研究ノート 伊藤 未明

矢印論の試み
伊藤 未明

矢印は今日どこにでも見られる。駅や店舗などパブリックスペースでの方向指示標識、機械や道具の取扱指示、グラフやダイヤグラムの中の記号、地図上の経路や軌跡の表示、パソコン画面のカーソルなど、矢印を見ない日は一日としてないほどである(図1~4)。心理学、認知科学、マンマシンインタフェースの領域においては矢印を標識として研究する試みがいくつかなされているが、矢印の人文学的な先行研究はきわめて乏しい。日本語で読めるものとしては『矢印の力』という本があるが、これは路上やパブリックスペースで撮影された矢印の写真集という内容に近い資料であり、矢印に関する論考はわずか一篇おさめられているだけである ※1

図1:東京 地下鉄大手町駅にて図2:東京 新宿2丁目にて
図1:東京 地下鉄大手町駅にて図2:東京 新宿2丁目にて
図3:マイクロソフトOffice クリップアートより図4:マイクロソフトOffice クリップアートより
図3:マイクロソフトOffice クリップアートより図4:マイクロソフトOffice クリップアートより

こうした状況の中、記号論の分野では矢印記号に触れた箇所がいくつかの文献に見られる。Kress and van Leeuwenは、arrowではなくvectorという語を使って、1つのイメージを構成する諸要素間にダイナミックな関係を示す構造を定式化している ※2。このようなvectorは映画のシーンのなかの人物の視線や、写真の中の人物がのばしている腕のラインによって形成される。vectorは通常の線とは異なり「向き」を持っている。矢印の始点にあたる部分には何かの働きかけをする事物が置かれ、終点にあたる部分には働きを受ける事物が配置される。こうしてvectorはイメージの中に物語構造を持ち込むのだとKress and van Leeuwenは主張する ※3

矢印の持っている「向き」を示す特性は、どのようにしてそれを見る者の身体を動かすことができるのだろうか? Fullerは空港の案内表示に見られる矢印記号を題材にしてこの問題を考察している ※4。Fullerは矢印のもつパフォーマティブな機能に着目し、矢印は何かを識別し固定させることを拒絶するのだと主張する。Fullerによれば、矢印を純粋に「それが意味すること」において議論することは不可能であり、矢印とその外部の世界に働きかける運動は、矢という形式に内在しているのだと結論付ける。

Kress and van LeeuwenおよびFullerの議論に共通しているのは、どちらも矢印を「記号」として扱っている点であろう。記号としての矢印に本質的なのは始点と終点を明確に指示することである。しかし図1~4に示すように個々の矢印は様々な大きさ、色、形で描かれることが多い。始点と終点を示すだけであればこのような多様なデザインは不要のはずであるから、こうしたデザインの細部は何かの意味を象徴的に表現していると考えていいだろう。特に図3や図4のような矢印は始点と終点の位置がさほど明確なわけではなく、むしろ矢印によってあらわされる運動や変化の概念がその中心主題と言っていいだろう。

ここまで私は矢印のイメージを「矢印記号」と表記してきたが、「矢印図像」と表記すべきイメージでもあるかもしれない。つまり矢印は「指し示しの記号」であると同時に「運動や変化の概念そのものの表象」でもある。例えばクレーの絵画にはしばしば太い矢印が登場すること(図5)が知られている ※5。クレー自身はこうした強いコントラストの矢印に生じる、エネルギーの極端な集中が運動の表象に決定的な役割を果たしていると述べている ※6。記号論による矢印の議論には、運動と変化の表象としての矢印という視点が不足している。矢印がその大きさ、色、形においてかくも多様であることを、「指し示しの記号」としてのみ理解するのは限界がある。矢印がいつ「指し示しの記号」で、いつ「運動と変化の表象」なのかを議論するための理論的な考察が必要であろう。

図5:パウル・クレー《エロス》 1923年 図5:パウル・クレー《エロス》 1923年

矢印はいつごろから多くの文化や社会で広く使用される記号(または図像)となったのだろうか? そもそも矢印の歴史的な起源は何か? 議論を美術史に限ってもこれは明らかではない。エルンスト・ゴンブリッチは「矢印が、一体いつどこで、ポインターあるいはベクトルの表記としての普遍性を獲得したのかという問題について不思議に思うに至った」と書いている ※7。矢印があまりにもジェネリックな記号/図像であるため、この問題を考察するためには特定の文化や共同体で用いられる矢印に議論を限定することから考察を開始するのが適当だろう。そのような論考の例としてイギリス政府の所有物につけられたブロードアロー(図6)という紋章に関する短い論文がある ※8。また筆者は、ビジネスマネジメントのプレゼンテーションなどに観察される矢印の図像について調べているところである。この他に矢印記号/図像は思いがけないところにも登場する。例えば、哲学者のテクストに描かれる矢印はどのような意味を持ってどのように描かれているのだろうか? ドゥルーズのテクストにはしばしば手書き風のダイヤグラムが置かれ、そこに矢印が描かれる。ドゥルーズの描く矢印と、企業のビジネスパーソンたちが描く矢印には、どのような相違あるいは類似があるのだろうか? 矢印の理論を充実させると同時に、こうした個別のコンテクストにおける矢印の役割を考察していくことに、今後の研究で取り組んでいきたい。

伊藤未明

図6:ブロードアロー 図6:ブロードアロー

[脚注]

※1 今井今朝春(編)『矢印の力:その先にあるモノへの誘導』ワールドフォトプレス、2007年.

※2 Gunter Kress and Theo van Leeuwen. Reading Images: The Grammar of Visual Design Second Edition. Routledge, London and New York. 2006.

※3 Ibid., p.59.

※4 Gillian Fuller. “The Arrow—Directional Semiotics: Wayfinding in Transit”, Social Semiotics 12(3), 2002, pp. 231-244.

※5 池田祐子「揺れ動く指標:クレー芸術における<矢印>の問題をめぐって」『美学』第169号、1992年、46-56頁。

※6 Paul Klee. Pedagogical Sketchbook, trans. Sibyl Moholy-Nagy. Frederick A. Praeger, New York. 1953. p.57.

※7 Ernst Gombrich. The Use of Images: Studies in the Social Function of Art and Visual Communication. Phaidon, London. 2000. p.228.

※8 John Monk. “Arrows Can Be Dangerous”, tripleC, 11(1), 2013, pp.67–92. [http://www.triple-c.at/index.php/tripleC/article/view/337/439] (accessed March 17, 2013)