小特集 インタビュー:アニメーション映画祭の現場から 2

インタビュー
アニメーション映画祭の現場から
土居伸彰
聞き手・記事構成:池野絢子、門林岳史

複数のアニメーション

──これまで伺った話は、どちらかというと制作と流通に関わる事柄でしたけれど、その一方で言説――つまり、アニメーションついてどのように語られているか、という側面についてはどうなんでしょうか。

土居:それは難しい問題です。映画祭文脈に関して言うと、どこで評価が定まるかといったら、やっぱり賞なんですよね。アニメーション映画祭にはメディアがなかなか入ってこないという話を先ほどしました。それに、映画館での興行もあまりない。そうなると、映画祭が与える賞がほとんど唯一の評価基準になってくる。まあ、いまだったら、動画サイトの再生回数や、「バズる」ことなんかが言説を操っていくのかもしれませんが。評論や批評は、ほとんどないと言っていいのではないかと思います。単純に、短編アニメーションを取り上げるメディアがないという問題が大きいのではないかと。
この流れで、アニメーション研究についても少し話すと、いまちょうど、アニメーション研究の初学者のためのブックガイドを作っていまして〔http://mediag.jpにて近日公開予定〕、明日ちょうどメディア芸術祭の関連企画でそれについてのトークショーがあります。これまでの話はアニメーション作品と「映画祭文脈」についての話でしたが、アニメーション研究をめぐる言説に関していうと、いま、「アニメーション・スタディーズ」というものが成り立ちつつある、という印象があります。これまでだと、批評理論をやっている人たちがアニメーションについて語ってみる、あるいは映画学をやっている人がアニメーションについて語ってみる、というような、外側から枠組みをあてはめる語り方が多かったと思うんですけど、アニメーションそのものから枠組みが生み出されつつある。制作中のブックガイドでは、そういったアニメーションに殉じた文献を多く紹介しています。

──ガイドブックで紹介する文献は100冊でしたっけ?

土居:基礎文献としてリストアップしたのは30冊程度なんですが、全部あわせると100冊以上あります。

──それは、土居さんが専門としているようなアニメーションと、それ以外の様々なアニメーションとを、全部ひっくるめる大きな入れ物として構成しているわけですか?

土居:そうです。海外の映画祭に行って一番思うのは、日本ではいわゆる「アニメ」とそれ以外のものとが、かなり違うものとして――たとえばアート・アニメーションというあまりに大雑把で実態を持たない言葉がそうだと思いますけど――捉えられているのだと思いますけど、それらがみなフラットに捉えられているんですよね。個人制作によるアニメーションも、「アニメ」も、ヨーロッパで作られた長編も、すべて同じ地平で語られている印象がある。だから、そういう語られ方を取り入れたいという気持ちがあるんです。そうすれば、日本においても、アニメーションの語られ方や研究のされ方が、もう少し健康的というか、広い視野で眺められるんじゃないかなと。

──そうですね、そもそも今回の特集の趣旨として、アニメーションという言葉のもとに、いろんなものが制作されたり、流通したり、それについて書かれたりしていて、それらの間の交流があるのか、あるいは交流がそもそもないのかということを考えてみたいということがありました。それからもう一方では、アニメーションと現代アートや実験映画など他のメディアやジャンルとの近接性や交流を伺いたいというのがあります。そこに交流が生まれにくいのだとすれば、たぶん、そこには受容のコンテクストも関係しているんじゃないでしょうか。同じ映像を使っていても、現代美術のコンテクストでヴィデオ・アートとしてアニメーションを発表している人たちの作品は、基本的には美術館に行って観るわけですよね。そういうかたちで拘束される面もあるのかなと思うんですけれど。土居さんが研究されている短編アニメーションの場合、基本的には映画館で観るんですよね?

土居:そうですね。特に僕が属しているアニメーション映画祭コミュニティは、アニメーションを映画として考えている人たちが多いです。作り手の人たちも、CALFの活動にしてもそうなんですけれども、実写のインディペンデント映画の人たちと表現の類似性があったり、話の通じる感じがあったりするんです。逆に美術の文脈でアニメーションを使っている人たちとは、そこまで強い共有はないという感覚があるんですね。それがもしかしたら、映画として観るのか、それともギャラリーのなかで観るのかというような、発表のされ方の違いであったり、もしくは美術というコンテクストとインディペンデント映画のコンテクストの違いということなのかもしれないです。コンテクストの違いでいうと、商業アニメーションの世界ともなかなか言葉が通じないことがあったりしますが。今やっているメディア芸術祭は、日本ではたぶん唯一、そういった複数のコンテクストにあるアニメーションが混じりあう場かもしれません。恵比寿映像祭は、美術や実験映画の文脈が強いからでしょうか、「勉強しにくる」というか、僕としてはどちらもホームグラウンドではない感じがあるんです。ある意味で、違う文脈で実践をしている人たちとのあいだの齟齬が見える場所であると。

──そこで言う齟齬をもうちょっと言葉にすると、どんな感じなんでしょうか?

土居:自分の表現を成り立たせているコンテクストで用いられる固有名詞や基礎知識としての作家、作品、枠組みが違うというのが、一番大きい気がします。たとえば映画のコンテクストのなかでは映画の巨匠たちの名前は共有されているし、美術のコンテクストでも同じことが言えると思うんですけれども、アニメーションにおける巨匠の名前は、たぶん映画の人たちも美術の人たちも共有していない。表現というのは、巨匠たちが作り出したフォーマットの吸収と反発からできていくと思うんですけれども、そういった意味で、お手本としているものが違うというか……前提としているコンテクストが違うと、同じアニメーションというものに関わっていたとしても、全然見方が違うんです。それが面白い発見につながることもありますが、大概の場合においては「なんであんなふうにやるんだろうね」というように、あまり作品の良さが理解されない。そういうことが起きているというのが今の状況なのかなという気がします。

──そういった齟齬を突破する入り口はどこなんでしょうか? 例えば僕は大学で映像文化専修というところで教えているので、2、3年に1人は必ずシュヴァンクマイエルで卒論を書く学生がいるんですけれど、シュヴァンクマイエルだと最近はけっこう近所のTSUTAYAでもDVDを借りられたり、そんなに観ることは困難ではないですよね。そういうかたちでないと、短編アニメーションのコンテクストのなかで一連の巨匠がいたとしても、それに入っていく入り口がないような気がするんですけれども。

土居:ほんとそうなんですよ。それが一番の困りどころで……。CALFは広報に関してはtwitterを有効活用しています。twitterを使うと、ジャンルに関係なく、面白い表現に興味がある人のアンテナに引っかかりやすいんです。普段アニメーションを見ない人でも、「おもしろそうなのやってるなー」という感じで。だから、面白い表現を見つけたいと意識的に考えている人がいるときに、そういうものを介してアニメーションではこういう面白いものがありますよと提示することは、できやすくなっていると思うんです。けれど、短編は市場としてのマスがすごく小さいので、普通に生活していくなかでフラッと入り込んでいけるような一般的な入り口というものはなくて……日本は海外と比べても短編やインディペンデント・アニメーションのDVDはけっこう出てる方なんですね。最近は大きなTSUTAYAであればDVDが1、2本くらい入っていたり。でも、現状として、市場規模の小ささが仇となって、出していたメーカーが撤退をしているという状況もある。マイナスにはならないけれど、たいしたプラスにもならないから、この事業はやめましょう、というのがすごく増えてきています。で、もっと問題なのは、雑誌などメディアを通じた紹介がほとんどないということです。みんな偶然に、行き当たりばったりで遭遇して、こんなのあるんだ、と知るわけなんです。 シュヴァンクマイエルに関して言うと、日本では「シュヴァンクマイエル産業」とでも呼べるものがある。チェコ・アニメーションもそうかもしれない。シュヴァンクマイエルの新作が出れば、それにあわせて、最近ではラフォーレミュージアムで展覧会をやって、それでラフォーレは若い女の子たちでいっぱいになるという……そういう状況も含め、ある種のファッションとして受容することがシュヴァンクマイエルだと可能なわけです。一方で、そうじゃない短編アニメーションについてはどうなのかというと、ネット上やいろいろな上映イベントを含め、確かに観る機会は増えている。けれども、それがコンテクスト化されておらず、かなり散発的に起こっている状況です。そのコンテクストを作ろうとはしているんですけれども、現実的には難しいですよね。