研究ノート | 田口 かおり |
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「再びre-つくるfaciō」の起源:「力」としての保存修復
田口 かおり
「再びre-つくるfaciō」の起源:「力」としての保存修復
そこにおいては、すべてが明朗で、すべてを読み解くことができるはずなのだ。
美術史家アレッサンドロ・コンティは、美術作品の「オリジナル」に対して人間が抱く夢想の内実を、簡潔に表現している ※1。経年変化の末に古びて変色変形した作品群は、「原始の『エデンの園』」への夢をかきたて、その追求を人々に促してきた ※2。
一体、人類が芸術作品を修復するようになったのは、いつのことなのだろうか。この疑問が、執筆者の研究のひとつの出発点であった。保存修復の起源を検証するとき、まずそこに浮上するのは、近代イタリアにおける取り組みである。修復学開花の徴候は、17世紀の美術史家フィリッポ・バルディヌッチ(1625-1697)による「古色(パティナ)」についての一節 ※3や修復士カルロ・マラッタ(1625-1713)が残した洗浄などに見出すことができる ※4。「制作」と「修復」のあいだに境界線をひき、専門的技法とその介入根拠となる理論の双方を同時に打ち立てようと試みたパイオニアたちの試みは、1963年、美術史家チェーザレ・ブランディ(1906-1988)が上梓した『修復の理論』において、ひとつの達成をみたといえるだろう。
ここで強調されたのが、外観を自在に「操り」、はては「つくりかえる」ことさえ可能な修復という行為が、作品の歴史的変遷の価値を「捻じ曲げる」危険性であったことは、興味深い。介入側の立場に身を置きながら、ブランディは、当時横行していたオリジナル回帰を目指す過剰修復を批判し、修復にひそむある種の「力」を自覚し抑制する必要性を訴えたのであった。
実際のところ、この「力」がいかに作品を「つくりかえて」きたのか、その近代の例は枚挙にいとまがない(Fig. 1)。ただし、修復が内包するリスクと、そこに見え隠れする「より良いもの」への改変へむかう欲望、そしてそれを可能にする「力」をめぐる考察は、保存修復学史の起源をめぐる問いへと、再び戻ってゆくことになる。何故なら、ブランディの時代から遡ること2000年あまり、奇しくも同ローマにおいて、既に修復は支配者の「権力」と分かちがたく結びつき、多くの美術作品を文字通り「つくりかえて」いたからだ。
Fig. 1. アントネッロ・ダ・メッシーナ 《受胎告知》 板に油 1474年 180x180(cm) シラクーサ ベッローモ州立美術館所蔵 |
美術史家にして建築史家でもあったヴィオレ・ル・デュク(1814-1879)は、古代ローマ人にとって修復行為を指す動詞は「再建するinstaurare」、「改作するreficere」、「一新する renovare」の三つであり、通底する概念として「再びre—つくるfaciō」があったことを指摘している ※5。
修復作業——建築物あるいは彫像を「再びつくる」こと——を請け負うのは、時の支配者たちの特権であった。歴史家ティトゥス・リウィウスをして「あらゆる寺院の創建者にして修復者templorum omnium conditor ac restitutor」と呼ばせしめた皇帝アウグストゥス (在位27-14)から「自らの都市の保存管理人conservator urbis suae」と称されたマクセンティウス帝(在位306-312)まで、都市の建築物の保存や景観の保護に力を注いだ皇帝は数多い ※6。古代ローマにおいて、「修復」はまさに「力」として表出したのである ※7。注目すべきは、皇帝アウグストゥスが行った公共建造物の私費による補修や再建が、野獣狩りや剣闘士の試合、市民への現金の付与などと並び、「贈与」として記録されている点であろう。つまるところ、古代ローマの皇帝にとって、修復とは、国家とローマ市民全体へ恵投されるものであり、まさにその皇帝としての権限potestasを示すための一手段であったのである。
復元作業が権力を示す手立てとなった顕著な例として、もうひとつ、アウグストゥス帝の諸事業を挙げておく。当時、裕福な名門家を出自とするローマ人たちの邸宅には、「祖先の像 imagines maiorum」とよばれる彫像と、彼等の経歴を刻んだ碑文elogiaとが共に保管されていた。アウグストゥスは、碑文が既に失われた彫像について、その復元を試みる。具体的に行われた修復作業は、ユーリウス氏族の祖先の彫像と将軍たちの彫像に刻まれていた顕彰碑文elogiaを復元し、アウグストゥス広場に並列展示するというものであった ※8。これは、「不滅の神々の次にローマ市民たちの支配を最小から最大にした将軍」たちの記憶に栄誉を与えたるための「再建refeci」であったと考えられる。著述家スエートーニウスは、『アウグストゥス伝』の中で、次のようにアウグストゥスの修復事業を後世に伝え残している。「(アウグストゥスは、)不滅の神々の次に、ローマ市民たちの支配力を最小から最大に引き上げた将軍たちの記憶に栄誉を与えることを試みた。そこで、各人の建造物を銘文とともに再建し、全員が凱旋式の服装をまとった彫像群を彼自身の広場の柱廊両側に奉献し、そして布告で次のように告げた。『私がそのことを発案したのは、私が生きている間は私自身が、そして将来の世代の第一人者たちが、あたかも手本に従うように彼らの生涯に倣うよう、要求するためであった』と ※9」。
修復と権力との結びつきが、「復元」のみならず「破壊damnatio」のかたちをも、とるようになった点にも、言及しておく必要があるだろう。当時のローマ法が反逆罪への刑罰として行った「記憶の抹消」の刑、いわゆるダムナティオ・メモリアエである ※10。
ダムナティオ・メモリアエを受けた人物は、自らが遺したあらゆる痕跡を抹消され、一切の生の痕跡を消される。彫像は打ち壊され、レリーフは容赦なく削除された。名誉を重んじ、自らの社会的身分を重用視する気質で知られた古代ローマ人にとって、ダムナティオ・メモリアエがいかに厳しく残酷な刑罰であったかは、想像に難くない。ダムナティオ・メモリアエに類似する「記憶の破壊」例はエジプトやギリシアでも数多いが、硬貨からブロンズ像に至るまでの幅広い事例と、破壊された事物の復元例がもっとも豊富なのは、他ならぬローマである。一時、歴史的に抹消されたものの、後の復元作業をもって人々の記憶の内に返り咲いた皇帝のなかに、皇帝ネロがいる。68年に自らの命を絶ったネロは、死後まもなく元老院からダムナティオ・メモリアエの刑に処されるが、後にその像の多くが復元されることになった。ただし、ネロが建造した黄金宮殿Domus Aureaに置かれていたとされる巨大なネロ像をはじめ、めまぐるしい改変を経て、結局消滅していった作品も数多い。上述のネロ像にかんしていえば、元老院は、ネロが生前行った悪行の数々に鑑みて、像の保存は望ましくないとし、太陽の冠を加える修繕を行うことで太陽神アポロンへと変えてしまった ※11。この「旧ネロ—新アポロン像」は、続いて、自らをギリシア神ヘラクレスの化身であると信じていた皇帝コンモドゥス(在位180-192)により《ヘラクレスの化身たるコンモドゥス》へと改変され、最後にはギリシア神話の太陽神ヘーリオスへと再改変を受けた。皮肉なことに、コンモドゥスその人も後にダムナティオ・メモリアエを処され、自身のレリーフ類を破壊されている。ネロ像にみる削除と改変の史実は、古代ローマにおける「修復」が、権力者の懐の内で行われる「記憶の操作」に他ならなかったことを、今日のわたしたちに伝えるものである。美術史家ハンナ・イエジェイエフスカも憂慮したように、修復は、ある種の権力として機能しうる性質であった。そこにひそむ「暴力性」もまた、古代ローマの介入例を検証するなかで、あきらかとなったのである。
修復士が外観を制作時の状態に戻そうと修理をし、詰め物をし、再構築を試み、加筆を加える時、そこには誤解が生じ、作品は手荒く扱われて損傷を受けたあげく、我々の過去と作品への誤った認識が生じる ※12。
再び、20世紀へと、まなざしを転じてみよう。イタリアにおいて成立した新たな修復学は、上述の「記憶の操作」としての介入の克服を試みる。ここで目指されたのは、作品の「生」の歴史——作品としてこの世に誕生し、鑑賞物として機能する時間を経て、美的あるいは歴史的な価値を見出すことが不可能な、外観・構造上の「死」へと至るまでの行程——を「読み解き」、その痕跡を可逆的かつ判別可能な方法で保存する補彩や洗浄技法の考案であった ※13(Fig. 2)。それはまさに、古代における「権力の修復史」に鑑み、介入の暴力性に対峙し、修復の倫理を定めようとする態度であったろう。コンティの言うところの「すべてが明朗で、すべてを読み解くことができる」オリジナルへの回帰もまた、ここでは志向されることがないのである。ブランディは、「瓶(の埃)はきれいにしてはならないし、壁は汚してはならない」との簡潔な一節をもって、修復の倫理を説く。作品上に蓄積する生命の痕跡としての「塵・埃」=古色を完全に除去することなく、その考古学的な価値に配慮すること。そして、作品が配置される「壁」=背景、保管場所、展示空間に配慮し、保存につとめること。ブランディの修復理念は数多くの技法実践を通じて拡散し、近代保存修復学の基礎を築くに至った。しかし、ここにおいても、「埃を残す」=「古色を保存する」態度や、そこから誕生した非介入主義という選択そのものにひそむ恣意性が、ある種の「力」として、作品の生をある種の暴力にさらす可能性は、否定できないだろう。
Fig. 2. チマブーエ ≪十字架降下≫ 部分拡大 1280年頃 テンペラ 板 390(cm) サンタクローチェ聖堂付属美術館 フィレンツェ |
作品の生に配慮しつつ、いかに後世への伝承を試みるべきか。この課題を前に、保存修復学は、作品の構造・来歴・修復技法・保存方法の記録化——ドキュメンテーション——の充実をはかる方向へとむかいつつある(Fig. 3)。執筆者は現在、美術館展示作品のメンテナンスを行う展覧会コンサヴァターとして、保存修復の現場に携っているが、そこにおいても、刻々と変化する作品状態を記録するドキュメンテーションは、とりわけ重要な作業となっている(fig. 4)。「記憶の抹消」に携わるリスクを認識し、「記憶の保存」を慎重に目指す現代修復の志向を、今、わたしたちは確かに確認することができる。ただし、第三者が作品に介入する以上、保存修復学の根底には、現在も変わらず「再びre—つくるfaciō」の概念が通奏低音のように鳴り響いている。それこそが、保存修復学の内包する二律背反性であり、また、修復に寄り添い、修復が克服を試みてきた、内なる「力」なのである。
Fig. 3. 絵画作品のドキュメンテーション風景 |
Fig. 4. 展覧会出品作品のチェックとコンディション・レポートの作成風景 |
田口かおり(京都大学/日本学術振興会)
※1 Conti, Alessandro, Restauro, Milano: Jaca Book, 1992, p. 20.
※2 Ibid., p.20.
※3 Baldinucci, Vocabolario toscano delle arti del disegno, Firenze: Accademia della Crusca, 1681, p. 119.
※4 田口かおり「近代イタリアの絵画修復のおける古色への一考察」『古文化材之科学』、No. 54、2012年、37-48頁;
同上「保存・修復とドキュメンテーション―イタリアの例を中心に」『アート・ドキュメンテーション研究』、第20号、2013年 3-17頁。
※5 Viollet-le-Duc, Dictionnaire raisonné de l’architecture française du XI au XVI siècle, s.v. restaurer, Paris: A.Morel Éditeur, 1866. / Borrelli, Licia Vlad, Conservazione e restauro dell’antichità, Roma: Viella, 2010, p. 43.
※6 Titus Livius, Patavinus ad codices parisinos recensitus, IV, 20, 7.
※7 皇帝アウグストゥスが自ら記した業績録 Res gestae divi Augsti の第20章には、紀元前28年に82もの神殿を修復したことが記され、そして補遺には修復した公共建造物のリストが並ぶ。アウグストゥスが報告するのは、カピトーリウムとポンペーイウス劇場の再建、諸水道の流路の修復と拡張、火災で焼失したユーリウス広場と公会堂の再建、そしてミルウィウス橋・ミヌキウス橋を除くフラーミニウス街道の全ての橋の修復である。以下を参照。Augustus, Res gestae divi Augusti in Lexicon topographicum urbis Romae, ed. Steinby Eva Margareta, Roma: Edizioni Quasar, 1993.
※8 Borrelli, Licia Vlad, Op. cit., p. 44.
※9 Suetonius, Divus Augustus, 31. 5, cit. in Borrelli, Ibid., p. 45.
※10 以下を参照。Drijvers, Jan Willem, Damnatio memoriae, Groningen: Stichting Groniek, 2006 / Varner, Eric. Mutilation and transformation: damnatio memoriae and Roman imperial portraiture, Leiden: Brill, 2004.
※11 Plinius, Naturalis Historia, (d.C. 23-79), in Caii Plinii Secundi Naturalis Historiae, ed. Hardouin, Jean.,
Lipsiae: Sommeri, 1778-1791.XXXIV, 45 (プリニウス『プリニウスの博物誌』中野定雄・中野里美・中野美代訳、雄山閣出版、1986 年、新版 1995 年、VI《34-37巻縮刷版》、1376頁).
※12 Jedrzejewska, Hanna, Ethics in Conservation, Stockholm: Warsaw, 1975, p. 8.
※13 Basile, Giuseppe, Nota per la teoria del restauro (ジュゼッペ・バズィーレ「ジュゼッペ・バズィーレによる『修復の理論』日本語版翻訳補註」チェーザレ・ブランディ『修復の理論』小佐野重利監訳、三元社、2005 年、11頁)