新刊紹介 | 単著 | 『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』 |
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千葉雅也(著)
『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』
河出書房新社、2013年10月
複数の要素を結びつけつつ隔てる接続詞「と」。われわれがおそらく最も頻繁に用い、ドゥルーズ自身もまた複数の著作で注目するこの接続詞にこそ、著者はドゥルーズ哲学の可能性の中心を見いだしている。そして、ドゥルーズ哲学における「と」の持つ接続と切断との間のこの塩梅、著者の言葉を借りるなら「いい加/減さ」を巡って議論は展開されていく。この「いい加/減さ」とは、「関係の外在性」を論じた最初期のヒューム論『経験論と主体性』以来、彼の哲学そしてガタリとの協働に一貫して見出される「連合」と「分離」とが織りなす微妙な関係として規定されている。これをもって著者は、ベルクソンからの影響をドゥルーズ哲学の源泉として重きを置く先行研究が見逃してきたドゥルーズ像を浮き彫りにしていく。超越論と経験論、ツリーへの接続過剰とリゾームでの切断過剰、喜びと悲しみ等々――これら二項対立のどちらの極にも振れることなく、両者のあいだの「中途半端さ」にとどまること。これこそが、ドゥルーズの提唱する生成変化を可能にしてくれるのである。
だが、この著作はドゥルーズについてのみ論じるにとどまらない。思想史的観点からは、今世紀に入ってクァンタン・メイヤスーやグレアム・ハーマンらによって先導され活発になりつつある思弁的実在論、可塑性の哲学を提唱するカトリーヌ・マラブーらの「ポストポスト構造主義」、あるいは東浩紀による否定神学批判など、今日まさに展開されている哲学にドゥルーズの切断の思考を跡付けていく。さらに、今日スマートフォンやタブレットなどに囲まれ、SNSをはじめとするインターネット・コミュニケーションによって「接続過剰」になってしまったわれわれの生に直結する問題として、部分的に接続し部分的に切断するために「動きすぎてはいけない」と主張する。ドゥルーズへの入門のみならず、今日の現代思想の地図としても大きな反響が俟たれる一冊。(吉松覚)