第8回研究発表集会報告 研究発表3

研究発表3|報告:木下知威

2013年11月9日(土) 10:00-12:00
東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム3

慈恵のために——楽善会のダイナミズム
木下知威(日本社会事業大学)

平手造酒の虚像の変化について
宍倉洋介(京都大学)

上田敏『うづまき』における音楽記述の問題
新田孝行(早稲田大学)

【司会】横山太郎(跡見学園女子大学)

この研究発表3の冒頭で、司会の横山太郎は「日本」を共通項にもつ発表で構成されたと発言されたように、近世から近代日本における人々の動態について検証しようというものであった。

木下は、キリスト教徒たちが1875年に東京で盲人教育機関を開くために設立された「楽善会(らくぜんかい)」において、運営資金を寄付で募るときの人の動き——ダイナミズムを明らかにしようという目的のもと、楽善会が配布した「楽善会慈恵方法」と、寄付に応えたひとたちのリスト「楽善会慈恵金広告」という2点の史料を文献学、プロソポグラフィの視点から分析したものであった。

その結果、「楽善会慈恵方法」に掲載された広告文は、配布された1876年から一定して同じ文体ではなく、楽善会の会友(メンバー)の変化とともに変化が加えられている。1877年には会友にキリスト教、神道、仏教の信仰者がおり、多宗教性を有することでその年の広告文に宗教色が除去される。また、漢字の左右に振り仮名をつけることで、ふたつの読みを与えている。「軽易」の右振り仮名は「けいい」と本来の読みを与え、左振り仮名に「おろそか」と通俗的な読みを与えるように。さらに英文の広告文も作成していることから、楽善会は読者のリテラシーに意識的であった。

次に「楽善会慈恵金広告」にみえる寄付人を可能なかぎり特定すると、1785件中、735件(43.9%)を明らかにすることができた。このひとびとの所属は、海軍省(221名)、内務省駅逓局(58名)、工部省(176名)、農業・茶業者(12名)、秋田県の院内銀山(8名)など、東北から九州までの20グループが見いだされた。これは、会友たちが構成する人脈と活動地域と重なると考えた。その一例として、工部省の管轄下にある各局のうち、鉄道局がまったく応じていないことが挙げられる。鉄道局局長・井上勝と楽善会会友で工部省官吏だった山尾庸三が不仲であったという事実を鑑みれば、工部省からの寄付をめぐるダイナミズムは山尾による働きかけに呼応している。

発表後、会場より企業における社会責任(CSR)と楽善会の寄付活動の相違点について質問を受けた。つまり、近代と現代における慈善と贈与の変容について問われたわけである。これ自体、明治初期の慈善活動の構造を描き出すこと、寄付活動に関わったひとたちが全体として、どのような公共性をもっていたかということを明らかにしなければならないという問いかけであり、今後の展開における課題が浮上したといえる。

また、「楽善会慈恵方法」の文中にある「 一神」を明治天皇と解釈した根拠について問われた。明治の書籍、新聞、文書などにおいて天皇、皇太后など天皇家を表現する際に「 聖上」「 皇太后」と固有名詞の上に一字を空ける闕字(けつじ)をもって、敬意を表する事例が見いだされることからそう解釈したが、宗教における闕字も検討するなど具体的な考察が必要な箇所であるように思われた。他にも、楽善会友・岸田吟香(ぎんこう)の活動の特徴と楽善会の初期形態についての説明も求められた。このように、楽善会に関する研究の基点になる発表であったと考えている。

宍倉は、平手造酒の類型を抽出し、文学、講談、映像を通じて平手の虚像の変化を見いだそうとした。まず、平手について紹介された事項から「美男子」「酒好き」「女好き」「北辰一刀流」「用心棒」「ニヒル」「肺結核(病身)」「義理立てのため駆けつけての討ち死」「悲哀に満ちた半生」という9つの特徴が抽出されるとした。特徴のひとつに「ニヒル」があるとしたが、この変化に着目することで、近世から現代における「ニヒル」の特質も検討できるのではないかという予感を抱かせた。

平手が登場する作品を遡及すると、もっともオリジナルに近いのは陽泉主人尾卦伝述『天保水滸伝』(1850)であるという。ここでは「酒好き」「女好き」「用心棒」の3点しか見いだせないため、平手の像に変化が生じているとされた。その変化としてはたとえば、「北辰一刀流」「肺結核(病身)」は蓁々斎桃葉の講演(1896)によって加えられるといい、平手が「義理立てのため駆けつける」像は「一泊一飯の恩義」の概念に照応するということであった。また、映画『座頭市物語』(1962)では、盲人の市と平手の友情が描かれることによって、個と個の繋がりをもつ平手のイメージが登場するところは興味深く拝見した。このように、平手造酒の像が変化しつつ、存在していることが明らかになった。

発表後、アニメーション化された平手の像、平手が穢多への剣術指南により破門された理由、戦前・戦後における平手の像の変化といった、ある「ひと」が物語になるときに生じる変化の内容を問う質問がされた。横山からは、巴御前との比較を通じてテクストによって描かれ方が変わることとの共通性が指摘されたように、記憶を破壊していく「時間」のなかで、実像と虚像のあいだに生じうる変化を見いだせる事例は多い。

振り返ってみれば、宍倉はターニング・ポイントとなる作品を取り上げ、変化を丹念に読み解いているが、そのディテールが精細になるほど、実像が遠のき、虚像が実像にすりかわったように思われた。つまり、わたしたちは鏡に映る平手という虚像をみているが、鏡の前に立つ平手本人はどこにもおらず、鏡のなかから平手が出てくるようなことだ。もし、肖像画・胸像などの芸術作品、賛、物語、演劇、伝記など、後世に伝えられている肉体の総体を「虚像」と名づけるならば、虚像が生じなかった「実像」というのは存在するだろうか。存在するとしたら、それは寺院の過去帳にも載らず、死からも忘却された肉体たちのことか、ルネ・マグリット《複製禁止》における自分の姿を映せないエドワード・ジェームスのように、鏡に自己を映せない非ナルキッソスか、そもそも虚像しか存在しない架空の人物であろうか。

わたしがそう感じたのは、この発表と同時期に資生堂ギャラリーで展覧されていた「ベラスケス頌:侍女たちは夜に甦る」(2013年9月28日〜12月25日)において、森村泰昌が《ラス・メニーナス》に挑んでいたのを目の当たりにしたからかもしれない。

新田は、1910年1〜3月の国民新聞に連載された上田敏の小説『うづまき』の背景を読解しつつ、『うづまき』における音楽記述の問題を明らかにするという目的のもと、まず、本文からセンテンスを見いだした。それは、「享楽主義」「モーリス・バレス」「換喩の隠喩化——アンガージュマンのレトリック」「コンサートという「想像の共同体」」の4点である。これをもとに、発表の中心である『うづまき』における音楽記述に迫っていった。夏目漱石『野分』(1907)と森鴎外『藤棚』(1912)における音楽会の描写を比較しつつ、上田は隠喩法によって音楽記述を行っているという。そして、流れる旋律のなか、登場人物である春雄と夏子の目が合う瞬間に「生命の珠」を飲み干すという表現がされるとともに二人は同一化していくという点を強調された。

発表後、『うづまき』にシューベルト「魔王」が選ばれている理由が上田の音楽体験とともに質問されたが、史料がないために仔細は不明であると回答された。わたしが中村洪介に立脚していうならば、上田敏の分身である春雄と夏子が観賞する音楽会はどのようなプログラムで構成されていたのだろうか、そのプログラムの基本単位である楽曲は、春雄に生じる感情・行動とどのように組み合わせられているのか。音楽に豊饒な知見をもつ新田の呈示を期待したいところであった。

そして、音楽記述における「振り仮名」がわたしの関心をひいた。明治時代は、日本語の揺らぎがあり、振り仮名が重要な位置を占めていることが実証されている。『うづまき』では、「宣叙調(れちたちぶお)」「温和速度(あんだんて)」「最高音(そぷらの)」(括弧は振り仮名をさす)と西洋語を意識した振り仮名と漢字を合わせた、どちらでもあり、どちらでもない、動きの感じられる新しい音楽用語が使われており、上田は振り仮名に意識的である。

これについて、日本語学からの検討が不可欠であろう。たとえば、夏目漱石『それから』(1909)では、漱石の原稿、連載された朝日新聞、春陽堂から刊行された単行本を比較すると、振り仮名が異なる箇所がある。すなわち、振り仮名が新聞・書籍を媒介するときに変化を加えられている。新田は『うづまき』の本文として『定本上田敏全集』2巻によっていたが、それのみでなく、原稿、国民新聞、書籍を相互参照して言及するべきだった。

つぎに、この振り仮名の用法は音楽に関する記述に留まらないのではないか。春雄が飲む「生命の珠」について、珠を受ける容器は「巵」と書かれており、『定本上田敏全集』では「さかづき」と振り仮名がふられている(しかし、配布資料には振り仮名が記されていない)。そして、「巵」に「こつぷ」と本来の読みをしない振り仮名がつけられる箇所がある(2:538)。この結果、『うづまき』では水平な木材の「さかづき」と垂直なガラスの「こつぷ」という容器の形と素材感が「巵」のなかで永遠に変化しつづけるという、言語の揺動が生じている。このように、漢字と振り仮名による化学作用によって、あたらしい言語が蠢いている瞬間を見逃してはならないのではないか。それ自体はあたらしい音楽といえないのだろうか。上田は「人間の心はうづまきのようだ」(2:517)と現実が知覚された瞬間の次にはもう消えているとしており、上田のなかで言語がうつろいている知覚がみえるように思われた。よって、漢字と振り仮名の関係をもとに広くとらえるならば、『うづまき』の音楽記述とは、音楽が登場するシーンに固定されるものではなく、小説そのものに鳴り響いているのではないか。音楽を聴くことが叶わない聾の身体からはそう思えた。

そして、渦巻きというモティーフがもつイメージの問題について。一般的に、渦巻きは大きな被害をもたらす台風や竜巻のように、創造と破壊を孕みつつ回転し、留まることのないものと解釈される。近代を生きた上田は「人生の渦巻に身を投じて、其激流に抜手を切つて泳ぐ」「人生の渦巻に捲込まれるのを避ける」と、生きることそのものを渦巻きに投影している。近代の渦巻きといえば、たとえば、アビ・ヴァールブルクの「情念定型図」の構想ノートの表紙が渦巻いているように、ヴァールブルクにとって渦巻きは重要なモティーフであった。それに、近代はゾートロープ、フェナキストスコープといった回転しつづける視覚装置が流行した時期でもある。ここから、近代における「渦巻き」をめぐる思想と上田の書くそれはどのような位置関係にあり、核心は何かという枠組も考えられるだろう。渦巻きの迷宮の中核にいる、ミノタウロスを目指そうとするヘラクレスならぬ新田——そういう展開可能性をもつ発表であった。

これら3点の発表を通じて浮上するのは、近世から近代における人物や言語の揺らぎという身振りに対して、いかなる方法論をもってその動態を表現しうるのかという問いである。

木下知威(日本社会事業大学)

【発表概要】

慈恵のために——楽善会のダイナミズム
木下知威(日本社会事業大学)

古代から現代にいたるまで、貧困、災害、戦災、疫病などの困難に面した人や地域には、宗教や政治経済のまなざしに基づいた慈恵活動が行われることがある。この活動に関する研究は、たとえば事業を行う主体と施設の形成、代表者の思想、主体と地域の関係性といったものが取り上げられるだろう。この慈恵活動においてとりわけ重要なのは、ダイナミズム ― 運営主体のみならず、主体を支援したひとびとも含んだ活力の全体像である。
そこで、本発表では明治初期の「楽善会(らくぜんかい)」を対象にそのダイナミズムを見いだしたい。楽善会は明治8年5月に、スコットランドの医師ヘンリー・フォールズ宅において中村正直(敬宇)、津田仙、岸田吟香ら6名のキリスト教信仰者による会合を始まりとする。その活動は、明治13年1月に築地でジョサイア・コンドル設計による「訓盲院(くんもういん)」の開校につながり、盲人たちの自立を目指していくことになる。
ここでは、楽善会が明治9年から寄付金を募るために発行したパンフレット『楽善會慈惠方法』と1800件近くの寄付人リスト『楽善會友慈惠金廣告』を中心に分析する。楽善会がどのようなメッセージで寄付を呼びかけ、集金したのかということからはじめ、楽善会の動きに呼応したひとびとたちの寄付金額、身分、職業、経歴、出身地といったプロソポグラフィを明らかにし、人物像を描き出すことで楽善会のダイナミズムを見いだす。

平手造酒の虚像の変化について
宍倉洋介(京都大学)

本発表では、江戸時代幕末の剣客である平手造酒の表象について分析する。平手造酒は宝井琴凌の発表した講談『天保水滸伝』で初めて登場した人物である。しかし、平手造酒は謎の人物ということもあって、後年の小説や映画など複数のメディアの脚色の影響で、その虚構化が進んだ人物である。
平手造酒の虚像は、最初に「病身だが義理立てのための駆けつけ」という義人の属性を与えられた。第二に「女の登場」があった。そこでは社会から爪弾きにされた者同士としての女を登場させることで落ちぶれた者の悲哀を増幅させる効果があった。世をすねてヤクザの用心棒にまで成り下がってしまった名剣士平手造酒であり、その過去故に、自棄となり、ニヒルで、虚無的になっている特徴が表現され、そしてその姿が愛された。最後に、「社会的弱者」としての平手造酒である。社会や組織が意識されることで、個人的な悲哀が集団社会における悲哀へと昇華することになった。そして、時代を経て、個人の報恩という姿はただの神話であると、リアルな描かれ方への希求が高まることで、平手造酒の虚像の変化は終わった。
オリジナルの平手造酒と現在の平手造酒の比較を通して、その要素を整理し、「一宿一飯の恩義」という概念や映画、映画批評、日本における映画史の潮流などを手がかりに、その変化の流れを明らかにしていく。

上田敏『うづまき』における音楽記述の問題
新田孝行(早稲田大学)

上田敏の『うづまき』(1910)は敏本人を思わせる知識人春雄の思想上の変化を描いた思想小説である。人生を傍観し万物を知識としてのみ理解する「享楽主義(ぢれつたんちづむ)」を信奉していた春雄は最終的にこれを「消極の享楽主義」と自己批判し、「人生の渦巻に身を投じて、其激流に抜手を切つて泳ぐ」「積極の享楽主義」を決意する。「消極の享楽主義」から「積極の享楽主義」への変化は、ウォルター・ペイター流の唯美主義からフランスの作家モーリス・バレス(Maurice Barrès、1862~1923。反ユダヤ主義的ナショナリストであり、後のファシズムや文学者の政治参加への道を開いたとされる)の行動主義への移行として説明される。
その一つの契機となったのは或る音楽会での体験で、演奏の最中、隣に座った魅力的な夏子とふと目が合った春雄は彼女が同じ音楽を聴いていると想像し、興奮する。同様に洋楽の演奏会を題材とした漱石の『野分』(1907)や鷗外の『藤棚』(1912)が、音楽に触れず会場や聴衆たちの換喩的な描写に終始したのに対し、敏の小説は用語を使って演奏の細部まで隠喩的に再現する。「音楽そのもの」を提示する隠喩的音楽記述は、春雄が夏子との間に感じた一体感を読者たちにも拡大することを目的としている。その成否や小説の思想的結論との関係、そこに込められた政治的含意について、『うづまき』を読解しながら明らかにする。