第8回研究発表集会報告 書評パネル

書評パネル:國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』×千葉雅也『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』

2013年11月9日(土) 13:30-15:30
東京大学駒場キャンパス18号館アドミニストレーション棟学際交流ホール

書評パネル
國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』×千葉雅也『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』

國分功一郎(高崎経済大学)
千葉雅也(立命館大学)
堀千晶(早稲田大学)

【司会】佐藤嘉幸(筑波大学)

ドゥルーズをいかに読むべきか。2013年は、1980年代以降の日本における、いわゆるポストモダン哲学に対して突きつけられてきたこの問いかけに、大きな一石が投じられた年だったのかもしれない。國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店:以下『原理』と略す)、千葉雅也『動きすぎてはいけない──ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社:以下『動いけ』と略す)という、気鋭の論者二人によって上梓された二つのドゥルーズ論は、新しいドゥルーズ元年を予感させるに相応しい書物であった。二人を招いて表象文化論学会にておこなわれた書評セッションに多くの観衆が押しかけたのは、人々のあいだに、新しいドゥルーズ論こそが新しい時代を拓くものであるという無言の確信があったからではないか。その結果、書物という限定されたメディアをベースにしたセッションであるにもかかわらず、背後に非常な熱気があるのが感じられたというのは言い過ぎであろうか。

司会の佐藤嘉幸氏によって手際よくまとめられた二人の書物の特長をくり返すならば、『原理』はドゥルーズの哲学に固有の実践の問題を論じた書であり、『動いけ』は、ドゥルーズ哲学のキータームである生成変化の概念を自己破壊へと帰着させることなく、主体に置ける切断と接続をめぐる議論へと転回していった、という点にあるのであろう。コメンテーターとして登壇した堀千晶氏は、明晰かつしなやかな論理に乗せて、『原理』におけるスピノザの不在の意味を問い、『動いけ』におけるヒューム的切断の重要性と、存在論のクィア化という特徴を指摘した。

濃密な議論の中で明らかになったのは、社会的なものからはじめて局所的な個の構築を読み込む國分の議論と、個から出発して個からなる弱い接続体を志向する千葉の議論が、きれいな対照をなしている、という点であろう。そしてこの二つの──合わせ鏡のような──議論は、おそらくは、「資本主義」というもののあり方をめぐって興味深い展開を見せることであろう。

当日の模様をきわめて散文的な文章で報告したのには理由がある。この日この場所で交わされた議論は、ほぼそのままの形で、学会誌『表象08』の特集として掲載される。堀氏や佐藤氏のコメントや疑問に対して國分氏や千葉氏がどのように応答し、そこからどのような問題が見えたのかという詳細についてはあえてここでは触れずにおく。時代は違えど哲学を学ぶ一学徒にとってさえ、卓越した若きドゥルーズ研究者四人(佐藤氏は正確にはフーコー研究者なのかもしれない)が顔を合わせ率直な意見を交換したこのセッションは、知的な刺激と喜びに満ちたきわめて祝祭的な場であったということだけ付言しておこう。彼らとともに思考することの喜びが、すでにあの場に居合わせたものたちに、何かの生成変化を引き起こしてくれたに違いない。

大橋完太郎(神戸女学院大学)

【パネル概要】

ドゥルーズ哲学のアクチュアリティはどこにあるのか?
現代社会への批判的介入を促す実践的なドゥルーズ解釈=國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』と、ポスト構造主義以後の「思弁」哲学を考慮に入れつつ、狂った生存をやりくりすることをめぐるレトリック分析=千葉雅也『動きすぎてはいけない』を叩き台として、國分・千葉・堀千晶・佐藤嘉幸の四つの異質なドゥルーズ像が交差しすれ違う諸地点を探る。