新刊紹介 単著 『映画とは何か フランス映画思想史』

三浦哲哉(著)
『映画とは何か フランス映画思想史』
筑摩書房、2014年11月

本書を構成する4つの章は、それぞれ、ジャン・パンルヴェ、アンドレ・バザン、ロベール・ブレッソン、ジル・ドゥルーズという映画作家あるいは理論家を取り上げ、「自動性」という概念を軸に、ひとつのフランス映画思想史を描き出すことを目論んでいる。

この4名の人選でとりわけ目を引くのは、1920年代から活動し、「科学映画」のパイオニアとして知られるパンルヴェという選択だろう。バザンの『映画とは何か』にも含まれている記事を通じて誰もがその名前を知っていたこの特異な映画作家の全貌が明らかになったのは、近年のことにすぎない。アルトーや、ジャン・エプシュタインや、エリー・フォールらによる(これまたいまだよく知られているとは言いがたい)映画論の布置にパンルヴェを位置づけつつ、彼の「汎舞踏的」な「自動運動」の世界を鮮やかに描き出す本書の記述は、パンルヴェの可能性を再認識させるのに十分だろう。

副題に「フランス映画思想史」と謳った本書は、論じる対象となる人物を取り巻く理論的コンテクストにも気を配る。たとえば、バザンのリアリズム論がこれまでどのように受容され、批判されてきたか、あるいはドゥルーズを論じる前提として、クリスチャン・メッツの映画記号論の根本的な構えはどのようなものだったのかといったことが簡潔にして要を得た記述でまとめられる。その意味で、本書はフランスの映画理論史のいわば教科書的な側面も持ち合わせている。

だが、言うまでもなく、本書で最も刺激的なのは、そうした記述を前提に各章で繰り広げられる、「自動性」という鍵概念をめぐって変奏される目くるめく思弁にほかならない。ただし、同じ「自動性」という言葉のうちに、映画のカメラが自動的に現実をとらえるという意味合いに加えて、バザンが「神話」と呼ぶ「想像的なもの」の自律した領域や、ブレッソンの特異な演技指導がもたらす「モデル」たちの自動性や、ドゥルーズのいう「精神的自動装置」といった意味合いがやや強引に束ねられており、そのことが本書の論理展開をいささか混濁させているように思えることは指摘しておかねばならない。もちろん、それは筆者の意図的な戦略だろう。実際、「自動性」概念にあえて幅を持たせることで、本書の議論はいっそう豊かで刺激的なものになっている。

末尾で触れられているように、本書は、映画のいわゆる「ポストメディウム状況」を背景に構想されている。闇の中で周囲からの情報を遮断して映画と向き合うという映画館的な視聴モードが相対化されている今、どのようにそれを別の仕方で延長していくことができるのか。半世紀ほど前にバザンに「映画とは何か?」という問いを発することを促したのは、テレビの登場というメディア環境の変化でもあったはずだ。それよりもさらに切迫した映画を取り巻く環境の変化に応答するという側面が、本書に確かなる思考の具体性と強度を与えている。(堀潤之)

三浦哲哉(著)『映画とは何か フランス映画思想史』筑摩書房、2014年11月