など、本書では、様々な局面におけるそうした接合の層が切り出されている。このような複雑な環境を輪郭づけつつ、そこからさらにこぼれおちるものを可視化し得る地点に立つこと。それが本書が立とうとする「デジタルの際」なのである。(畠山宗明)