研究ノート 榎本 千賀子

「心」を写す写真
――明治初頭の写真受容と「心」の道徳哲学
榎本 千賀子

2. 小新聞に掲載された二葉の「心を写す写真」

2−1. 道徳心を写す写真――「心の寫眞」

最初に紹介するのは、1876[明治9]年3月29日、同年4月15日の2回に渡って『読売新聞』に掲載された「心の寫眞」と題する芝明神前の玉の井慶助なる人物からの投書である。この投書は次の書き出しから始まる。

世(よ)の中(なか)が追々(おひおひ)ひらけて來(き)たのも人々(ひとびと)が勉強(べんきょう)をするゆゑ何藝(なにげい)でも日(ひ)に増(ま)し巧(たくみ)になりますので寫眞(しゃしん)も上達(しゃうたつ)して此(この)ごろでは人(ひと)の心(こころ)を寫(うつ)す人(ひと)が有(あり)ますと申して友達(ともだち)から五六枚(まい)送(おく)ッてくれましたゆゑ是(これ)こそ新聞(しんぶん)ものだと思ッて早々(さうさう)貴社(あなた)へ送(おく)ります(『読売新聞』1876[明治9]年3月29日)※7

この冒頭に、人の「心」を写した「写真」=本文が続く。この一連の投書は「写真」と呼ばれるが、新聞紙面への写真印刷の一般化はまだ先のことである。もちろん写真図版が投書欄に掲載されるわけではない。また、写真を下絵とした版画が掲載されるわけでもない。その代わりに「写真」として提示されるのは、周囲の記事となんら変わるところのない文字情報である。

もともと「写真」という言葉は中国由来の絵画用語であった。そして、「写真」がPhotographyの訳語として定着してからしばらくも、「写真」はそうした絵画用語としての語義を失わず、そこから派生してかなり広い意味で対象を「写す」の意で用いられていた ※8。「心の寫眞」もまずはこうした広義の「写す」の意で用いられていると理解できる。

だが、3月29日の「心の寫眞」では「写真」は「枚」と数えられており、続く4月15日の投書の冒頭でも、「是(これ)ハ先日(せんじつ)のよりよく寫(うつ)ッた横山先生(よこやませんせい)か東谷先生(とうこくせんせい)かまたは小林(こばやし)さんか北庭(きたには)さんか何(なん)にしても妙々(めうめう)」と当時の著名写真師が複数挙げられている ※9。この投書における「写真」の語は、広義の「写す」という意味だけでなく、Photographyもまた意味しているのである。この投書における「写真」の語は、言葉の歴史を重層的に反映しているのだ。

しかし、「心の寫眞」は一体どのようなものを写すというのだろうか。投書をさらに詳しく読んでみよう。3月29日の投書の本文では、下婢(おさんどん)が主家や仕事に抱く不満、子どもへの体罰や軽微な盗みなどの仕事中のけしからぬ行為の回想、さらには嫁入りへの夢が綴られる=「写される」。そして、早く嫁に行きたいならばもう少し心が立派に写るよう心がけてはどうか、と意見して投書は締めくくられる。また、2回目の掲載となる4月15日の投書では、宵越しの金を持たない潔さを誇り、教育や借金を一向に省みることのない職人の心が綴られる=「写される」。そして、1回目の投書と同じく、ひどい貧乏暮らしを抜け出そうともせず、我が子をも文盲にしかねない職人の心がけが非難される。

この二連続の投稿においては、「写真」は人々の心がけ、態度を活写するものとしてあらわれている。しかも、「写真」が写す心がけや態度は、どちらの投書においても忠君、正直、勤勉、倹約等々の観点から批判されている。つまり、投書「心の寫眞」における「写真」とは、かなり限定されたある種の道徳心を写し出すものであると言えるだろう。

この投稿は、写真における「心」の表象可能性を扱う点においては、今成家の錦絵を抱える男の写真と共通している。だが、この投稿では写真が「心」を写す能力は疑われることはない。この点を考慮すると「心の寫眞」は、写真による「心」の表象可能性を問うてゆく今成家の写真よりも、むしろ今成家の写真が参照した京伝の『人心鏡寫繪』に近い。先に見たように、『人心鏡寫繪』では、写絵は不可視のはずの本性や本心を写し出すものとされ、「心の寫眞」同様その設定が作中で疑われたり失調したりすることはないのである。

ところで、『人心鏡寫繪』の背景となった心学とは、より正確に言うならば18世紀中葉に石田梅岩(1685-1744)によって創始され、当初町人を中心に広まった道徳哲学、石門心学を指している※10。ただし、中山広司は、心学流行期に多数作られるようになった『人心鏡寫繪』と同時期の心学ものの黄表紙は、教訓的な意味合いが薄く、石門心学の思想内容を厳密に伝えるというよりは、ただ小道具としてのみ利用したものであると評している ※11。『人心鏡寫繪』と同時期に多量に生み出された心学もの黄表紙には、心学はかなり雑駁なかたちでのみ、引き継がれているというべきだろう。

本稿で分析した「心の寫眞」は、『人心鏡寫繪』から、さらに約80年の年月を下った新聞投稿記事である。明治期には、狭義の石門心学の教えや、心学講舎をはじめとする組織は衰退していた。しかし、明治期に入っても「心学」の名を冠した書物は多数刊行され、小新聞にも度々心学に関連する記事が掲載されている。心学は思想の厳密さと引き換えに、日常道徳として、広い階層と地域に浸透していったと考えられている ※12。少なくとも「心の寫眞」が掲載された当時、『読売新聞』をはじめとする小新聞の主な読者層、つまり都市の旧武士、町人層を中心とする明治の識字層、準識字層にとって、心学知識は日頃馴染んだ常識となっていたといえるだろう。「心の寫眞」は直接心学に言及しているわけではない。しかし、身を律する身体の主としての「心」の可能性を重視する唯心論的な特徴と、忠君、正直、勤勉、 倹約の道徳実践を重視する点には、心学の影響が指摘できる。このような投書の性格と、明治期の心学の拡散したありよう、さらに小新聞の読者層を踏まえるならば、「心の寫眞」もまた、広義の心学ものであると考えてよいだろう。

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[脚注]

※7 括弧内原文ではふりがな、くの字店は平仮名とした。以下新聞からの引用同じ。

※8 絵画用語からPhotographyに至る「写真」の語意の変遷については、佐藤道信「『写実』『写真』『写生』」『明治国家と近代美術—美の政治学』吉川弘文館、1999年、209-232頁を参照。また、「写真」を広く「写す」の意で用いたものとしては、丸山平次郎『言語の寫眞法』玉林堂、1885[明治18]年を挙げることができる。「言語の寫眞法」とは、速記術のことである。

※9 ここに挙げられた写真師は順に、横山松三郎、清水東谷、小林寿三、北庭筑波と考えられる。

※10 心学については、以下を参照。石川謙『石門心学史の研究』岩波書店、1938年。安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』平凡社1999年(原著 1974青木書店)。古田紹欽・今井淳『石田梅岩の思想』ぺりかん社、1979年。今井淳・山本眞功編『石門心学の思想』ぺりかん社、2006年。

※11 中山広司「心学もの黄表紙についての一考察」『北陸宗教文化』第8号、北陸宗教文化会、1996年、51-73頁。また、以下も参照。川嶋恵子「山東京伝の心学もの黄表紙をめぐって」『甲南国文』第32号、江南女子短期大学国文学会、1985年、143-153頁。

※12 石川松太郎「教育史教育・研究と石門心学の教化思想−−明治・大正初期を中心に−−」今井淳・山本眞功編『石門心学の思想』ぺりかん社、2006年、414頁。『人心鏡写絵』も江戸末期か明治初年に『御伽揃』六編に合綴再板されており、当時も人気があったことが伺える。