研究ノート | 江口 正登 |
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「使えるプログラム」のこと
——「インストラクション」としての上演
江口 正登
昨年秋、京都国際舞台芸術祭KYOTO EXPERIMENT 2013に、「使えるプログラム」というプロジェクトで参加してきた。KYOTO EXPERIMENT(以下KEX)の中でのこのプロジェクトの位置づけが少し込み入っているのだが、プロジェクトのユニークさを理解するために必要だと思われるので、はじめにそのあたりの事情について少し詳しく説明しておきたい。
KEXは、京都市や京都芸術センターらが中心となって組織される実行委員会の主催により、2010年から実施されている舞台芸術祭で、この種のフェスティバルとしては、国内では東京で行われているフェスティバル/トーキョーに次ぐ大規模なものである。KEXでは、国内外の作家・団体の上演を行う「公式プログラム」に加えて、まだ地位や評価の枠組みの確立していない新興のアーティストを紹介することを旨とする「フリンジ企画」という部門を設けている。KEXの場合にユニークなのは、このフリンジ企画自体にディレクターを置いている点である。たとえば、上述のフェスティバル/トーキョーでも、主催演目の他に「公募プログラム」という名の下に実質上のフリンジ部門が設けられてはいるが、しかしこの場合には、参加作家・団体たちはその名の通り公募によって選ばれるものであり——もちろん選考の過程に一定のクライテリアは存在するであろうが——特定のディレクション意図に基づいて参加を依頼されるわけではない。対して、KEXの場合には、フリンジ部門固有のディレクターとそれを中心に編成されたチームが、フェスティバル本体からは基本的に独立して同部門の企画・運営を行う。いわば、フェスティバルの中に小さなフェスティバルが入れ子になったような構成となっているのだ。2013年度は、公開プレゼンテーションを経て、演出家の羽鳥嘉郎がディレクターを担当することとなり、彼に依頼されて私もプロジェクト・メンバーとして参加することとなった。
私自身が参加を決めた理由は大きくは次の二点。まず、ごく当たり前のことではあるが、「使えるプログラム」の掲げるコンセプトやその総体的な意図が、パフォーマンス研究を主要なフィールドとする私の研究上の関心とよく合致するものであったということがある。公式サイトに掲げられた説明を引くならば、「使えるプログラム」とは、「「劇は使える」をコンセプトに、「劇」という、劇場や舞台といった意味に制限されがちな概念をとりあげ、その素材や領域を問い直し、思考する場を生み出すこと。そして劇を認知する回路が、日常の関係やコミュニケーションにおいても使える、ことを示そうとする」 ※1 ものである。形式化を通じての、有用性と結びつくものとしての劇の拡張という風に要約できるだろう。「劇」を劇場や舞台といったコンテクストを超えて思考するという態度は、演劇研究を一つの主要な母胎としつつも、狭義の審美的・芸術的領域を越えて、儀礼、スポーツ、ゲーム、政治的デモンストレーション、さらには日常生活における振る舞いといったものまで含めたきわめて広範な領域を、人間の行為一般およびそれを通じての象徴的秩序の再現働化という観点から自身の対象として包括してきたパフォーマンス研究の発想と近しいものがある。第二に、具体的にはフェスティバルの一部門の運営というかたちをとる、「プログラム」という大きな枠組みへの参加であるという点も大きかった。つまり、一つの自立的=完結的な作品の制作に関与する場合とは異なり、より持続性や発展可能性のある試みが期待できた。研究者が現場に関与することは、近年は日本でもドラマトゥルクという職能の導入と相まって盛んになりつつある。しかしその際に、そもそも学術知が作品の創造に対していかなる仕方で構成的に作用しうるのか、そうした原理的な問いが問われることは比較的少ないように思われる。作品ではなく「プログラム」に参加するということがそれに対する直接的な回答となるわけではないが、よりアドホックではない実質的なアプローチの仕方を模索するチャンスにはなるのではないか。そのように考えて「使えるプログラム」への参加を決めた。
具体的な内容の紹介に入ろう。プログラムは、〈上演系〉、〈ワークショップ系〉、〈支援系〉、〈記録集〉という四つの系列から構成されていた。重要なこととして、これら四者は、上述の「劇は使える」というコンセプトを検討するための複数の実践としてすべて等価なものとして位置づけられている。
〈上演系〉はゲスト参加者に文字通り上演——といってもそれは通常の演劇作品のイメージからは程遠いものであるが——を行ってもらうものである。普通の舞台芸術祭でいえば、各参加団体による上演にあたるものであり、その場合、当然これらはその芸術祭におけるメイン・コンテンツという位置づけを得るだろう。しかしながら、「使えるプログラム」においてこれらはあくまでも「コンセプトを検討する有効な事例」としての資格においてなされるのである。したがって、同じゲスト参加者にワークショップを行ってもらう〈ワークショップ系〉も、劇を「使う」ための方法自体を開示するという意味では、むしろ上演よりも直接的にこのプログラムの趣旨に触れるものと考えることもできる。〈支援系〉は〈支援系A〉と〈支援系B〉の二種類に分かれる。前者は「ゲストへのインタビューや、トークイベントでの発言、ゲストと並んでの上演・ワークショップといった企画などを行うことができるもの」であり、後者は「本プログラムの制作現場や、会期前の批評講座を通して、批評的なまなざし・行動力・経験を得ることができるもの」。一般的な舞台芸術祭の構成に合わせて大雑把に説明してしまえば、前者は作家や批評家としての立場、後者は制作インターン的な立場での、公募を通じての参加者ということになるが、参加の仕方や度合いの決定を最大限本人に委ねており、それによってこのプログラム自体を「使って」もらうことに主眼があるのが特色である。そして、会期終了後に制作されるドキュメントである〈記録集〉が、プログラムの柱に含まれていることの意義は特に強調されねばならない。〈記録集〉それ自体を、プログラムを構成する基本的な要素としてみなすということは、単なる後追い的な上演の記録としてではなく、むしろ、それらの成果をより一般的に「使える」ものとするためのマニュアルとしての機能を狙ってのことである。まとめるならば、〈上演系〉は使うための事例、〈ワークショップ系〉および〈記録集〉は、使うべき技法の実地あるいは文書化されたかたちでの伝達であり、それらを使うエージェンシーが〈支援系〉であるといえるだろう。
これらに加えて、先の〈支援系〉の説明でも触れられている「批評講座」(会期前に全8回にわたって行われた)や、会期中にしばしば偶発的に発生することとなったいくつかのイベント、またメイン会場であり、その日のイベントの有無を問わず会期中の全期間オープンしつづけた河原町のVOX SQUAREという場のこと、さらにそもそも〈上演系〉や〈ワークショップ系〉のより具体的な内容など、紹介したいことは色々とあるが、ここでは、「使えるプログラム」の発想のユニークさが特に現れている点として、「インストラクション」の問題に触れておこう。
「使えるプログラム」では、〈上演系〉の参加者たちには一つの条件が課された。すなわち、上演はその内に必ず言葉による「インストラクション」を含むことが要求されたのだ。どういうことか。具体的な例として、ゲームデザイナーの米光一成によって上演された『思考ツールとしてのタロット』を取り上げてみよう。これは、タロットカードを占いの媒体としてではなく、その名の通り「思考ツール」として用いようとする試みである。たとえば、「復活」を示唆する「審判」のカードが引かれたとして、『思考ツールとしてのタロット』においては占者がその意味を与えるのではなく、タロットにあたった本人がそれに解釈を加えるのだ。つまりここでは、22枚のタロットが、その象徴的な意味合いはそのままに、しかしそれを確定的な運命を告げるものとしてではなく、自らの思考を分節するためのグリッドのようなものとして用いられるのである。グリッドによって思考が規定されるという意味では受動的な経験であるが、しかし思考それ自体はもちろん自らが遂行するということ、またそうしたグリッドを可視化、さらにいえば22枚のカードとして文字通り可触化すらするという意味では能動的な経験であり、結果として自律的とも他律的とも呼びがたい奇妙な思考の経験を出現させることが、この上演の肝であるだろう。
さて、上記の『思考ツールとしてのタロット』の場合には、タロットを操る手順、そして、それに応じつつ解釈をせよという指示が「インストラクション」をなしているわけだが、ここで興味深いのは、この「インストラクション」を実行することは、そのままこの上演の実現になるということだ。確かに、上演というものが一連のプロセスの実行であるのならば、それはそのまま言葉による一連の指示に置換することができる。しかし、多くの場合、上演をそのようなかたちで言語化することは、その質を決定的に損なってしまったり、(あるいはそれを回避しようとするならば)気の遠くなるほど煩瑣な作業になってしまうと思われている(言葉はたとえば俳優の振る舞いをごく大まかにしか把捉しえないし、それを回避し、俳優の挙動のひとつひとつを綿密に指示しようとすることは、ほとんど現実性を欠いた煩瑣な作業となるだろう)。だがそれは、実際には上演の実質——その上演をその上演として特定化するための必要要素——をどう定めるかの問題であるはずだ。ここに「使えるプログラム」の発想の転換がある。すなわち、上演が必ず「インストラクション」を含みこむよう規定することによって、そもそも「インストラクション」という形式に分節可能なものとしてその実質が措定されるような上演が構想されることとなるのだ。
他者に実行を促す発話としてのインストラクションは、きわめて伝達性の高いものである。仮にそのインストラクションの実施に多少の困難が伴われる場合があるにしても、インストラクションそのものの理解はたやすいはずだ(「解釈せよ」という指示の実行に困難が伴うことがあるにしても、「解釈せよ」という指示の意味自体は何の解釈の必要もなく判明である)。上演の実質がインストラクションとして定義されるとき、それは、多くの人に対して「使える」可能性を開かれたものとなる。〈記録集〉が単なる補助的なドキュメントとしてではなく、プログラムの本質的な構成要素として位置づけられているのも、それがこの可能性の拡散に直接的に寄与するがゆえである。上演はインストラクションとして記述できるがゆえに「使える」ものであり、それを記載するドキュメントは単なる記録以上のものとなる。上演をどのようなものとして規定するかということと、「使える」というコンセプト、プログラムの具体的な構成とはこのように緊密に連関しあっているのだ。
「使えるプログラム」は、この2014年も昨年に引き続き実施される予定である。一つのプロジェクトとしてのそれは今回の枠組みに固定されることなく、様々な場で展開していくことも構想されている。研究と実践の相互フィードバックという理念を、単なるスローガンとしてでなく意識しつつ、「劇」を使うための探究に引き続きコミットしていきたいと考えている。
江口正登(東京大学)
※1 「使えるプログラムとは」『KYOTO EXPERIMENT 2013 フリンジ企画「使えるプログラム」』,http://kyoto-ex-useful.jp/about
〈上演系〉ゲスト参加者けのびによる『ウィルキンソンと石』の上演風景。会場である河原町VOX SQUAREは、プログラム全体のミーティングポイントでもあった。
©Satoshi Nishizawa
けのびによるワークショップ『おかず石』。京都南部の笠置町近辺の河原で実施された。煮沸消毒された石をおかずに白米を味わい、味覚の拡張を試みる。
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米光一成『思考ツールとしてのタロット』上演風景。会場はVOX SQUAREに隣接するギャラリーARTZONE。
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