第8回大会報告 パネル4

パネル4:人間とその「他者」|報告:串田純一

2013年6月30日(日)10:00-12:00
関西大学千里山キャンパス第1学舎3号館 C301教室

パネル4:人間とその「他者」

ジルベール・シモンドンにおける動物と人間
宇佐美達朗(京都大学)

庭と惑星を混同する――ジル・クレマン《地中海性気候区の庭》をめぐって
山内朋樹(関西大学)

カント美学は異星人の夢を見るか?――サンディにおける美学的他者論について
吉松覚(日本学術振興会)

【コメンテーター】大橋完太郎(神戸女学院大学)
【司会】山内朋樹(関西大学)

近代的な人間理解の問い直しとその対照項としての動物論は、今や現代思想の重要な主題として定着しているが、本パネルでは、ハイデガー、デリダ、アガンベンといった存在論的な議論からはやや離れた、より具体的な問題に取り組む比較的最近の動向が取り上げられた。

最初に宇佐美は、近年紹介が進むシモンドンの1963年の講義を主題に、彼が西欧の生物論の歴史を弁証法的に把握していることを示した。つまり、魂の在り方において動物から人間へという階層的連続性を見出す古代(テーゼ)、動物機械論に基づいて人間の理性を完全に切り離す近代(アンチテーゼ)、生命の一般構造に動物と人間を包摂する現代(ジンテーゼ)である。そして現代において問題となるのは、人間中心主義をどう考えるである。シモンドンによれば、動物と人間の連続性を確固たるものにしたダーウィンにさえも人間中心主義が見られる(例えば表情や感情の進化の記述)。これを避ける一つの方途は、個々の動物に固有の「主体性」と「環境」を認めることであるが、発表者の指摘によれば、この点を共有するハイデガーやデリダが動物をあくまでも人間への内在の限界点=他者として問題化するのに対し、シモンドンは初めから動物そのものを生命個体としてポジティブに捉えようとしていたという。ただ、自然諸科学がまさに人間=ヒトをますます純生理学的・システム論的に扱おうとするなかで、生命そのものあるいは生命一般を扱う人文学固有の方法や言葉をどう見つけてゆくかのが、今後問われることとなろう。

その際、人間-動物という枠では忘れられてしまうものに植物があるが、次の山内はこれを補うように、著名な庭師でまた理論家でもあるジル・クレマンを取り上げる。クレマンは、技術の全面化という今日の歴史的局面を引き受け、地球全体を庭に見立てる。そこで賭けられているのは、人間からの自然の隔離保存といった非現実的復古とは異なる形での自然の持続可能性である。例えば、外来種の移入によって個々の生態系に固有の種や遺伝的多様性が駆逐・均質化されることは危険で避けるべき事態とされるのが通常だが、クレマンはむしろ、こうした「地球規模の混淆」に積極的な可能性を見出す。こうした外来種は早期に裸地へ侵入し以後の遷移の土台となることが多いのである。こうした植物たちの自発的能力をうまく活かしながらそれらを拮抗させ方向付けていくことで、各々の土地の生態学的ポテンシャルを引き出し形成して行くこと。それが庭師の仕事となるだろう(「動いている庭」)。結局、人類はこれと同様のことを惑星規模で行うことができる、あるいは行うしかないのではないか。そうであれば、地球の各地に点在する気候区(地中海性気候、温暖湿潤気候など)は相互に交流することになり、「理論的大陸」がいわば現出する。ただ、植物という比較的穏やかな層だけでなく、それに伴って動物や菌・ウイルスといったものも「混淆」するとき、そこには何か破局的な可能性はないのか、という問いも生じてくるのである。

最後に吉松はP・サンディの近年の著作から、カント美学と異星人の問題に焦点を当てた。カントは、理性的存在者なる類にもしも人間=地球人という一つの種しか含まれないなら我々人間を人間たらしめる種差が不明なままになる、と指摘した。その上で彼は、人間には種差がないからこそ自らの規定を自由に作り出すことができる、として理性主義的発展観を示し、近代の人間中心主義が確立されたが、これに対してサンディは、カント自身の中からまた別の「人間の相対化」の可能性を引き出そうとしていると言えよう。そこで手掛かりとなるのが「視点=関心からの中立性」というカント美学の発想であり、興味深いのは、この無関心性・非人称性自体が、ロビンソン・クルーソー等としてしばしば形象化されるという点である。異星人とは、「我々が構想しうる差異を持つ(理性的)他者」の典型であり、サンディはこれを経由して、レヴィナス‐デリダ系の差異を絶した「全き他者」ではない、差異あるもの一般としての「完全に他である者」を抽象しようとする。発表者によればそれは必ずしも十分成功しているとは言い難いが、そもそも「理性」を人間の派生的な性質に過ぎないものと見るニーチェ/フロイト以降の流れの中、今あえて理性的存在者としての人間というカント的規定に立ち戻るのも意義あることだろう。

総じて、人間と生物一般の連続性と差異の問題には非常に多くの面があり、今後も多様な領域の研究・思考において一つの中心軸であり続けるだろう。

串田純一(早稲田大学)

【パネル概要】

人間は、動物や植物をはじめとする人間以外のさまざまな存在と多様な関係を結んできたし、そうした「他者」はもはや人間の生から切り離すことはできない。それにもかかわらず、人間とはそれ自体で思考の対象となる特権的なトポスであった。しかしながら近年急速に進みつつある人間中心主義への懐疑とその再検討は、動物倫理やエコロジーをめぐる問題などと相俟って、人間なるものの相対化にとどまらない新しい思索を展開しつつある。そこでは人間と動物の関係だけではなく、植物や地球そのもの、ひいては異星人の表象さえもが対象とされつつ、現代的なコスモロジーが展開されている。また、こうした思索の背景ではサイバネティックスや近年議論の俎上に載せられることの多いポストヒューマン論など、人間の可能性の拡大や人間の内なる他者性も賭け金となっているのである。
本パネルではこうした潮流を背景にして、人間とそれ以外の諸存在との関係をある種マイナーな思考をとおして捉え直すことを試みる。宇佐美は哲学者ジルベール・シモンドンの『動物と人間についての二つの講義』の読解をとおして、山内はフランスを代表する庭師、ジル・クレマンの提唱する『惑星としての庭』をめぐって、吉松はデリダ派の美学者のペーター・サンディによる『カントの身近な宇宙人』を参照しながら、それぞれ人間とその「他者」との関係を再考し、新たな展望のもとでそれらの結びつきを探りたい。(パネル構成:吉松覚)

【発表概要】

ジルベール・シモンドンにおける動物と人間
宇佐美達朗(京都大学)

現代の代表的な動物論と言えば、ただちにアガンベンとデリダが思い起こされるが、とはいえ彼らの思考は、伝統的な動物論に、すなわち人間性を動物性から規定しようとする思考に帰着するものではないだろう。つまり、アガンベンは人間と動物とのあいだのもの、人間でも動物でもないものを思考することによって、デリダは動物から神あるいはまったき他者へと進むことによって、人間なるものを動物なるものから導き出すのとは別の途を行っているように思われるのである。

このように、哲学において動物という問題が、人間性であれ、人間でも動物でもないものであれ、まったき他者であれ、動物以外の問題へ続いていることは疑いを容れない。では、アガンベンやデリダとは別の途を行くことが、つまり、人間性へと向かうのでも、倫理的・宗教的な問題へと向かうのでもなく、動物から思考の歩みを進めることはできないだろうか?

本発表では、このような意図のもと、ジルベール・シモンドンの『動物と人間についてのふたつの講義』(2004)を取り上げる。心理学講座の導入のためになされたこの講義において、シモンドンは、古代ギリシアから、動物機械論と動物霊魂論との対立がもっとも先鋭化する17世紀まで、動物をめぐる思考を叙述している。こうしたシモンドンによる動物論の系譜の分析を通して、動物論を出発点として展開されうる思考の、その可能性の一端を示すことを試みたい。

庭と惑星を混同する――ジル・クレマン《地中海性気候区の庭》をめぐって
山内朋樹(関西大学)

地球規模の環境破壊が懸念されはじめた1960年代、バックミンスター・フラーが提唱した「宇宙船地球号」という形象は、その詩的な響きとともに広く知られることとなった。それが指し示していたのは、人間から見れば無限とも思えるこの地球が、少なくとも資源の点から見れば有限なものでしかないという事実だろう。こうした発想は環境保護のスローガンへと形を変えながら繰り返し提起され、今では使い古されてしまったように思われる。

そのなか、いま一度この惑星を有限な環境としてとらえなおし、新しい庭のあり方を模索しているのが、フランスの庭師、ジル・クレマンである。アンドレ・シトロエン公園やケ・ブランリー美術館の庭などを手掛けたこの庭師は、地球という生物圏が有限であること、そして庭とはそもそも囲われた土地を意味したことを類比的に重ね合わせ、この惑星を庭として見ようとしている。

このように地球を有限な環境としてとらえる発想は、幾分ありふれたものに見える。しかしアラン・ロジェが指摘したように、これは環境保護論とは区別されるだろう。人間が地球規模で加速させた植物の交雑をも肯定的に語るこの庭師は、庭と地球という新たな結びつきを生み出し、人間と自然の関係をこれまでと違った切り口から問い直そうとしているからだ。本発表では南仏ヴァルの《地中海性気候区の庭》の分析をとおして、クレマンの発想がどういった狙いを持つのか考えてみたい。

カント美学は異星人の夢を見るか?――サンディにおける美学的他者論について
吉松覚(日本学術振興会)

思想史および言説史を通じて異星人という表象は、われわれの世界を相対化する平行世界の住人という形でしばしば語られてきた。また、空想科学物語的想像力が醸成された近現代にあって異星人は地球を侵略する、人類の全き他者、あるいは人類の敵という描かれ方もされてきた。

現代フランスの美学者ペーター・サンディ(1966生)は近著『カントの身近な宇宙人』(2011)において、この異星人という形象にこそ、われわれ人類について再考する契機があるという。そこで彼はその出発点にカントの諸著作、とりわけ前批判期の『天界の一般自然史と理論』、『判断力批判』を選ぶ。そして異星人を描く現代のSF映画に目配せを送り、その理論を展開しつつ、『判断力批判』の中に潜む他者をカントが想起していたという読解をサンディはすすめていく。

本発表ではその異星人という虚構的(fictif)かつ実効的(effectif)なモチーフが招請された結果得られた、われわれが他者と取り結ぶ関係を、サンディが影響を受けたデリダの他者論との比較をしながら考察していくことを試みる。また、カントの著作の分析を通じてわれわれ人類には共有されているが、異星人には共有されていないものの表象を巡って、人類/人間性(l’humanité)とその「他者」の間に走る分割線についても考察を試みたい。