第8回研究発表集会報告 研究発表4

研究発表4|報告:谷島貫太

2013年11月9日(土) 16:00-18:00
東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム2

テレビにおける野球中継の分析——映画との比較から
滝浪佑紀(東京大学)

テレビにおける「気分」分析の試み——原発事故報道を題材として
谷島貫太(東京大学)

中国抗日ドラマと日中歴史表象の可能性
劉文兵(東京大学)

【司会】長谷正人(早稲田大学)

テレビというメディアは捉えどころがない。それはフローのメディアとして次々に流れ去ってアーカイブを残さず、また正面から真面目に視聴されるものでもなく、さらにはあまりにも特定の時間と場所に埋め込まれ過ぎている。学問的な研究対象として、その拠って立つところがきわめて曖昧であるのだ。本パネルは、このように捉えどころのないテレビという存在を、それぞれのジャンル、それぞれの角度から捕まえようとする三つの報告によって構成されている。

最初に俎上に上げられたのは、野球中継である。滝浪祐紀による「テレビにおける野球中継の分析——映画との比較から」は、野球の試合を扱う映画作品との比較を通して、テレビの野球中継のうちにテレビ的原理の現われを読み取ろうとする。そこで試みられた分析において着目されたのは、野球の試合を構成する個々の出来事が組み立てられていく際のモンタージュ原理である。とりわけ、投手が投じたボールを打者が捉える瞬間をめぐる、一見すると些細な編集作法の差異が、実は映画とテレビという二つのメディアを支えるそれぞれ異なる前提を明らかにするものであることが示される。

映画では、打者がボールを捉える「前」に、すでにカメラはボールが飛んでいく先にあらかじめ切り替わり、ボールが飛んでくるのを待ち受ける。対してテレビでは、カメラが切り替わるのは打者がボールを捉えたその「後」であり、カメラは打者がボールを捉える瞬間を決して逃さない。映画とテレビのこの差異は、それぞれのメディアが想定する予期構造の差異に由来する。(ある種の)映画において問題とされるのは、登場人物たちの動機連関であり、これから起こるであろう出来事は、その動機連関の延長線上で展開されるものとしてあらかじめ予期される。対して野球の生中継においては、次に起こる出来事を規制する原理は、偶然である。スポーツの規則によってあらかじめ不確定性が一定の形で縮減された上で、しかし次に何が起こるかは、偶然の支配に委ねられる。

野球中継を題材として、偶然を原理とする出来事の推移を捉えようとするテレビのあり方を浮かび上がらせようとする滝浪が依拠するのが、Stanley Cavellのテレビ論である。Cavellはテレビの基本的知覚モードを、出来事の推移を注視する「監視monitoring」であるとみなした。滝浪は、野球においては、打者がボールを捉える瞬間が偶然による出来事の特権的な瞬間となっていることを発見し、その瞬間を映画とテレビがそれぞれ処理する際に依拠されるモンタージュ原理の差異に着目することで、テレビの野球中継のうちに、Cavellが「監視」と呼んだ知覚モードがはっきりと現れていることを、具体的な分析手続きによって明らかにした。

滝浪報告が、野球中継という極めてフォーマット化されたジャンルを題材とした正常時のテレビを扱ったのだとすれば、次の谷島貫太による報告「テレビにおける「気分」分析の試み——原発事故報道を題材として」は、東日本大震災後、とくに原発事故の発生が伝えられはじめる非常時のテレビを扱っている。

2011年3月11日の震災発生後、約24時間のNHKのテレビ報道をコーパスとして行われた分析の出発点となっているのは、アナウンサーによって言語的に明示的に語られたメッセージと、その背景に映し出されている映像との関係である。谷島によれば、アナウンサーが語る言語的メッセージは、原則として「安心」という気分を確保しようという動きを示しつづけるが、それに対して、アナウンスの背後で映し出される映像は、しばしばアナウンサーが発するメタメッセージ、すなわち「安心してください」という語りかけを裏切っているという。この二重のメッセージによるダブルバインド状態は、爆発によって骨組みだけになった福島第一原発一号機の映像の登場とともに決定的な転回を示す。すなわち、映像による事態の提示が、言葉による説明を圧倒してしまうのだ。

谷島はこの事態の推移のうちに、「安心」を生み出していこうとするテレビの基本的な放送モードが、映像による出来事の提示によって破たんをきたし、決定的な「不安」を生み出していくというプロセスを読み取っていく。同時にこの分析はまた、テレビ放送を介してリアルタイムで作り出されていっていた当時の視聴者のテレビ体験を、テレビのメディアテクストから逆算的に再構成するという試みでもある。最終的には、非常事態時のテレビ放送を題材とした「気分」の分析が、正常時のテレビにおいても同様に構想しうるという可能性が提示され、報告は締めくくられた。

最後の報告者である劉文兵による議論の舞台は、日本ではなく中国のテレビである。「中国抗日ドラマと日中歴史表象の可能性」と題された報告では、中国国内で多大な人気を博している、日本軍を悪者に仕立てる抗日ドラマをめぐる諸問題が扱われた。

劉はまず、2012年現在で中国全土をカバーする衛星放送のゴールデンタイムに放送されたドラマ200作品のうち、70作品以上が抗日ドラマであったという現状を紹介する。これは無論、「抗日」というテーマそのものに人気があるのはもちろんだが、それに加えて制作上の理由もその傾向に拍車をかけているという。すなわち、「抗日」というテーマそのものに人気があるためスター俳優を起用せずに済むのに加え、舞台が近代であるためロケ制作の手間が大幅に省けるという点で、制作コストが大きく下げられるのだ。さらには、映画でなくテレビにおいて抗日ドラマがより活発に作られているという事実にも注意が促される。これは、映画よりもテレビの方が中国当局の検閲が緩いためで、それゆえテレビでは、より自由に、歴史的事実からかなりかけ離れた形で、「抗日」的図式を強調することが可能であるというのだ。

劉によれば、映画においてももちろん抗日ドラマは多く存在するが、現実の複雑性を描き出そうとする作品は多くの観客を集めることができない。結果として、視聴者の欲望に応えるテレビの抗日ドラマが歴史的事実についての特定のイメージを流通させていくことになる。劉がなによりも懸念しているのは、消費者の欲望ベースで生産されていく商業的な歴史表象が、結果として国際政治を歪める、この場合には具体的には中国と日本の関係を阻害する役割を果たしてしまう、という事実である。もちろんこれは中国側だけの問題ではなく、日本側においても、歴史的事実に対する消費者的リアクション、すなわち自分たちにとって望ましい歴史表象だけを消費し、そうでないものからは目を背ける、という傾向が同様に見られることの指摘も劉は忘れない。歴史表象がテレビ的商品になることの危険を、強く喚起する報告となった。

三人の報告者それぞれの報告の後、そして最後にも活発な議論が展開された。論点は、映画とテレビの差異や、受け手の能動性を強調するオーディエンス研究との関係、報道の記録映像が有する時間性、歴史表象と笑いの関係など、多岐にわたった。それらの議論に通底していたのは、テレビを題材として研究する際の方法論的な困難に対する意識であった。どのようにすれば、テレビを正面から研究することができるのか。この難問を前にして、報告者たちはそれぞれのアプローチでその研究の可能性を提示し、聴衆もまたそれぞれの観点、それぞれの関心から疑問を投げかけ、ありうべきテレビ研究の姿を描き出そうとしていく。今回組まれたパネルは、この難問に取り組んでいく道のりのささやかながら確実な一歩を刻んでいた。今後、新たなパネルがこの問題意識を引き継いでいくことを祈念してやまない。

谷島貫太(東京大学)

【発表概要】

テレビにおける野球中継の分析——映画との比較から
滝浪佑紀(東京大学)

テレビ番組はどのように分析されうるだろうか。映画におけるショット毎分析を適用するというのが、ひとつの方策だろう。しかし、テレビ番組を単なるテクストと前提することによって、私たちはこのジャンルないしメディアの特性を見逃してしまうのではないか。第一に、「中継」とはテレビ特有の伝達モードだが、これは従来のテクスト分析では十分に考慮されていない。第二に、テレビ番組というテクストは映画に比べ、緩くにしか編まれていないが、この緩さこそがテレビ番組の特性を構成していると考えられる。
本発表では、「中継」であるという点で優れてテレビ的ジャンルであると考えられる野球中継を考察する。野球中継は、空間的にも時間的にも細分化されたショットから構成されており、この点、映画との比較に適しているのである。発表ではまず、野球を主題とした映画として『ラブ・オブ・ザ・ゲーム』(サム・ライミ、1999年)を取り上げ、同作品における試合シーンを分析する。続いて、高校野球の中継番組のシーンを分析し、映画との比較の上で、中継番組の編集原理の中心には、打者が打つか否か等のプレイの〈偶然性〉があることを明らかにする。さらには、メアリー・アン・ドーン、スタンリー・カヴェル、サミュエル・ウェーバー等のテレビ論を参照し、「フォーマット」や「監視monitoring」といった概念とともに、テレビ中継の伝達モードの含意を考察する。

テレビにおける「気分」分析の試み——原発事故報道を題材として
谷島貫太(東京大学)

あまりにも大きな出来事が生じると、テレビはフレームワークを失う。番組編成は吹き飛び、テレビは一つの緊張した眼差しとなって、外界に起こりつつあることをそのまま中継しつづける。震災・原発事故後に日本人のテレビ視聴者が目撃したのは、まさにそのような事態であった。ここに見られるのは、Roger Silverstoneがテレビという日常のメディアの役割として見出した「存在論的安全」の対極に位置する、テレビ的配慮のシステムの崩壊にともなって噴出した「存在論的不安」である。
Stanley Cavelはそのテレビ論、”The Fact of Television”のなかで、存在論的な観点からテレビというメディアを描き出している。そこではテレビは、さまざまなフォーマットを通して未知なる未来をあらかじめ待ち受け、理解可能な出来事として次々と消化していく一種のモニタリングシステムであるとされている。しかしそこでは、テレビがフォーマットを消失させるという例外状態は想定されていない。そしてそのことと深く関連して、テレビにともなう気分の問題、とりわけテレビがフォーマットを失った際に生み出さざるをえない「根本気分」としての不安の問題が扱われていない。 本発表では、震災および原発事故直後一週間のテレビ放送をすべて記録したアーカイブを足掛かりに、その当時にテレビが生み出した「気分」の検証を行う。そこでは、言葉に書き起こし可能な「語られたこと」には収まらない、「気分」というテレビ独自の広大な領野が発見されるはずである。また同時にこの研究は、「気分」産出装置としてのテレビという存在に光を当てる試みの序論の位置を占めることにもなるだろう。

中国抗日ドラマと日中歴史表象の可能性
劉文兵(東京大学)

中国人が抱く日本のネガティヴなイメージをつくり上げた根本的な原因は、両国の間の政治的摩擦よりも、そもそも日中戦争の歴史にあった。戦後生まれの中国人が日本に対して抱いているイメージは、戦争経験者の証言や、学校での歴史教育にくわえ、そのかなりの部分が映像によって形成されている。とりわけ、近年の「抗日テレビドラマ」を抜きにして語れない。しかし、そのほとんどの作品は、超人的英雄としての中国共産党軍と、残忍だが愚かな日本兵の対決という図式のもとで、過酷な歴史をエンターテインメント化しているという傾向が目につく。日本のマスコミにおいても、こうした抗日ドラマが中国政府による反日教育の証としてしばしば取り上げられている。それゆえ、一般の日本人のなかには「中国の抗日ものは、中国人が都合のいいように歴史を書き換えた、荒唐無稽なフィクションである」という漠然とした印象を抱いている人々が少なくないだろう。
しかし、抗日ドラマは、中国国内の社会状況や、日中関係と密接にリンクしている。そのため、たとえフィクショナルな作品であっても、その映像には中国人の歴史の記憶、または欲望が何らかのかたちで投影されているように思われる。近年の抗日ドラマの行き過ぎた表現のなかにこそ、政治的プロパガンダの作用では解釈できない、庶民の本音の部分が見え隠れしている。本発表は、抗日ドラマに描かれた日中戦争の表象を、映像に即した表象分析というアプローチで分析をおこなうことをつうじて、今後の日中の歴史表象のあり方や方向性を示唆し、険悪になりつつある日中関係において打開の糸口を見つけるためのささやかな一石を投ずることを試みる。