研究ノート | 榎本 千賀子 |
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「心」を写す写真
――明治初頭の写真受容と「心」の道徳哲学
榎本 千賀子
2−2. 心学を媒介とした文化の翻案――『(情利両慾)人心寫眞繪(じょうりりょうよくこゝろのうつしゑ)』
次に挙げるのは、フランス人作家ウージェーヌ・シューによる『七つの大罪』(Les Sept Péchés Capitaux, 1847-1852)を原作とする翻案小説『(情利両慾)人心寫眞繪』である。1886[明治19]年12月10日から1887[明治20]年3月2日まで計64回『朝日新聞』に連載されたこの小説では、物語のあらすじ上で写真=Photographyが特別重要な役割を果たすわけではないにも関わらず、題名に写真と「心」の組み合わせが用いられている。
連載第1回目に付された緒言には「孝貞(おしとやか)なる少女(むすめ)の薄命(ふしあわせ)慳貪(かたくな)なる継母(ままはは)の飜心(こころがはり)吝嗇(ものおしみ)なる老翁(おきな)の用心(こころがけ)俊秀(りっぱ)なる壮士(わかもの)の赤心(まごころ)等(など)の狀態(ありさま)を巧(たくみ)に寫(うつ)し所謂(いはゆる)人情(にんじょう)の眞理(しんり)を説(と)きたるもの」とある。このことからは、題名における「写真」と「心」の組み合わせが、登場人物の「心」=人情を「写す」の意で用いられているのだとひとまず判断できる。
しかし、第一回目の挿絵には、登場人物の姿が写真を思わせるカード状の物体に描かれ(図4)、連載の回数は「第一葉」「第二葉」とあたかも連載各回を写真=Photographyとして扱うかのように数えられる。『朝日新聞』は挿絵が読者の人気を大きく左右することに早くから意識的で、1879[明治12]年の創刊時から雑報記事に挿絵を付すなど、挿絵の活用に熱心な新聞であった ※13。そして、この『人心寫眞繪』でも、題名と挿絵、連載回数表記を連動させて、巧みに「写真」の多層的な意味を定位しているのである。
ところでこの作品は、新聞に掲載される前年の1885[明治18]年に、『(情態奇話)人七癖吝嗇編』の邦題で途中まで出版されていた ※14。この『人七癖』は、仮名垣魯文と紙鳶堂風来(河原英吉)の序文を付し、表紙には二愛亭花実、淡々亭如水の共訳、奥付には森澄聡一訳と記されている。一方、この作品の新聞連載にあたっては、翻案を宇田川文海が、挿絵を武部芳峰が担当している ※15。
『人心寫眞繪』は、少なくとも出版された部分に関しては『人七癖』をかなり参照していると考えられる。しかし、物語の舞台を日本へと移し、登場人物もルイを「幸雄」、マリエットを「お澤」等へ変更、各エピソードの分量も自在に増減させており、『人心寫眞繪』は『人七癖』、さらに『七つの大罪』の原作とは大きく異なっている ※16。題名に限っても、キリスト教的な意味合いが抜け落ちているにせよ、『人七癖』の方が『人心寫眞繪』に比べれば幾分かは原作に近いだろう。
では、なぜ『人心寫眞繪』は、シューの原作にも『人七癖』にも見られず、物語とも一見関連のない「写真」=Photographyのイメージを持ちだしたのだろうか。しかし、この問題を考える前に、まずはあらすじと物語の要となる「吝嗇」について整理しておかなければならない。
『人七癖』そして『人心寫眞繪』は、シューの原作では「L’Avarice」と題された章の訳出・翻案である。現在ならば「L’Avarice」はキリスト教の文脈では「強欲」と訳されるところだろう。だが、『人七癖』では「L’Avarice」は「吝嗇」と訳され、『人心寫眞繪』もまた、この訳語をそのまま踏襲している。『人心寫眞繪』は幸雄とお澤の恋物語と、章題にもなっている悪徳たる吝嗇(強欲)と美徳である倹約、そして親への孝行等の道徳的問題を両輪として進む。『人心寫眞繪』の角書「情利両慾」は物語の二つの要である情愛と吝嗇を表しているというわけである。幸雄とお澤は、息子を貧乏人のお澤から引き離し、金持ちの娘の婿にしようと考える吝嗇な幸雄の父や、病と貧困に心がねじけ、娘たちにに無理難題を要求するお澤の養母に引き裂かれそうになる。二人は互いの親への孝行心と恋心の間で苦悩する。しかし、二人の苦悩は、表向き貧乏暮らしを装いつつ、実は吝嗇によって莫大な財産を築いていた幸雄の父が汽船事故に遭い、行方不明になることでご都合主義的に解決される。この出来事によって父の遺産を継いだ幸雄は、親の吝嗇の罪を美徳である倹約へと転換し贖おうとするかのように、救貧事業を開始する。そして、幸雄とお澤は結婚、幸雄の父も無事帰還を果たしたところで物語は終わる。
原作の『七つの大罪』は、キリスト教世界に育ち、社会主義者を自認して貧困問題に関心を寄せていたシューの思想を強く反映している ※17。だが果たして、明治19年の『朝日新聞』の読者に、こうした思想的背景はそのまま受け入れられるものだったろうか。翻訳小説は明治10年代前半から増え、明治15年頃からは次第に自由民権運動と結びついて西洋の政治小説の翻訳・翻案も政党の機関紙に掲載されるようになってゆく ※18。しかしながら、『朝日新聞』においては、女子どもに西洋の風俗や人情を教え、「開明進歩(かいめいしんぽ)の一助(じょ)」にならんとの決意を緒言で示した翻訳作品『欧州新話・花月縁』(文・宇田川文海、画・武部芳峯、1883[明治16]年7月31日〜8月5日)がわずか6回で途絶、その後『人心寫眞繪』まで西洋翻訳作品は本格的には掲載されなかった。その代わりに、「西洋小説(せいやうせうせつ)の新風(しんふう)を模(も)」すとの意図のもと、文明開化を物語の要として連載された『糸のみだれ』(文・署名なし、画・武部芳峯、1885[明治18]年3月3日〜4月9日、計31回)や、国会開設後の日本社会を空想的に記した『蜃氣樓』(文・宇田川文海、画・武部芳峯、1886[明治19]年8月27日〜12月9日、計87回)が成功を収めていた。『人心寫眞繪』には、こうした経緯を踏まえ、原作と『朝日』読者の間の文化的懸隔を架橋すべく、文海と芳峯が協力して「翻案」にあたった跡が見えるのである。
すでにお気付きかと思われるが、『人心寫眞繪』という題名は、京伝の『人心鏡寫繪』と非常によく似ている。文海、芳峯の二人は『人心寫眞繪』連載の二年前には『怠惰勉強心組織(うらおもてこころのあやおり)』(1884[明治17]年4月6日〜5月13日、計31回)と題して勤勉を説く広義の心学ものを手がけており、心学に対する造詣も深かったと考えられる。それゆえ、『人心寫眞繪』と『人心鏡寫繪』の類似は偶然ではなく、『人心寫眞繪』の側が意識的に『人心鏡寫繪』に倣ったものと考えるのが自然であろう。そして、心学を媒介としつつ、文海らが題名にも「翻案」の意図こめたと考えれば、確かにこの題名は非常によく納得できるのである。
町人たちの道徳哲学であった心学は、勤勉、正直、孝行、和合などの様々な徳目のなかでも、倹約を重要視していた。倹約は、心学においては単に経済上の行為ではなく、身の主たる「心」を磨くための修養と捉えられていた。さらに倹約は、農民が辛苦して収穫した米をはじめとする天下公の財宝の無駄な消費を抑え、天下の豊かさを保つ行為であるが故に、利己的な行為である吝嗇とは異なり、世をよりよくし、人を愛する利他的な美徳であるのだと拡大解釈されていた。このような倹約の捉え直しによって、心学は身分制において賤視されてきた町人層の商業活動を正当化したのである ※19。
つまり、「吝嗇」という語の選択とそれと対比される「倹約」の語、題名における「心」への言及は、キリスト教や社会主義思想を背景とした貧困問題とその空想的解決の物語である『七つの大罪』を、手前勝手な吝嗇を諌め、世のため人のために行われる愛の行為である倹約の実践を奨励する、心学の物語へと読み替えて読者に提示することを意図していたと考えられるのである。『人七癖』が「吝嗇」と「倹約」の語を用いた時、すでに物語の心学的な読み替えは潜在的には行われていたと言えるかもしれない。だが、『人心寫眞繪』は題名、挿絵等、小新聞のメディアとしての特色を駆使することで、その潜在的な読み替えを「心を写す写真」のイメージに凝縮させ、都市の旧町人層を中心とする小新聞の読者へとより鮮明な形で提示しているのである。
※13 本田康雄『新聞小説の誕生』平凡社、1998年、136頁。新聞における挿絵の歴史自体は錦絵新聞まで入れると明治7年頃まで遡ることができる。『朝日新聞』の連載小説に挿絵が入るのは明治13年『賤廼繁糸(しづのしげいと)』が最初であった。
※14 『人七癖』はシュー作品邦訳の嚆矢とされるが、分冊9冊までで途絶している。柳田泉『明治初期翻訳文学の研究』明治文学研究第5巻、春秋社、1961年、67-68, 394-397頁。小倉孝誠『『パリの秘密』の社会史—ウージェーヌ・シューと新聞小説の時代』新曜社、2004年、13-14頁。
※15 新聞連載時には署名がない。以下、『朝日新聞』の連載小説の翻案者、挿絵画家に関しては、井上健(監修)『朝日新聞連載小説の120年』朝日現代用語知恵蔵2000別冊付録、朝日新聞社、2000年による。
※16 残念ながらフランス語原文との比較は出来ておらず、原文の代わりに以下の英語版を参照した。Sue, Eugene. Avarice—Anger: Two of the Seven Cardinal Sins, Boston : F.A. Niccolls, 1899, Project Gutenberg. Web. 1. Aug 2013.
※18 柳田、前掲書。
※19 相良享「石田梅岩の思想」『石田梅岩の思想』ぺりかん社、1979年、139, 140頁。
『朝日新聞』1886[明治19]年12月10日