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「動きから考える」
——アニメーションと映画研究
畠山宗明
現在、アニメーションの表現様式がエンターテインメントの基本語彙を占有しつつある。古典的ハリウッド映画の文法に必ずしも従わないブロックバスター(ニュー・ハリウッド)の主流化やデジタル技術を通じた視聴環境の多様化などによって、セル・アニメーションの表現様式や技法が、メインストリームに躍り出ることになった。またオタク文化の世界的な拡散にともなって、日本のアニメ文化にも、グローバルな関心が集まるようになり、さらに、いわゆるカートゥーン・フィルムとも実験映画とも異なった「アニメーション」が、独自の地位を確立しつつある ※1。
こうした中、近年の映画研究では、アニメーションが多大な関心を持って語られている。トム・ガニング、ヴィヴィアン・ソブチャック、ノエル・キャロルなどすでに実績を積んだ研究者があらためてアニメーションの可能性を論じ、実写中心のパラダイムの中で無視されてきたアニメーションの歴史も掘り起こされつつある。
しかし、実写中心のパラダイムが長い間力を持ってきた映画研究においては、アニメーションそのものというより、両者を包含しうる総合的な視座が探求される傾向にある。
そうしたなかで折衷的にではあれ浮上してきたのが、「運動」という主題である。フィルムやカメラという物質的基盤を離れ、「動き」から考えること。そうした意味で、「ポスト・メディウム」という主題とさえ連動する運動の主題を概観しながら、「動きから考える」という態度の可能性を探ってみたい。
映画研究と運動
まず、運動という点に関して精力的に論じているのはノエル・キャロルである。キャロルは未来のメディア環境において"film"を媒体とする映画をテレビやその他のデジタル映像も含めた動画(moving image)の歴史の一部とみなし、媒体ベースの議論そのものから離脱する必要性を訴える ※2。キャロルが注目するのは、運動が「間メディア的な現象 ※3」であることである。動いているか否かという区別は、必ずしも媒体の差異に還元されない。こうした点からキャロルは、映画(film)に替わる包括的なカテゴリーとして、動画を提案する。
キャロルの議論を受けつつ、もはや大御所といってよいトム・ガニングもまた、この話題を論じている ※4。ガニングは映画におけるリアリズムの問題がパースのインデックスの問題に集約されてしまう近年の傾向を、運動という観点から批判的に再考しようとしている。ガニングは、映画における現実感を、イメージの再現性だけでなく運動にも見出していたクリスチャン・メッツの議論を取り上げながら、インデックスの問題だけでは映画の動くイメージは捉えきれないと主張する。
確かにキネクトやゲーム、アニメーションといった運動的な側面がますます強まる近年のメディア環境を、写真的イメージの存在論だけでは捉えることは難しいだろう。こうした議論は、何よりもまず現代のメディア環境に対応するために提起されたと言える。
しかし、映画研究にとってのアニメーションの意味はそうしたニューメディアが持つそれとは、やや異なっている。というのは、アニメーションは、デジタルテクノロジー抜きにメインストリームに躍り出ることは難しかったとはいえ、映画とほぼ同時期に登場した歴史のあるジャンルでもあり、アニメーションについて考えることは、そのまま、映画史の、ひいては映画そのものの再考を要求してくるからである。
ガニングは映画研究における「アニメーションの黙殺」を指摘し、運動から考えることで総合的な視点を獲得することを主張している。ユーリー・ツィヴィアンが指摘しているように、メディアの境界線は形式的なものというより歴史的なものだとするなら、映画の特性をインデックスに特化するメディア理解もまた歴史的な限界を持っている。ガニングは、そもそも映画が登場したときの大きなインパクトはその運動性にあったことに注意を促しながら、媒体の区別があいまいだった初期映画期にさかのぼり、アニメーションや幻灯といったさまざまな視覚装置とともに、映画の固定化した定義を歴史的に再検討する必要性を訴えている。
アニメーションは、動くイメージの現在と歴史に同時にかかわる問いを提起している、といえるだろう。いや、もし運動という主題が媒体ベースのアプローチからの離脱を提唱しているとしたら、もはや映画かアニメーションか、といったことさえ問題ではなくなるだろう。様々なメディアが作り出すイメージを動かし、またその中を動いている動きを取り集めることで、全く新しい動きの風景が出現するかもしれない。
しかし、キャロルの著作は1990年代から2000年代はじめ、ガニングの論文は2007年に書かれたものである。では、これらの議論を受けて運動という主題は、その後、何か広がりを見せたかというと、そうとも言い難い状況にある。それ以降、運動という主題がメインストリームに躍り出ているわけでもなく、運動はこうした議論における強い注意喚起を裏切るかのように、マイナーな主題にとどまり続けている。
いや、実は、そもそも運動という主題を提起したこれらの議論においてさえ、それが十分に発展させられているとは言えないのである。反対に、私たちがこれらの議論で出会うのは、ある空虚さ、もしくは運動という名辞の記号としての過剰さである。運動という主題は、なにか空回っているような感じを与えるのである。
運動の空虚さ
例えば彼らの議論において、確かに運動が持つ意味は強調されている。しかし、彼らの著作をよく読んでみたとき、そこで実際に扱われているものを運動と呼んでよいのかどうか、実は議論の余地がある。キャロルは、運動という言葉によって身体的な感覚を強調しつつ、ゲシュタルト心理学の錯視などに注意を払い、それらをフィルム分析のための有効な要素として活用しようとしている。
運動という主題が提起されるもう一つの意味は、実はここにある。80年代後半に、美術研究がジンメルやベンヤミン的な視点を導入することにより社会学的な要素を強調し始めたのと同様に、90年代の映画研究においても、形式的なフィルム分析を批判し、より社会学的な映画理解を強調するアプローチが現れた。ジョナサン・クレーリーの生理光学的なパラダイムや、ベンヤミンの読み直しを通じて映画と近代の関係を問うミリアム・ハンセンやスーザン・バック゠モースのモダニティ研究、あるいは近代特有の劇形式としてのメロドラマなど、映画が登場した社会的意味が歴史的に問われるようになった ※5。
ここで重視されたのは、映画の感性論的・身体論的側面である。映画は自動車や都市と並んだ近代のショック効果の一環に位置付けられ、人間の感覚が変容していくプロセスを跡付けるものとみなされた。ニューメディア研究における身体への着目とも並行しながら、総体としての身体論的転回ともいうべき動きの一環となっている。
しかし、こうした傾向は、フィルム分析との深刻な分裂をもたらしたのも事実である。受容者の感覚的反応としての身体的ショックは、近代性の証言としてしばしばコンテクストに還元されてしまう。結果としてこうしたアプローチは、映画の形式分析に批判的な視点をとるものの、受容研究とメッツ的な図式があいまいに野合したものとなってしまいがちなのである。
運動という主題は、こうした背景を踏まえて、社会的コンテクストや感覚的受容に解消されてしまった運動を、あくまでフィルム分析に奉仕させるという野心から出てきたものでもある。もともとデイヴィッド・ボードウェルらは身体の生理的反応や認知心理学からのアプローチを訴えていたが、とりわけ近年になって演出を観客の「注意喚起」と捉え、ナラティヴ構造や空間演出などを観客の生理的な注意誘導の試みとしてとらえようとしている。キャロルの論文にも、運動をモダニティに還元せず、フィルム分析のための有効な単位として再定義する、という野心があると言えるだろう。
こうした背景から、運動というアプローチで強調されるべきなのは、運動の身体的ショックには還元されないその性質であると予想される。実際ガニングは、運動の「変容と連続性を同時に巻き込む」両義性や「多様なアスペクト」を強調し、運動が身体的ショックだけでなく、知的な思考プロセスや想像的なファンタジーをも同時にもたらすと述べている。
しかし、重要なのは、こうした身体的ショック以外の定義が、それほど掘り下げられているとは言えないことだ。例えばキャロルは物語映画や実験映画における運動の役割を探っているとはいえ、運動はやはり身体的なショック=注意のカテゴリーと結び付けられている。またガニングの議論も、運動の二重性を強調しているとはいえ、ショック効果を通じた強制的な観客の巻き込み以外の要素に関しては、散発的な指摘にとどまっている。これらの議論は、身体的ショックに還元されない運動の含意を強調するにもかかわらず、身体的ショックを強調した議論と、ほとんど同じに見えてしまうのである。運動という名辞の空虚さは、それが身体的ショックと同一視されていることから来ているのだ。
そもそも運動という問い自体、実は折衷的な、半端な部分を抱えている。映画研究では90年代後半から、「理論の死」ということが一定以上の関心を集めていた。1970年代に新たなディシプリンとして華々しく登場した映画研究は、近年様々な困難に突き当たることになった。メッツを始め、映画研究を支えてきた様々な理論は、普遍的なものであるどころか、1970年代の時代状況に深く限定されたものであることもわかってきた。また、記号論やカルチュラル・スタディーズなど他のディシプリンの借用を続ける中で、ディシプリンの境界線がよくも悪くも曖昧になってきた。かつてのニューメディアは、そのポテンシャルを使い果たしてしまったかのようなのであり、こうした中で、ディシプリンの存立基盤が、改めて問われるようになってきているのである ※6。
運動という主題は、まさにこうした背景から生まれてきたといえるだろう。それは、アニメーションやニューメディアそのものに着目するというより、それらと映画と比較可能にする一つの均衡点として、新たな理論的単位という期待を込めて浮上してきたのである。
運動という主題には、映画研究の延命のための窮余の策という含みもなくもないのだ。だとするなら、運動という問いの空虚さは、こうした延命策の空虚さが、直接表現されたものなのだろうか? 運動の物理的ショック以外の定義、運動のもう一つの半身を探ることには、何の意味もないのだろうか?
動きから考える──結論にかえて
さて、本論に可能な範囲でこの問に十分に答えることはもはやできない。しかし筆者は、「感覚」でも「身体」でも「変容」でもなく運動を問う、ということには十分に意味があると思っているし、またしかるべき手続きさえ踏めば、運動を主題化することは、困難ではありながらも不可能ではないと考えている。では、それはどのように行われるべきなのだろうか? 最後に簡潔にこのことについて考えてみたい。
まず運動とは、直接問いの対象になるものではないということが重要である。「○○の動き」と言われるように、動かれるのは何かの運動なのであって、どこかに運動そのものが「ある」というわけではないのだ。
このことは、映画研究に二つの構えをもたらした。ひとつは運動を問題化する際の、間接的なやり方である。例えばヒューゴー・ミュンスターバーグは、映画が単眼視であるにもかかわらず立体の印象をもたらすことについて、その原因を運動に求めている。ここでは遠近法という既存の主題が、動きから問われている。ガニングが言うように、動きの主題は決して抑圧されてきたのではない。それは、「○○の動き」というかたちで、寄生的な形で提起されてきたのだ。
そして次に重要なのは、こうした困難に由来する、運動の物象化・対象化である。映画をはじめとする動画テクノロジーが提起したのは「運動の対象化可能性」であった。西洋形而上学において運動は、それを語るために観念論的な枠組みを必要としてきた。それに対して、マレーやマイブリッジ以来の動画装置が切り開いたのは、単に運動の記述可能性の拡張にとどまらず、それらをあたかも対象のように取り扱う可能性であったと言えるだろう。しかし、仮に動画装置が運動の記述可能性を広げたにしても、それはあくまで可能性であって、動きがカテゴリー化可能な対象に物象化され得るということではない。イメージ上であれ運動は運動であり、運動をめぐってそれまで提起されてきた問題は、何一つ解決したわけではないのだ。このことは、結果として、イメージ上の運動を不可能なものとし、それをフォトグラムの運動やカメラの動き ※7といった装置の運動性に転位させる、という理論の構えをもたらした。
映画研究において、運動の主題はつねにイメージの中を動く運動それ自体から「逸れた」やり方で提起されてきたのである。映画をめぐる言説の中で運動は、イメージという「図」を輪郭付けるための、「地」のようなものとして機能しているのだ。そしてそのように考えたとき、アニメーションの可能性は、まさに「地」として沈み込んだ運動を図として浮上させるものだということがわかる。メッツは、ガニングが論じている「映画における現実感について」で運動について論じる際に、ミショットの「ラウンチング効果」を取り上げている。これは要素的な図形同士の動きが、「図形Aが図形Bにぶつかった」とか「図形Aが図形Bを押し出した」と認識される、すなわち知覚における因果関係の把握、すなわち「因果関係知覚」を調べたものである。メッツは運動が与えるこのような影響から、運動を現実ではなく「現実感」へと割り振ってしまう。しかし、これは、アニメーションにおいては、映画研究の中で装置や編集、ナラティヴに割り振られてきた意味形成作用が、まさにイメージ内部の動きの中で生じているという可能性を示唆しているのではないだろうか? 写真的実在性を基礎に置く議論の構えでは、イメージそのものと虚偽としての編集や物語構築という構図がたやすく出来上がってしまう。とりわけ「コードなきメッセージ」としての写真的映像を語るにあたっては、コード設定の身振りを一種の贈与の一撃のように機能させざるを得ない。しかしアニメーションにおいては、まさに動きの中でそれが行われるのである。アニメーション的な変容とは、記号を脱していく動きであるばかりでなく、記号を形成する動きでもあり得るのである。記号形成的な動きを通じて、アニメーションは、映画研究が「地」に沈めてきた運動を、まさに「図」として浮上させるのではないだろうか?
アニメーションが提起しているのは、まさに動きをイメージの表層において問う可能性であると言って良い。しかし、このようにしてアニメーション研究に目を転じたとき、それが実写との差異を模索するにもかかわらず、このような実写研究の構えを導き入れてしまっているということが、しばしば生じているように思われる。運動が図として浮上することで、肝心のイメージからは「逸れて」しまう運動を、純粋にイメージ上で問う可能性が開かれた。しかし、にもかかわらず、アニメーションと実写の違いとして例えば作り手の創造性や装置の違いが持ち出されるとき、動きによって開かれた可能性に再び「背後」が導入されてしまうのではないだろうか? こうした例を除いても、アニメーションがその根本的な新しさを主張するにもかかわらず、自らの価値を、シミュラークルや平面性、不定形といった、映画研究やモダニズム芸術で提起された規範を通じて導出する、という身振りは、場合によっては奇妙なものである。
おそらく私たちに必要なのは、「地」として沈み込んだ運動に目を向けるやり方を身に付けることであり、それを行うための、態度変更なのだ。先程も言ったように、運動という主題は、他の主題に寄生するという形で問われ、地に沈み込んでいる。そうした「地」を浮上させる試みを通じて、現在のメディア論的想像力の構えを相対化することによってはじめて、新しいものを考えるための枠組みを考えることができるのではないだろうか。
このような態度変更が必要となるのは、ひとえに運動というものの性質によっている。メルロ゠ポンティは、運動が持つ性質を、次のように言っている。
運動をそれとして認めることができるのは、それが運動をその運動的意味とともに、またこれを構成するすべての契機とともに、とりわけ動体の同一性とともに捉える場合だけなのである ※8。
メルロ=ポンティによれば運動は、「〈動体〉に帰属せしめるようなことは、一切できない」。それは、事物から自由に自らの動きを動くのだ。しかし、動体はその動きを通じて「終始同じものにとどまる」。つまり一方で運動は、事物の同一性をいささかも揺るがせはしないのである。運動は私たちに矛盾した態度を要求する。まずそれは対象ではないのだから、「何であるか」というカテゴリー的な問いをすり抜けていく。しかしにもかかわらずそれは、「何か」に付随した形でしか現れない。
アニメーションや映画、あるいは近年の動態的メディアを考えるために必要とされているのは、このダブル・バインドにも似た状況に、目を向け続ける粘り強さである。運動は事物中心の視点から決して立ち去らず、視野の周辺を動いている。逆にアニメーションにおいては動きが前景化するかもしれないが、しかしその時事物もまた視野を立ち去らずそこにある。そのような多重化したイメージを問題にするためには、運動はほとんどつねに、他のものと共に問われる必要があるのである。
とりわけアニメーションと映画といった時に重要なのは、この事物の像的側面(「何であるか」に基づいた理解)と運動的側面が、必ずしもジャンルの差異に一致しない、ということである。仮に運動がメルロ゠ポンティが言うような二重性を持つものなのだとすれば、実写においてもアニメーションにおいても、運動はそのような二重性の中を動いているはずである。アニメーションと映画を考えるにあたって、もし私たちが、ジャンル的な差異を優先させ、映画に象的なものを、アニメーションに運動的なものをそれぞれ代表させてしまうと、私たちは、カテゴリー化の罠に陥ってしまい、運動を再び見失ってしまうことになるだろう。なるほど確かにアニメーションの表現性の極にはもはや事物の同一性さえ失われた「変容」や「生成」があるのかもしれない。しかし上で見たように運動とはそこから一歩下がったところで動いているのであり、とりわけ動きが表現性の核をなすアニメーションにおいては、二重化した運動はその表現性の土台とも言えるべき動きを作り出しているはずなのである。
地としての二次的な運動は、それぞれのジャンルの固有性に即して自らの動きを動いているのであり、両ジャンルの独自の表現性は、その動きの上に打ち立てられているのである。だから私たちはイメージの表層にとどまりながら、地としての動きが機能するその仕方を浮上させ、その上で改めてジャンルごとの差違を問わなければならないのではないだろうか。
こうした態度は、アニメーションや映画をさらに超えて、現在のメディア環境に相対するときにも、必要とされる態度かもしれない。現在の動態的メディアには、像的なものと運動的なものの複雑な絡まり合いが、そうしたものとして、かつ多様に結晶化している。アンドレ・バザンをもじっていえば、運動とは「不純なもの」なのであり、「動きから考える」とは、この不純さにとどまるということに他ならないのである。
畠山宗明(聖学院大学)
※1 ここでは、ジャパニメーションやいわゆる「アニメ」と「アニメーション」の区別といった問題には立ち入らない。これらは私たちの環境であるがゆえに、別の視点を抑圧してしまう可能性もあるからである。
※2 Noel Carroll, Theorizing the Moving Image, Cambridge University Press, 1996, xiii.
※3 Noel Carroll, Engaging the Moving Image, Yale University Press, 2003, xxi.
※4 Tom Gunning , “Moving Away from the Index: Cinema and the Impression of Reality,” Differences 18, 1, 2007, 29–52. また『映画学』26号に、三輪健太朗による解説(前掲書、74-81頁)が掲載されている。
※5 エスター・レスリーの『ハリウッド・フラットランズ』もこの系譜の上に立ったものである。
※6こうした映画研究の知的状況をもっともよく伝えてくれるのが北野圭介の『映像論序説──デジタル/アナログを超えて』(人文書院、2009年)である。この本は、オーソドックスな映画研究からニューメディア論、美術研究まで幅広く狩猟しながら現在の映画/メディア研究の主要トピックを網羅的に論じているが、しかし、本書の洞察はそれらに対して示す「留保」において、もっともよく発揮されている。こうした模索の在り方に2000年代の映画研究が直面した問題の一端が、しかし本質的な形で現れている。
※7 映画において運動を問う論文が、しばしばカメラの動きに帰着してしまうということは、映画をめぐる理論的言説の一つの症候を示している。
※8 M・メルロ=ポンティ『知覚の現象学2』(竹内芳郎、木田元、宮本忠雄訳、みすず書房、1974年)、101頁。