研究ノート 榎本 千賀子

「心」を写す写真
――明治初頭の写真受容と「心」の道徳哲学
榎本 千賀子

3. おわりに

本稿で検討してきた今成家の写真、「心の寫眞」そして『人心寫眞繪』は、三者とも写真における「心」の表象可能性/不可能性に関わる事例である。今成家の写真は心学ものの黄表紙を参照しつつ映像が「心」を写す力を批判的に捉え、「心の寫眞」は広い意味での心学ものを投書欄で展開し、『人心寫眞繪』は心学を媒介に西洋小説を小新聞の読者に向けて読み替えてみせた。三者は写真における「心」の表象可能性/不可能性に対し、それぞれ異なる態度を示している。だが、三者の背景には共通して心学の影響が指摘できる。つまり本稿で挙げた三者は、「心」の表象可能性/不可能性をめぐる「心を写す写真」のイメージが、少なくとも明治20年ごろまでの小新聞の読者の間に共有されていた可能性があること ※20、そして、その写真観が心学という道徳哲学に基づいていたと考えられること、以上を示しているのである。

写真と心学の関係性は、これまで注目されてきておらず、この関係性は、今後明治初頭の写真受容を検討する上で、新たな糸口として期待できるだろう。しかし、ことは心学のみにとどまらないかもしれない。本稿での議論は心学と写真の関係に限定せざるをえなかったが、今回検討した3つの事例は、広義の心学を介しつつ、より広い思想と文芸と写真の密接な結びつきを示しているように思われるのである。

例えば、『人心寫眞繪』には、我が身を捨てて他の生物を救い、釈迦を供養することを意味する「捨身(しゃしん)」という「写真」と同音の仏教用語が、「吝嗇」と「倹約」をめぐる登場人物達の議論のなかで使用される ※21。そもそも心学が、神道・儒教・仏教の3つを基盤として成立したことを考えれば、「心を写す写真」に仏教的な意味が響いていても不思議はないのかもしれない。

また、明治初頭の新聞には、写真をはじめとする文明開化がもたらした文物を題材とした狂歌や言葉遊びの類が度々掲載されており、写真を読み込んだ歌も珍しいものではなかった ※22。そして、当時無数に作られたこうした歌の一つ、北信自由党員の作と伝わる戯れ歌に、第一節で紹介した無事平の都々逸と同様に「心」が写真に写らぬことを詠んだものがある ※23

顔や姿は寫眞にとれど とれぬ二人の胸のうち
(足立幸太郎『北信自由黨史』1932年、42頁)

千曲川、信濃川によって結ばれ、六日町とも地理的な繋がりをもつ北信地方の自由民権家が読んだこの戯れ歌は、政治に深く関与していた無事平とどこかで接点を有する人物の作ではないかと思えるほど、無事平の都々逸とよく似ている。これら無事平と北信自由党員の歌は、心学の道徳心とは直接的な関係のない、文芸における「心」と写真の関係の系譜を示しているのではないだろうか。

さらに、「心を写す写真」は後年の文学、美術とも関係付けられるのではないか。『人心寫眞繪』と同時期に出版された坪内逍遥の『小説神髄』は、小説の主眼は人間の情慾や世態を写すことにあると主張する。そして逍遥は、その主張において「写真」の語を用いるのである ※24。また、明治20年代ごろから写真においては「芸術写真」と呼ばれる動きが生まれ、「感興」や「主観」などと言い表される近代的作者の内面性=「心」の表出が追究されてゆく ※25

逍遥や芸術写真の担い手たちが考える「心」は、本稿で検討した「写真」が写し出す「心」からは大きく変容しつつあり、もちろんこれらを直接本稿の事例と比較することはできない。だが彼ら、とりわけ江戸期の戯作を愛読しながら戯作を乗り越え「小説(ノベル)」を生み出そうとした逍遥は、「心を写す写真」のイメージが同時代の人々に共有されている状況を知りながら、それを意識的に利用、変革しようとしていたはずである。そして、経済的に恵まれ、高度な教育を受けたものが多かった「芸術写真」の担い手達も、少なからずこうした知識を踏まえていたと考えて、あながち荒唐無稽とはいえないのではないか。安丸良夫は心学をはじめとする民衆思想が近代化に果たした役割を論じたが ※26、安丸らの民衆思想史研究を、「心を写す写真」を通じてこの時期の文学史や美術史へと接続することはできないだろうか。

本稿でとりあげた事例は、今成家の写真の撮影が明治4年から6年頃、「心の寫眞」の掲載が明治9年、『人心寫眞繪』が明治19年と、15年ほどの期間に渡っており、3例の間でも「心を写す写真」のイメージは大きく揺れ動いている。しかし、本稿では「心を写す写真」間の比較や歴史的な変化については踏み込むことができなかった。筆者は今後、事例の比較と歴史的な経緯の検討に取り組みつつ、さらなる調査を進める予定である。「心を写す写真」が示唆するものを、広い視野からゆっくりと考えてゆきたい。

榎本千賀子(新潟大学)
※本研究はJSPS科研費 25884026の助成を受けたものです。

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[脚注]

※20 ちなみに、小新聞は明治初期当時としては巨大なメディアであり、例えば「心の寫眞」が掲載された1876年の『読売新聞』の号あたり平均発行部数は15,009部、『人心寫眞繪』の連載が始まった1886年の『朝日新聞』のそれは31,413部であった(土屋、前掲書、273, 274頁)。さらに、新聞は回し読みや新聞縦覧所を通じて一部あたり複数の読者に読まれていたので、実際の読者は発行部数以上と考えられる。

※21 『朝日新聞』1887[明治20]年2月2日。

※22 例えば、「寫眞 鳥は鳴人は語らふ心地せり 物のまことをうつす鏡は」『朝野新聞』1875[明治8]年11月30日や「写真絵 ゑがゝずに絵とぞなりぬる写るその鏡の影を紙にのこして」『新潟新聞』1879[明治12]年1月8日(敷島之道署名の投稿記事)など。

※23 自由民権運動と写真の関係性については、緒川直人「政治写真の誕生—自由民権記・写真舗・スターシステム」緒川直人・後藤真編『写真経験の社会史—写真史料研究の出発』岩田書院、2012年、185−247頁を参照。緒川はこの戯れ歌も紹介している。

※24 坪内逍遥『小説神髄』岩波書店、2010年、53, 83, 141, 147頁(原著1885[明治18]年〜1886[明治19]年)。

※25 飯沢耕太郎『「芸術写真」とその時代』筑摩書房、1986年。西村智弘『日本芸術写真史—浮世絵からデジカメまで』美学出版、2008年。

※26 安丸、前掲書。