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「フィギュール」とは何か——ブリュノ・クレマン連続講演会報告
「およそ言葉というものはすべて言葉からの遠ざかり〔言い過ぎ〕だ」(ベケット『モロイ』)
去る3月9日から20日にかけて、パリ第8大学教授ブリュノ・クレマン氏を招聘し、横浜、名古屋、仙台、東京で連続講演会を開催した(開催日程についてはこちらを参照)。筆者は留学中、国際哲学コレージュで開講されていたクレマン氏の「プロソポペイア(活喩法:不在のものを語らせる技法)」をめぐるゼミに出席し、テクストに対するその斬新な――きわめて堅固にしてきわめて大胆な――アプローチにすっかり魅了され、博士論文の方向性を決めるに際して大いに影響を受け、ついにはその審査員にもなっていただいた。このときのゼミからはもうかれこれ10年が経つのだが、このゼミが元となった「プロソポペイア」をめぐる新刊『垂直の声』(La Voix verticale, Belin, 2013)が今年初めに刊行された。今回の連続講演会はその直後ということもあり、クレマン氏は筆者の主催した回において、筆者の専門(モーリス・ブランショ)も考慮して、「ブランショにおけるプロソポペイア」について語ってくださった。以上のような経緯で今回の招聘が叶った者としては、10年が一挙に乗り越えられたかのような感慨を覚えると共に、改めて、「プロソポペイア」というこの「フィギュール〔figure:文彩・比喩形象〕」、さらには「フィギュール」一般について考えることの重要性を認識させられた。
5回の講演は、
(1)「もうひとつの声の必要――モーリス・ブランショとプロソポペイア」(関東学院大学:この講演についてはこちらで紹介している)
(2)「ベケットと哲学者たち、哲学者たちとベケット」(名古屋芸術大学)
(3)「ジャン=ポール・サルトルにとってボードレールとフローベールとは本当は誰か」(東北大学)
(4)「イメージをもつ、あるいは、イメージをつくる――ベケットとイメージ=比喩〔image〕の問題」(早稲田大学)
(5)「哲学者は作家か?」(東京大学駒場)
と、それぞれ異なる主題で行われた。しかし、(5)で明示された氏の問題関心に沿って、大きく次のようにまとめることができると思われる。すなわち、(1)、(2)(の一部)と(4)は、ブランショとベケットのテクストを通した、いわば、「フィギュール〔文彩〕ならざるフィギュール〔比喩形象〕」についての考察である。(2)(の一部)と(3)は、バディウ、ドゥルーズ、アンジューのベケット論、また、サルトルのボードレール論、フローベール論、そして自伝を通した、「註釈〔commentaire〕とは何か」、あるいは、「文学的テクストを読解する哲学的テクストは何をしているのか」という問いをめぐる考察である。詳述する余裕はないが、サルトルの諸々の作家論において顕著であるように、「註釈」はけっして客観的であることはできない。そして(5)は、以上を含む自身のこれまでの研究の、自身によるまとめと意味づけであり、ここには実は、自らの「方法=道〔méthode〕」は事後的に物語られて――ということは、虚構的に――初めて見出される、それゆえ「方法」とは主観的かつ虚構的なものである、という自身の理論のパフォーマンスがある。
すべてを聴講して確信したのは、クレマン氏の研究の一貫性と、それゆえの射程の広さである。前述のように、最後に行われた講演が自身の研究のまとめとなっていたので、この講演を聴かれた方には明らかなのだが、氏の研究のコーパスは、プラトンからアウグスティヌス、デカルト、パスカル、ルソー、レヴィナス、デリダまで、ユーゴー、バルザックからベケット、キニャールまで、哲学者も文学者も取り混ぜて、きわめて幅広い、というよりも、限界がない。いま挙げたのも、クレマン氏がこれまでゼミや著作で取り上げてきた著者たちの一部にすぎない。しかし他方で、氏の仕事がどういうものかを知るならば、コーパスが無尽蔵なのはむしろ、研究の軸がぶれないからであることに納得がいく。というのも、氏の関心はつねに、「言語の営み〔travail de langage〕」としての「テクスト」にあり、そしてその「テクスト」概念は、文学や哲学といった領域を問わないものであるからだ。文学と哲学の境界の問い直しは、クレマン氏が実践し続けていることである。そして氏の関心の核は、そうした領域を越えて、テクストに現れる「フィギュール」にある。博士論文を元にした最初の単著は「サミュエル・ベケットの修辞学」を副題とし、ベケット作品における「換言法〔épanorthose〕」を主題とするものだった。修辞学はクレマン氏の研究の出発点にあって、今もその支えとなっている学問である。
しかし、このような説明はまた誤解を招くことだろう。実際、講演を聴きながら、クレマン氏の研究は、その一部、あるいは表面だけを垣間見られたならば、多くの無理解にさらされるのではないかと感じることがあった。たとえば、「ベケットにおける換言法(あるいは比喩、活写法)」、「ブランショにおけるプロソポペイア」といった講演や研究の表題だけを見たならば、現代作家を素材にまたぞろ古い修辞学――19世紀に必修科目から消えた文彩学――を実践するだけのさして新味のない研究だと思われるかもしれない。あるいはまた、前述の国際哲学コレージュでのゼミでは、デリダやレヴィナスのテクストにおけるプロソポペイアが分析されたのだが、これも「哲学研究者」には真面目な研究と思えないかもしれない。このように、クレマン氏の研究は、その一部だけを切り取ったならば、古い文学研究の方法をあらゆるテクストに向けて用いているかのようにも見えかねない。しかし、それはまったくの誤解である。なぜなら、クレマン氏が「テクスト」に見出す「フィギュール」は、先に「フィギュールならざるフィギュール」と述べたように、修辞学における「文彩」であると同時に、修辞学を破綻させるような何ものかであるからだ――というより、実のところ、「修辞学」そのものが自らの内破の可能性を秘めているのだ。
いくつかの講演に登場したプロソポペイアを例にそのことを示してみよう。管見のかぎり、「フィギュール」を核としたクレマン氏の思想は、師であるミシェル・ドゥギーのそれをほぼ忠実に受け継いでいるのだが、一見してドゥギーほどラディカルでないように見えるのは、クレマン氏が「文彩」の学としての伝統的修辞学を否定していない、どころか、基本的な参照項としているからである。というのは、たとえばドゥギーは、「文彩」学の古典であるフォンタニエの『言説の文彩〔Les Figures du discours〕』(1880)が、「文彩」を「文字通りの表現」からの「遠ざかり〔écart〕」と捉え、言語に「文字通り〔littéral〕/比喩的〔figural〕」の対立を立てていることを批判し、むしろ言語そのものの根底に「一般的なフィギュール〔文彩=比喩形象〕」の存在を見る。「あらゆる(本来の)意味は比喩的〔figural〕である」と通念を反転させて大胆なテーゼを出すのがドゥギーだ。対してクレマン氏は、フォンタニエの『言説の文彩』に載っている数多の文彩のなかからプロソポペイアに注目するのだが、それはなぜなら、その場にいないものに言葉を与えるというこの技法が、フォンタニエにおいて「思考の文彩」に分類されているからである。しかし、いったい、「思考の文彩」とは何のことか。フォンタニエによれば、それは、言語に作用するのではなく思考に作用する文彩のことだという。そう定義しながら、しかし、フォンタニエは、はたしてそれをなおも「文彩」と呼べるのだろうかと自問する。「文彩」の学としての修辞学の確立者は、同時に、修辞学が自らの存在を危うくするものを孕んでいることにうすうす気づいていたのだ。不在のものを虚構的に呼び出し語らせるということは、読者に何らかの効果を及ぼすための文彩なのではなくて、私たちの思考そのものの技法なのであって、いってみれば、私たちの思考そのものが「比喩形象的〔figural〕」なのである。こうしてクレマン氏は、「思考するとは比喩形象化する〔figurer〕ことだ」というドゥギーのテーゼに合流する。
このように、一見したところ地味な修辞学的テクスト分析にも見えるクレマン氏の研究は、実のところ、修辞学を支えとしつつ修辞学を根底から穿つラディカルなものである。前述のように、フィギュールをめぐるその思想はドゥギーのそれを受け継ぐものだが、そのほかにも、リオタールやド・マン、またデリダやリクール――この2人の思想が両立してしまうのがクレマン氏の柔軟で面白いところだ――らとの親和性を伺うことができよう。今後も目が離せない存在である。(郷原佳以)
国際シンポジウム「文化財の保存と科学技術
——日本とイタリアにおけるデジタル映像化の現状と未来」
2013年3月10日(日)、キャンパスプラザ京都において、国際シンポジウム「文化財の保存と科学技術」がひらかれた。シンポジウムは、京都大学総合博物館にて開催されていた特別展「ウフィツィ・ヴァーチャル・ミュージアム」を記念し企画されたものである。文化財のデジタル化は、時の流れのなかで失われゆく作品の幅広い応用展開を可能にする。ウフィツィ美術館所蔵の絵画十点を高精細デジタルデータにより再現し展示した本展示に、現代を生きる私たちは、いかなる意義を見出すことができるだろうか。
シンポジウム冒頭、司会をつとめる岡田温司教授より、ヴィート・カッペリーニ教授(フィレンツェ大学)から寄せられたメッセージが紹介された。まずここにおいて、文化財のデジタル映像化の目的が、「経年変化することのないアーカイヴ」の効率的な発信と利用にあることが宣言されるとともに、デジタル化が保存修復分野における診断方法の一角を担うものである事実が確認された。一人目のパネリスト、森岡隆行氏(日立製作所)は、デジタル処理のために開発されたマルチユース・システムDIS(Digital Imaging Systems)について詳細な解説を行い、特別展のいわば「舞台裏」を紹介した。タッチディスプレイを介して貴重な美術館所蔵作品に「触れる」ことを可能にするDISは、続く登壇者の高妻洋成教授(奈良文化財研究所)が報告した高松塚古墳などのスキャンニング画像を一般に公開する試みと同じく、ひらかれた知の可能性を探求するものである。これを受けるかたちで、オリンピア・ニリオ教授(eキャンパス大学)は、デジタルデータの活用の意義を「ダイナミックでインタラクティブな知の伝達」と定義する。ニリオ教授は、イタリアにおけるデジタル・アーカイヴ史を総括しつつ、文化財のデジタルデータ化が複雑な歴史的背景のもと各地に散逸した文化資源を共有するための手段であり、ひいては、国の記憶そのものの保存行為であることを強調した。
転じて、四人目のパネリストである門林理恵子教授(大阪電気通信大学)は、いかにデジタル化技術が作品の鑑賞体験を変えうるかを、作品を見る側の視点から明快に論じた。文化財の基本データや修復歴、遠隔地の専門家からのコメントなどを同一画面上に映しだし、複数の情報へ同時にアクセスすることは、より多層的で多角的な作品鑑賞を可能にする。ニリオ教授が言及したアーカイヴの初期形態としての美術館(ムセイオン)の登場から幾世紀を経て、私たちは、作品との新たな出会いへと導かれつつあるのだ。ただし、ここで、最後の登壇者であるフェデリコ・ルイゼッティ教授(ノースキャロライナ大学)がデジタル文化財の鑑賞体験について行った美学的考察に、注意を払わなくてはならない。いわく、視覚と触覚とを活性化させるこの新たな鑑賞の方法は、数学的で自然主義的な宇宙観を拠りどころとするルネサンス的な絵画・哲学・科学の合流の変奏とも捉えうる。ベンヤミンがいうところの作品の一回性、そして複製技術時代における「アウラ」の凋落という概念は、デジタル化された作品には符合しない。ルネサンス期に生き生きと蘇った異教の古代のように、デジタル文化財の展示は、その臨場感をもって、みずから作品の「礼拝価値」と「展示価値」という概念の改新を試みているのである。
質疑応答は、文化財のデジタル化はどこへむかおうとしているのか、その未来を、会場からの声を手がかりに考察する場となった。高妻教授が、現実的な問題として人材確保、スピード化、コスト削減という三課題を挙げたことは、本分野がいまだ解決すべき問題を多く抱えている現状を如実に物語る。
複製か本物か、という、古くからの議論を超え、デジタル・アーカイヴは今、作品分析と鑑賞をめぐる新たな視座を、各分野へともたらそうとしている。デジタル化は、モノの「復元」ではなく「新しい眼」を作品の分析と鑑賞とに提供するシステムであり、保存修復学に貢献する新資源そのものであるという結びをもって、シンポジウムは幕を閉じた。本シンポジウムの開催が、アートとテクノロジーの対話のひとつの未来形を予感させるものであったことは疑うべくもない。文化財のデジタル化は、まさにDISのコンセプトそのもののように、時間と空間を越え、作品と作品をめぐるあらゆる記憶の痕跡を未来へと発信してゆくだろう。(田口かおり)