新刊紹介 | 編著/共著 | 『統治新論 民主主義のマネジメント』 |
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國分功一郎・大竹弘二(共著)
『統治新論 民主主義のマネジメント』
太田出版、2015年1月
この本は大竹弘二氏と私が2014年初頭に行った対談がもとになっている(第一章に収録)。その時期は特定秘密保護法が可決した直後であった。この法律、そしてそれを巡る政治状況の思想史的・哲学的意味を明らかにするのが対談の目的であった。
大竹氏は雑誌に連載中の長大論考「公開性の根源」の中で、「主権にはそもそも統治は可能なのか?」という問いを出発点とし、近代の民主主義を特徴付ける公開性の概念の再検討を行っていた。また私は、地元東京都小平市での住民投票を巡る政治運動の経験を『来るべき民主主義』という書物に著し、行政の民主的コントロールという問題に取り組んでいた。
最初の対談では二人がそれぞれの観点から特定秘密保護法と民主主義の問題に切り込んでいる。だが、そこで論じられた諸問題はとても一回の対談に収まるものではなかった。立憲主義と民主主義の関係、法の措定と運用の問題、法治国家と行政国家の関係、政治哲学史における執行権の位置づけ、カール・シュミットとヴァルター・ベンヤミンの関係、現代日本の政治的危機の雛形とも言えるヴァイマル共和国期ドイツの諸問題…。対談は引き続き行われることとなり、このたび『統治新論』という一冊の本になった。
あらかじめ対談に先立って二人でポリシーを確認していたわけではないが、おそらく二人が心がけていたのは、現代日本政治の問題を扱いつつも、それをネタとして消費して終わらないようにすること、それを出発点として問題の根源(ラディクス)に遡ることであった。
たとえば、閣議決定という形で2014年7月に行われた解釈改憲は、確かに、現在の政権の遵法意識の欠如として論ずることもできる。だがそこには、法が法である限り避けることのできない法運用の問題が横たわっている。法の解釈には、法の制定よりもより多くの自由があるという問題だ。この問題から目を背けて政権批判を行っているだけでは、法そのものに足を掬われることにもなりかねない。また、民主主義的な手続き、更には、それに基づく権力に対する監視が、いったい何を対象とすべきであるのかをも分からなくなってしまうかもしれない。
近代国家において、主権は立法権として定義されている。それ故、権力の担い手である民衆は、自らの権力行使の場を、主として代議士を選出する選挙にもっている。しかし、法は制定するだけでは何ものでもない。それは運用されてはじめて力を持つ。そして、統治行為に関して言えば、大きな自由度をもつその運用は、大部分が行政の裁量に委ねられている。ならば民主主義は、法の制定だけでなく、法の運用に、つまりは立法の場たる議会の外側にも、その監視の目を向けねばならないだろう。
この対談には、現代日本政治を論じる手がかりだけでなく、政治哲学や政治史を活用するためのヒントが散りばめられている。表象文化論学会に関連するトピックとしては、ホッブズ『リヴァイアサン』の図像の政治的読解なども試みられていることも一言述べておきたい。読者の皆さんには、この対談で紹介されたトピック、提示されたヒントを、ぜひとも次の議論につなげていただきたいと思っている。(國分功一郎)