小特集 | 座談会:日本アニメのメディア・エコロジー | 2 |
---|
座談会
日本アニメのメディア・エコロジー
マーク・スタインバーグ+アレクサンダー・ツァールテン+門林岳史
記事構成:門林岳史
日本のアニメ言説の受容
TK:それは海外のアニメ研究にとって限界でもありますが、距離を取ってみることができるのは利点にもなりえますよね。そして、そうした実際の状況との距離は、アニメをめぐる日本の言説を海外の研究者たちがどのように受容しているのか、ということにも関わってくるのではないでしょうか。メカデミア会議では、とりわけ理論的にアニメ作品を読解するタイプの発表において、きまって東浩紀と大塚英志がある種のグランド・セオリーのように参照されることが多く、意外に感じたわけでもないんだけれど、少し戸惑いを覚えました。というのも、東浩紀や大塚英志といった論者たちは本当に日本の文化状況にどっぷりつかってものを書いているように見えるから。だから、日本で彼らの書き物に接している人間としては、彼らの言説がさまざまな事例に「応用」可能な「理論」として受容されているのをみると違和感を感じます。
MS:距離を取ることの利点のひとつとして、本当に近々の状況に即座に応答しなければならないという要請から解放されるということは多分あると思います。例えば『ユリイカ』の特集号に掲載されるような種類の日本の研究は、アニメの最新の動向に注目するあまり、歴史化の意識は希薄なことが多い。大塚と東についていうと、東は現在の状況を論ずるのに対し、大塚には歴史的な視点から現在の状況を理論化する傾向がある──それはアニメよりもマンガについての著作に顕著なのですが──という違いを指摘できます。例えば、現在のオタク文化がどのようにマンガの歴史から理論化できるか、という彼の視点は私にとっては興味深い。けれども、一般的な理解としては、日本のアニメ言説には、一方で現在の状況を論じるものがあり、他方で歴史的な研究がありますが、後者は単純に歴史を時系列で並べる傾向が強く、それはそれで有益なのですがあまり現在の状況をめぐる理論的問題にはつながっていかない。
AZ:そして、もちろんそれは出版や流通のシステムにおける違いとも関わりがあります。東浩紀のような人は、日本の出版産業の狂騒的なスピードに切り込んでいくし、それは言説の性質にも反映されています。つまり、彼らの言説は厳密に学術的な研究というよりは「批評」であり、必然的に、現実の消費のサイクルに出版のペースをシンクロさせていっている。例えば『メカデミア』のような北米の研究誌の場合、論文を書いてから出版されるまで1、2年のタイムラグがありますが、それは日本の言説のなかにいる書き手には考えられないことでしょう。そのどちらにも利点と欠点があります。
大塚と東について言うと──もちろん日本のアニメ言説にはこの二人しかいないということはありませんが──、大塚さんはメカデミア会議に参加していましたが、そこで多くの研究者が自分と東さんを一文でひとまとめにして言及していることに驚いたことでしょう。海外の研究者が受容しているようなかたちで、二人が同じ事を論じているとも、着想に互換性があるとも、大塚さん自身は感じていないでしょうから。それは言説システムの違いや、スピードの違いの問題でもありますが、他方では、海外の研究者たちにとっては、彼らの言説は状況への介入というよりは、ある種の「文化的所産(artifact)」として受け止められているということもあると思います。つまり、東や大塚の言説は、研究されるべきものとして受け止められていて、直接議論を戦わせる相手とはあまり捉えられていない。例えばマークは大塚さんをモントリオールに招待しましたが、そういうことはかなり稀だし、彼らの着想に応答する論考を研究誌に発表するというようなことも、海外の研究者たちの念頭にはありません。つまり、ある意味海外の研究者たちは日本の言説を、日本の状況の「徴候」として読んでいるんですね。
TK:そうした日本と海外のペースの違いをなんらか創造的なかたちでシンクロさせることは可能でしょうか。
AZ:シンクロさせる必要があるのかどうか分かりませんが、少なくともそのためには、直接的な交流を可能にするための新しい道筋を作り出さなければいけないでしょうね。東は明らかにいまそういうことを試みているように見えます。彼が運営している「genron」のホームページは英語の記事をたくさん掲載しているので、海外の人たちを彼らの議論に巻き込みたいという意図があるのでしょう。『メカデミア』もまた、そうした交流の端緒になりうるかもしれませんが、本当に広範な交流の場が開かれていくにはまだ数年かかるでしょうし、多大な努力が必要となると思います。
MS:アレックスも大塚さんをソウルに招いたし、日本アニメーション学会の方も招いていましたね。そういうことはこれまでほとんどなされてこなかったのですが、日本内外での対話を開いていくための重要なステップになっていくと思います。
アニメ研究の他家受粉
AZ:ところで門林さんのメカデミア・ソウルの印象はいかがでしたか。
TK:すべての研究発表を聞いたわけではないので確かなことは言えませんが、参加した研究者には大別してふたつの傾向があったように思います。つまり、一方では作品を理論的に読解する研究をしている人たちがいて、他方にはファン・カルチャーについてのある種の人類学的な研究をしている人たちがいる。それぞれがある種閉じたクラスターを形成していて、あまりお互いに交流する必要性を感じていないのかな、という印象を受けました。どうですか。
AZ:基本的には同意です。そして、それぞれのグループも一枚岩ではないのでさらにサブグループに分かれていって……。アニメ研究がこれからどこに向かうべきかということについてはたくさんの課題があります。明らかにトマス・ラマールの研究はとても影響力が強く、単にアニメのこと、日本のことだけでなく幅広い射程へと視野を広げて、映像メディア一般に向けての理論的なモデルを提供することに成功しています。その一方で、彼のアプローチは完全にフォーマリズム的なものですが、「アニメ」という研究対象を多角的に定義していくためには、もっとさまざまな研究アプローチが布置(constellation)を作り出していくことが必要です。もちろん、マークが言及していた産業の側面もきわめて重要です。私の考えでは、アニメをグローバルな文脈で考えていくためには、そのような多角的な視点が必要ですが、それはまだ始まっていない。
MS:産業への注目は、近年のフィルム・スタディーズの大きなトレンドになっていて、私の研究もそれに含まれますが、産業という観点であれ、あるいはアレックスが語っていたコンビニなどでの日常経験であれ、作品というテクストの外側にある大きな構造に目を向ける余地はまだたくさん残されています。
AZ:その場合に、産業の分析をテクスト読解と分離可能な研究領域と考えるのではなく、ディシプリンのあいだの「他家受粉crosspollination」を起こしていくことが重要です。そこで、理論的枠組みがさまざまな言説のあいだの対話をうながす触媒となる、ということはあるんじゃないでしょうか。例えばトマス・ラマールの研究は日本でも注目されているようですけれども……。
TK:もちろん、私たち表象文化論学会は注目しており、昨年の大会に招聘しましたが、日本でよく知られているとまではまだ言えないでしょうね。『アニメ・マシーン』の翻訳はもうすぐ出版されるはずですけれども(名古屋大学出版会より5月刊行)。
MS:『アニメ・マシーン』の冒頭には1970年代の装置論についての議論があります。装置論は映画理論の根幹をなす考え方ですが、一方では長らく批判にさらされてきました。ラマールはそうした言説を新鮮に読解しなおすことで、アニメ研究を批評理論と対話させており、その結果、広い文脈へとアニメの研究を差し向けることに成功していると思います。
TK:ええ、実際ラマールの研究は、アニメをめぐる日本の批評的言説とも共通するところが多く、両者の生産的な対話は大いに可能だと思います。けれども、先ほど、北米では東と大塚が「文化的所産」として受容されてしまうというアレックスの話がありましたが、逆に日本にも海外の言説を「文化的所産」として受容し、対話や議論が可能な相手とは捉えない傾向が強くあります。つまり、お互いが両者を「文化的所産」と見なしているわけで、その結果、生産的な議論が起こりにくくなる状況はあると思います。
AZ:それは現在私たちが抱えている大きな挑戦ですね。メカデミア会議で非常に多様な方法論や立場が一堂に会したと最初に述べました。それは肯定的なことですが、それだけアニメ研究が断片化しているということでもあり、さまざまな文脈のあいだのコミュニケーションをどうやって可能にしていくのかは大きな課題です。