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国際シンポジウム:SPOLIA 建築・都市の継承と再利用
——西洋と東洋の比較を通じて

国際シンポジウム:SPOLIA 建築・都市の継承と再利用 ——西洋と東洋の比較を通じて

国際シンポジウム:SPOLIA 建築・都市の継承と再利用 ——西洋と東洋の比較を通じて

2013年7月28日に京都大学にて国際シンポジウム「SPOLIA 建築・都市の継承と再利用——西洋と東洋の比較を通じて」(京都大学大学院 人間・環境学研究科主催)が行われた。「スポリア」とは、西洋建築において古代の建物から他の建物に転用された円柱などの要素や建材を指す用語である。スポリアは単に部材として用いられるだけでなく、その要素のもつ歴史的価値や、元のコンテクストから受け継いだ機能が、新たな建築ともつなぎ合わされることで重層的な意味を獲得する。この語を象徴的に用いることで、本シンポジウムは、建築の修復や建材の再利用による都市の継承の可能性を、日本やイタリアを中心とした事例を比較しつつ検討する好機となった。司会を岡田温司氏(京都大学大学院教授)が務め、パネリストに黒田泰介氏(関東学院大学教授)、オリンピア・ニリオ氏(コロンビア、イバゲ大教授、京都大学客員教授)、清水重敦氏(京都工芸繊維大学准教授)、中島節子氏(京都大学准教授)、井上典子氏(追手門学院大学特別教授)の諸氏を迎えた。シンポジウムは各パネリストの発表後、全体討論という形で行われた。

最初の発表「都市の記憶と建築の再利用——イタリアと日本の事例から」において、黒田氏はまずもって「スポリア」を再利用や転用という普遍的な建築行為と位置づけ、イタリアと日本におけるさまざまな実例を挙げ、転用、再利用や修復の在り方を提示した。既存の建物の修復、再生産の過程では、リノベーションやコンバーションといったその建物を使い続けるための様々な変更、更新がなされると述べ、転用されるものとして、部材、エレメントやファサード、ヴォリュームの転用が挙げられた。部材の転用の例として自身が手掛ける東京下町の長屋を取り上げたが、そこでは旧家屋からの転用材はほぞを埋めるなどの加工により、それとわかるような造作を行っているという。イタリアにおいては、エレメント保存の例として過去の墓石にあしらわれた墓碑彫刻が新たな建築の装飾となっている例が挙げられた。このように、過去の要素を新たな建物に積層させていく修復、再生産行為により、ある建物がそれ自身であるだけでなく複数の歴史を物語るものとなる。修復の際、そのような「史的痕跡」をいかにうまく見せるか、創造的なレスタウロ(修復)がいかになし得るかが問われると氏は述べる。続いてそうした史的痕跡を露わにする事例がいくつか紹介されたが、最後に挙げられた日本とイタリアの二つの事例がとりわけ印象に残った。まず横浜の山下居留地遺跡は、関東大震災で失われた外国人居留地が発掘され、その地に建てられた劇場にて遺跡プロムナードとして残されているもの。そしてイタリアのローマ、クリプタバルビにおいては、古代以来の歴史ある地区で発掘調査のなされた遺跡が修復後、博物館として公開され、現在進行形で発掘、保存作業のただ中にあるという。いずれも発掘された過去の遺物が現在の用途の中に提示されることで積層的な「都市の記憶」を見せてくれる、創造的レスタウロのバリエーションといえるだろう。

「建築における古代の継承——イタリアとコロンビアの比較文化」と題されたニリオ氏の発表においてはまずスポリアの語源spoliumに光が当てられた。ニリオ氏はそうすることで、それがもとは略奪品というネガティヴな意味合いを含む語であること、そしてキリスト教文化が自らの権威づけのためにヘレニズムやローマの文化を利用するなかで、過去の建物からはぎとった建築的要素に肯定的な意味が付与されていく歴史的過程を示した。その上でスポリアの持つ機能として構造的機能、装飾的機能、文化的機能を挙げたが、とりわけ発表において重視されていたのは文化的機能であったように思う。黒田氏の論点とも絡んでくるだろうが、過去の歴史に対する意識をスポリアによって顕在化するのがこの文化的機能なのである。ニリオ氏は多くの事例を挙げながら、スポリアの諸側面を明らかにして行ったが、この文化的機能がとりわけ重要な意味を持ったのが、南米での調査結果によって示された事例においてであった。15世紀末以降の植民地化の過程で、征服者たちによって南米の諸都市は破壊されたが、その後キリスト教徒の組織的な活動の中で、現地の既存建築や、現地の文化的要素、自然的な要素が建物の中に組み込まれていく。代表的な例として取り上げられたコロンビアのエッケ・ホモ修道院は、スペイン人たちの持ち込んだムデハル様式、コロンビアの土着の男根的モチーフ、自然環境を背景とする海産物による舗装などが混在する、文化的対話の集合体となっているという。スポリアは、異なる文化や文脈、積み重ねられた異なる時間を露わにし、その検証と比較、解釈を可能にするとニリオ氏は発表を結んでいる。

続く清水氏の発表「建築〈伝世〉論——〈保存〉以前から考える日本型SPOLIA」では、日本型のスポリアとして、「伝世」なる概念が提示された。氏によれば日本における建築物の保存、修復は、19世紀のヴィオレ・ル・デュクらに代表される西洋の「様式的修復」を踏襲しており、西洋ではそれへの批判的検討がなされてきたが、日本ではむしろ補強され、東京駅の例に象徴されるように、復元というべき修復がなされる傾向にあるという。このような日本と西洋の差異を鑑みれば、日本における修復のオーセンティシティを検討するには19世紀末に西洋式の保存が導入される以前に立ち戻る必要があると氏は述べる。そしてスポリアをヒントとして、「保存」導入以前の日本におけるその同系物として考えられるのが「伝世」であるという。「伝世」は、そもそもは早川正夫が三渓園・臨春閣について論じる際に用いた語を清水氏が敷衍したものである。氏は、伝世は継承とも伝承とも異なるという。おそらくは、それら二つに比べて意識的、無意識的両方の作用をより包含しうる点にその理由が求められるのではないかと思うが、この点については発表内で詳しく論じられることはなかった。「伝世」の類型としては、転用、改造、移築、写し、式年造替などが挙げられ、それぞれについて日本や中国の事例を取り上げつつ検討がなされた。氏によれば伝世の契機としては意図的なものと非意図的なものがあり、前者は、由緒や機能、意味を伝えるためになされ、その際に建築の形は変えられていくもの、後者は、建築が部分的に更新、改変される中で結果として伝世するものをいう。日本では「保存」以前、形を守っていこうという意識は希薄であり、更新、改変が日本における伝世を考える際の足掛かりになると氏は述べる。補足として、日本では西洋のような建物の機能を大きく変えて住みこなすようなものは(意図的なものを除いて)少ないとしている。また古代ローマからキリスト教文化へといった文化的断絶が日本ではそもそも比較的小さいため、まったく異なる意味へと転用がなされることもあまりみられないという。1994年の奈良会議以降の日本におけるオーセンティシティの模索を念頭に、スポリアの日本版として「伝世」なる概念を導入して日本の建築保存を検討した刺激的な発表であった。

続く中島節子氏の発表「都市住居の仮設性と交換可能性——持続のための更新という手法」においては、それまでの発表が主に考察の対象としていたモニュメンタルな建築物から一転して、日々の生活の基盤というべき都市住居、京都大阪の町屋が取り上げられた。氏はまず、慶長期以降の証文等の分析を通じて、町屋は単に建物ではなく「家屋敷」というユニットで考えられており、また町並み(ちょうなみ)を形成する要素として、通りとの関係において認識されていたことを指摘する。さらに大火にしばしば見舞われた当時にあって、町屋は焼失と再建を前提としており(火災の発生した家屋の両隣は火災の拡大を防ぐため取り壊され、のちに再建された)、むしろ焼失と再建を契機として町並みの整備がなされたという。当時の町屋はこのように常に通りとの関係から「家屋敷」というユニットで把握されており、そこでは建物そのものの永続性はあまり問題にされることはなく、むしろ常に仮設的な存在であったのである。続いて、町屋と時間の関係について考察がなされた。転用材が頻繁に用いられており、屋根裏は転用材だらけであることから、部材の交換可能性がまず示唆された。また当時最先端であった大阪では裸貸が行われており、そこでは借り主が建具やたたみ等を自分で用意する必要があった。これは建築部材の規格化と軌を一にしており、建築部材の流通市場では引っ越し先に合わせた品をそろえることができたという。このことは、とりわけ大阪を中心として、居住者が頻繁に移動しえたことを示しており、実際大阪では85パーセントが借家人であったという。家屋敷は決して先祖代々のものではなく、町屋とは部材も居住者も交換可能な生活の入れ物であったというわけである。中島氏は、町屋は、常設的なものでありながら仮設的であり、また仮設的であるが継続性を前提としているとし、持続のための更新、更新を前提とした持続が行われる町屋は都市住居の日本型スポリアといえると結論付けた。

最後の発表者である井上典子氏は「イメージのリユース——ボローニャの事例から」と題して、再び舞台をイタリアに移し、ボローニャのカヴァティッチョと呼ばれる地区の19世紀以来の開発の経緯をたどることで、都市のイメージの形成と継承の過程で再利用や転用がいかなる役割を果たしてきたかを検討した。井上氏は、ボローニャでの19世紀後半以降の三つの時期の都市の改造、再計画の機会に着目する。まず1889年の近代的な都市としての拡張計画の時期である。この時期以前、ボローニャでは水路網が発展しており、各地に地場産業であるシルクの集積地があった。カヴァティッチョもそうした水路の一つであったが、駅の建設による交通網の変化により水路は廃れ、こうした集積地やそれに付随する建物も変化していくことになる。またこの時期、建物の修復は「都市の美」という観点から様式的修復が行われていた。続いて1926年以降のファシズム期には、建物の修復には中世風の要素が付加される傾向がみられる。そして空爆により都市が破壊された第二次世界大戦以降、都市は再構築されるが、その結果、カヴァティッチョ周辺は、文化的な施設に変貌を遂げる。もとは修道院でありその後タバコ工場となっていた建物はこれ以降映画の修復工場となり、公営のとさつ場であったものは内部を現代的な工法で建設しつつ、その周囲を過去の様式で覆うという形で修復され、シネ・フォーラムとなっている。さらにパン工場であった建物はリユースされて近代美術館となっており、もはや交通路としての重要性はない水路が少しだけ残っているという。氏はこれを、運河を一つの景観ととらえボローニャ=水の都市というイメージ戦略を重視して都市の中の水路を活用した結果としている。つまり、カナル(運河)と中世的な外観の都市というイメージを生み出すために過去の様式や水路の跡が選択的に残され、構成されているということである。かくして、カヴァティッチョ地区の持つ、歴史を感じさせる堅牢なイメージは実は過去の異なる時代のイメージや物をリユースし張り合わせたコラージュであるとみなされる。景観とその保存が持つイメージのコラージュ的側面は、スポリアと通底するものであろうと述べて、井上氏は発表を終えた。

休憩後のディスカッションでは、都市と建築の修復や維持、更新にかかわる多くの論点が提示された。とりわけ重要と思われたのは、会場からニリオ氏に提示された、西洋と日本のオーセンティシティをめぐる差異についての質問であり、それに対してニリオ氏は、オーセンティシティは日本と西洋では全く異なっていると感じており、形態のみならず触れることのできないその内容(清水氏の発表で触れられた機能や由緒などであろう)をも含みうる日本的オーセンティシティの在り方があるのではないか、それを尊重したいと答えた。歴史的、文化的、機能的に異なる複数の文脈を結び付けつつも両者の差異を明示するスポリアをヒントとして、もはや成長や開発を前提としえない現代社会における建築・都市の保存と更新がいかにして行われるかを考察する上でのさまざまな刺激を得られるシンポジウムであったと思う。(岸本督司)