小特集 研究ノート アニメーションとアヴァンギャルド

アニメーションとアヴァンギャルド
——小林七郎が体現する「前衛精神」
福住廉

昨年末から今春にかけて、東京都杉並区の杉並アニメーションミュージアムで、アニメーション美術監督の小林七郎の回顧展「空気を描く美術」が催された ※1。小林は、名作『ガンバの冒険』(1975)をはじめ、『ルパン三世カリオストロの城』(1979)、『あしたのジョー2』(1980)、『少女革命ウテナ』(1997)、『のだめカンタービレ巴里編』(2008)などの背景を描いた、日本随一のアニメーション美術監督である ※2。会場には、それらの背景画をはじめ、数々のスケッチや取材メモなどが展示され、さらにじっさいに放送された番組の一部と新作の映像絵本『赤いろうそくと人魚』も上映された。幻想的な城塞がひときわ印象深い『カリオストロの城』が展示に含まれていなかったにせよ、それでもアニメーション美術監督としての小林の全貌に迫る好企画だった。

とはいえ、小林には本展が言及しなかった一面がある。それは、アニメーション美術監督になる以前の、いや、より正確に言えば、ある時期まではその職業と並行していた、前衛美術家としての小林七郎である。ほとんど知られていないことだが、小林七郎は1960年代の前衛美術運動の只中にいたのだ。

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前衛美術家としての小林七郎。その端緒を開いたのは、小林が武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)で出会った佐々木耕成という一人の男である ※3。熊本県出身の佐々木は小林より1学年上の先輩だったが、実年齢は4歳上で、哲学や思想を独学で学びながら絵を描く異色の学生だった。在学中、小林は佐々木と同じ下宿で暮らし、互いの絵画を論評し合い、芸術論を大いに闘わせた。それは、毎週必ず一枚の絵画を描き上げ、その作品について議論を繰り返すほど濃密な時間だったという。画家を目指して北海道から上京してきた小林にとって、佐々木は「大学の教授連中より多くのことを学んだ」先輩であり、佐々木と出会ったことが「美術学校に行った最大の収穫」だった ※4

当時の小林が執拗に描いていたのは、ノーマルな形態を過剰に歪ませたデフォルマシオン。たとえば、カシアス・クレイ(モハメド・アリ)とソニー・リストンが激闘する定型的なイメージを、原型をとどめないほど極端に歪ませた作品がある ※5 。色彩をモノクロに限定することで一切の情緒性を取り払う反面、歪曲した形態の運動性を強調している。「崩れながらも、辛うじて治まる」 ※6 。その危うい瞬間を定着させることが目的だった。後に小林は「絵を描くことは現実をデフォルメすること」であると断言しているが ※7 、その思想を養ったのがアニメーションの現場だったことは事実だとしても、その根は前衛美術家としての表現活動にまで伸びていたのである。

そうして卒業後、小林が佐々木とともに前衛美術活動の拠点としたのが、「ジャックの会」である。これは1964年に結成された東京ローカルの前衛美術運動で、一時期は70名ほどの会員が集まるほど、多くの絵描きたちが参加していた。結成当初の名簿を見ると、ハイレッド・センターの赤瀬川原平や高松次郎、中西夏之 ※8 、さらにネオダダの風倉匠 ※9などの名が認められるが、その運営を実質的に担うようになったのは、むしろ佐々木耕成だった ※10。ほかの会員としては、写真家の羽永光利 ※11や、後に小林と同じくアニメーターの道を歩むことになる小華和為雄 ※12が挙げられる。

「ジャックの会」の活動内容は、前期と後期で大きく異なっていた ※13。前期の活動目的は、美術家の経済的な自立。その目的を追究するため、たとえば絵の号数に関わらず、「千円均一」で絵画を直接消費者に販売する展覧会をいくどか開催した ※14。絵画を仲介する画商や、芸術の商品化に抵抗感を禁じ得ない一部の美術家からの反発が少なくなかったようだが、それでも「絵を売る」ことを公然と提唱した「ジャックの会」は画期的だった。今、決して成熟しているとは言えないにせよ、ある程度の美術市場が整えられ、美術家という職業が社会に認知されているのは、現在とは比べものにならないほどその認知が低かった時代に、「ジャックの会」が直接行動によって切り開いた道の延長線上にあると考えられるからだ。前期「ジャックの会」は、美術評論家や画商に頼ることなく、美術家自身が直接的に社会に働きかける、ひじょうに先駆的な運動だった。

一方、後期「ジャックの会」は、社会のなかに美術を定位させるという目的は同じだったものの、その手段は絵画の販売から「ジャッキング」という行為芸術へ大きく切り換えられた。その行為芸術とは、たとえば荻窪駅前で魚釣りをして、テレビカメラで隠し撮りした街中の人びとの反応を含めてテレビ番組で放送するというもので、これは現在で言うところの「ドッキリ」番組の先駆けでもあった ※15。あるいは被り物と横断幕を持参して全国の労働運動が結集するメーデーに介入したり ※16、テレビ番組の生放送でキャベツを延々と食べ続けて吐いたり ※17、路上で鶏を散歩させて途中でその首を鉈で切り落とすハプニングを披露したり ※18、その活動は徐々に先鋭化していった。また、岐阜 ※19や前橋 ※20、堺 ※21といった地方都市で催されたアンデパンダン展や芸術祭にも後期「ジャックの会」は意欲的に参加し、そこでも数々の「ジャッキング」を実行している。それらの活動を遂行していたのは、小山哲生 ※22、千葉英輔 ※23、ちだ・うい ※24、といった前期と比べれば若い世代の美術家たちだった ※25。つまり後期「ジャックの会」は組織形態においても、前期の大規模な集団から少数精鋭の運動に変容したのである。佐々木と小林は、活動内容の面でも構成員の面でも、同じグループとは思えないほど激変した「ジャックの会」の前期と後期の活動に一貫して関わった数少ない会員ということになる。

とはいえ、小林は「後期のジャッキングには、それほど関心を持てなかった」と振り返る。というのも、小林の関心はあくまでも絵画であり、そこから次第に離れていく後期「ジャックの会」はさほど熱を入れる対象ではなくなっていたからだ。後期になって会員数が大幅に減少したのも、小林のように絵画を志す会員たちへの求心力を後期「ジャックの会」が失ったことの現われにちがいない。大きな袋のなかに小山を押し込める裏方役を務めるなど、路上での「ジャッキング」に部分的に参加することもなくはなかったようだが ※26、小林自身が表立って肉体芸術を実行したわけではなかった。

むしろ、小林にとっての「ジャックの会」の活動といえば、深夜にまで及ぶ会合だった。夕方、仕事を終えた会員たちは、「ジャックの会」の拠点だった荻窪駅北口の岩島画廊 ※27 に集まる。ほどなくして議論がはじまり、小腹が減ると近くのラーメン屋で夕食をとりに出かけ、その後同じく北口の画廊喫茶「ポルテニア」 ※28に移動して、さらに絵画論や芸術論を激しく交わしたという。飲酒を伴う議論はある種の堕落とみなされていたため、参加者はいずれも素面で討議に挑んだ。それでも白熱した討論は深夜まで及び、朝帰りになることも少なくなかった。貧しくとも熱い青春時代。帰りの切符を買うことができなかった小林は、朝方の荻窪駅前で路上に捨てられたキセル切符を探し歩いたことを今でも鮮明に覚えているという。

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1964年、小林は東映動画に入社する。1956年に設立された同社は、劇場用の長編アニメーションの制作を謳っており、事実、当時の同社には、宮崎駿や高畑勲、大塚康生といった戦後のアニメーションを発展させることになる人材が集まっていた ※29。また、東映動画とともに日本のアニメーションの基盤を産業面においても表現論においても形成した虫プロダクションを後に設立する手塚治虫も、一時期、東映動画に嘱託として関わっていた。

注目したいのは、小林の東映動画への入社と「ジャックの会」への加入が、同じ1964年だったということだ。事実、前述した「ジャックの会」の会合に、小林は東映動画での仕事を終えた後に参加していたというし、おぎくぼ画廊での2回目の個展を催した際、小林はすでにアニメーションの仕事をはじめていた。つまり、小林は前衛美術家としての活動を「卒業」してからアニメーターに「転身」したのではなく、少なくとも「ジャックの会」が事実上活動を停止する1967年頃までは、アニメーターの仕事と前衛美術家としての活動を並行させていたのである。つまり、「労働」と「活動」は必ずしも矛盾しないのだ。

じっさい、小林によると、当時の東映動画には、小林のように食えない絵描きが数多く在籍していた。むろん、彼らに心ならずもアニメーションに携わるという屈折した思いがなかったわけではないだろう。それでも、絵を描くという理想と生活のための労働という現実の乖離を埋め合わせる手段として、曲がりなりにも絵を描くことで収入を得ることができた東映動画は、当時の絵描きたちにとって絶好の場所だった。小林も、佐々木耕成に「絵を描きながら飯が食えるアニメーションという仕事があるよ」と誘われて入社したという ※30。従来、アニメーションの歴史はマンガ家との親縁性から語られることが多かったが、その一方で美術家との接点もなくはなかったのである ※31。当の佐々木はやがてアニメーションから遠ざかっていくが ※32、小林はそのままアニメーションの道を歩むことになった。

そして1968年、小林は現代製作集団を経由して、「小林プロダクション」を設立する。2011年に解散するまで、小林が一貫してアニメーション美術監督としての仕事を追究してきた現場である。ここから、後にジブリ映画の背景を描くことになる男鹿和雄 ※33や、大野広司、小倉宏昌、水谷利春 ※34、秋山健太郎 ※35といった優れた美術監督が育っていった。有能な指導者でもあった小林は、そのことについて次のように語る。

「もしかしたら私が佐々木さんに共鳴したものを彼らに受け渡してきたのかもしれません」。

小林七郎が佐々木耕成に共鳴したもの。それが、50年代末から60年代初頭にかけて、朝方までいくども続けられた芸術論の討議によって育まれたことは想像に難くない。その粘り強い議論の蓄積が、アニメーション美術監督としての仕事ばかりか、後進の指導にも役立っているというのである。それは、いったいどんなものなのだろうか。

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小林七郎にとって佐々木耕成に匹敵するほど重要な人物がいる。それは、アニメーション監督の出﨑統である ※36。貸本漫画家から虫プロダクションを経由して独立したこの鬼才と、小林は数々の名作アニメーションを制作した。『エースをねらえ!』(1973〜74)、『ガンバの冒険』(1975)、『家なき子』(1977〜78)、『あしたのジョー2』(1981)、『コブラ SPACE ADVENTURE』(1982)などは、いずれも出﨑が演出を、小林が美術を務めた作品だ。ここで重要なのは、これほど強い信頼関係で結ばれた出﨑について、小林が次のような言葉で言い表していることである。

私が支持したのは、出﨑さんの過激な前衛精神です(笑)。彼はアニメーションの世界の前衛でした。そうありたいという精神の持ち主でした ※37

つまり小林にとって、美術の世界における前衛が佐々木耕成だとすれば、アニメーションの世界におけるそれが出﨑統である。事実、小林は出﨑から言われた「小林さん、今まで誰も見たことがないアニメーションを作ろうよ」という言葉を契機に次々と新たな技法に挑戦していったというし、佐々木耕成からは小手先の技術や情緒性にとらわれない造形の本質を学びとる構えを教えられたという ※38。小林七郎が描き出す世界は、佐々木耕成と出﨑統という2人の前衛によって引き出されたと言ってよいだろう。

出﨑統が編み出した革新的な技術として小林が挙げたのが、「ハーモニー」である。通常、アニメーションにおいて背景とキャラクターはそれぞれ異なるタッチで描かれることが多い。背景は筆跡とマチエールを強調する一方、キャラクターは平板で明るい色彩と線で描写されがちである。それは端的に、アニメーションの主眼はあくまでもキャラクターの動きであり、背景はそれを強調するための後景にすぎないという支配的な考え方の現われにほかならない。ところが、出﨑の「ハーモニー」とは、キャラクターを背景と同じタッチで描写することによって、この主従関係を一時的に相対化した。背景が前面にせり出し、キャラクターを呑み込んでしまう。双方を有機的に統一するこの手法は、物語のうちの特定の瞬間を劇的に表現するうえで、ひじょうに有効だった。「ハーモニー」を瞬間的に差し込むことで、視聴者の脳裏に強烈なイメージを焼きつけることができるからだ。

こうした出﨑による新たな技法が、小林にとってのデフォルマシオンと、その根底で思想的に通底していたことは明らかだ。過剰な強調ないしは極端な省略。それらを総じて言えば、つまるところクリエイターの表現ということである。アニメーションであろうと美術であろうと、クリエイター自身の表現がなければ、それらは成立しえない。「説明的で退屈な描写は、自己納得、安心というところに行き着くだけで、つまらない」 ※39と語る小林は、安心と不安を対比させながら、次のように言う。

大衆はつねに安心を求めるんです。不安や驚きは好まない。アニメーションはその最たるものですが、だからこそ私は自分なりのクリエイティヴな要素を作品に反映させようとしているんです。

空が青いとは限らないし、太陽が緑色に見えることもなくはない。小林がいうクリエイティヴな要素の反映とは、安心を求める大衆に安易に迎合するのではなく、不安や驚きを恐れず作品に導入することにほかならない。そのもっとも典型的な現われが、『ガンバの冒険』だろう。敵役のイタチ・ノロイの圧倒的な力を前に蹂躙されながらも格闘するネズミのガンバとその仲間たちを描いた物語だ。チャーミングなキャラクターたちとは対照的に、山や海、街の光景は、荒々しいタッチと力強い線によって劇的に表現された。それらは、いま振り返ってみれば、とても子ども向けのアニメーションとは思えないほど、おどろおどろしい。しかしだからこそ、それらがガンバたちにとって絶対的な他者として立ち現れているという非対称性がまざまざと感じられるのだ。『ガンバの冒険』を眼にした子どもたちの心には、他のアニメーションではありえない、名状しがたい恐怖と不安が残されているにちがいない ※40

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小林七郎の前衛精神は、佐々木耕成と出﨑統によって触発されながら育まれ、それは後進のクリエイターたちに受け渡された。しかし、それは確固とした方法論というより、むしろ絶えず更新していかなければ、たちまち枯れ果ててしまうような、ある種の生物ではなかったか。それが証拠に、小林は小林プロダクションを閉鎖した現在も、その更新作業を継続している。

冒頭で紹介した回顧展で、小林は『赤いろうそくと人魚』という新作を発表した。これは、童話作家の小川未明が1921年に発表した童話をもとに小林が新たに描き下ろした短編アニメーションで、老夫婦のもとで育てられた人魚の娘の成長を描く悲劇だ。人間を信頼して娘を預けた母の思いとは裏腹に、当の人間によって裏切られる娘の心情が痛いほど伝わってくる傑作である。

とりわけ注意したいのは、小林がこの作品を「アニメーション」ではなく「映像絵本」と形容している点だ。これは、いったいどういうことなのか。

まず考えられるのが、少ない予算のなかで作画枚数を抑えなければならないという経済的な事情。本作は、たしかにアニメーションにしては動きに乏しく、絵本の頁を繰るような、ゆったりとした時間性にもとづいている。それゆえ物語の進行も、キャラクターの動きというより、ナレーションに大きく依存していた一面は否めない。こうした消極的な理由が、「映像絵本」という言葉を小林に選ばせたことは十分にありうる。

しかし、むしろ積極的な意味を「映像絵本」という言葉の背景に深読みすることもできなくはない。つまり、小林は本作において、出﨑統の「ハーモニー」を全編にわたって徹底化することで、アニメーションの原点回帰を提唱しているのではないか。

「ハーモニー」は、たしかに画期的な手法だったが、それはあくまでも進行する物語のある瞬間を劇的に表現するための技法のひとつだった。それにたいして小林は、「ハーモニー」によるキャラクターと背景の有機的な統一を、本作のなかで物語全般に一気に拡大した。キャラクターも背景も同じタッチで描かれた世界は、なるほど絵本に近い。けれども、それは「ハーモニー」の劇的な効果を絵本のなかに雲散霧消したわけではない。むしろ、アニメーションという概念そのものを根底から再考させるために、その劇的な効果は援用されたのでる。

たとえば、大塚康生は「キャラクターを動かすことによって、キメの細かい演技をさせるのがアニメーション」と定義しているが ※41、小林はむしろキャラクターと背景が同一化した絵そのものを動かすことをアニメーションの原点として考えているように思われる。なぜなら、小林が前衛美術家として描いていた絵画はもちろん、日本画にしろ洋画にしろ、なんにせよ、そもそも絵画とはキャラクターと背景を明確に分離するものではないからだ。小林による「ハーモニー」の徹底化は、アニメーションの原点がキャラクターと背景を峻別しない絵画にあることを忘れたまま、キャラクターの描写だけに傾きがちな現在のアニメーションの趨勢にたいする、ひとつの批判的な応答なのではないか。「映像絵本」とは、それゆえ、「背景」から「キャラクター」への、そして「絵画」から「アニメーション」への、言ってみれば、逆襲なのだ。

小林七郎は、つねに、すでに、そして今も、「前衛精神」を体現しているのである。この熱を帯びた運動性こそ、わたしたちは学ぶべきだろう。

福住廉(美術評論家)


[脚注]

※1 2012年12月19日から2013年4月14日まで開催された。

※2 1932年北海道常呂郡置戸村(現在の置戸町)生まれ。1959年、武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)卒業。1964年、東映動画入社。1968年、小林プロダクション設立。2011年、同解散。現在、神戸芸術工科大学客員教授を務めながら個人で制作活動を続けている。

※3 佐々木耕成については以下を参照。『佐々木耕成展 全肯定/OK. PERFECT. YES』図録、3331 Arts Chiyoada、2010年。なお、同図録には小林七郎が「私が見た大器、佐々木耕成」を寄稿している。

※4 筆者によるインタビュー。2010年3月11日、小林プロダクションにて。以下、本文中に引用する小林の発言は、とくに断わりがない限り、このインタビューに由来する。

※5 おぎくぼ画廊での個展で発表された。おぎくぼ画廊は1962年から1968年まで荻窪駅南口にあった画廊。画廊主は三浦早苗。詳細は、「中原佑介批評選集通信第9巻大発明物語」(現代企画室+BankART 1929、2013年)に掲載された三浦早苗のインタビュー「おぎくぼ画廊と中原佑介」を参照。小林は1963年10月と1965年5月の二度、同画廊で個展を催しているが、クレイとリストンのタイトル・マッチが1964年と1965年であることを考えると、同作はおそらく1965年5月の個展で発表されたと推測できる。

※6 小林七郎「私が見た大器、佐々木耕成」、『佐々木耕成展 全肯定/OK. PERFECT. YES』図録、3331 Arts Chiyoada、2010年、p67

※7 小林七郎『アニメーション美術—背景の基礎から応用までー』創芸社、1996年、p104

※8 1963年に結成。命名の由来は、高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の頭文字をそれぞれ英語に直し、接合させたというもの。白衣を着て銀座の路上を掃除する《首都圏清掃整理促進運動》(1964年10月)などが知られている。2013年11月から12月まで、名古屋市美術館で初めての本格的な回顧展が催される。

※9 1960年に結成。吉村益信を中心に、赤瀬川原平、荒川修作、風倉匠、岸本清子、篠原有司男、田中信太郎、吉野辰海らが参加した。活動の拠点だった吉村の私邸《新宿ホワイトハウス》は、建築家の磯崎新の処女作であり、今も新宿区に現存している。

※10 事実、「ジャックの会」は、佐々木耕成が渡米した1967年を契機に、ほどなくして自然消滅した。

※11 1933年生まれの写真家。ダダカンの《殺すな》や新潟GUNの《雪のイメージを変えるイベント》などの撮影で知られる。写真集に『舞踏—肉体のシュールレアリストたち』(現代書館、1983年)など。

※12 1936年生まれのアニメーション監督。「小華和ためお」と表記することが多い。1965年、東映動画入社。『ドカベン』のキャラクターデザインや『まんが日本昔ばなし』の演出を手がける。

※13 筆者は、「ジャックの会」の前期と後期を分け隔てる分岐点が、1965年の夏、岐阜県の長良川河川敷などで催された通称「岐阜アンデパンダン」展にあると考えているが、ここでは文脈から外れるので詳述しない。詳細は以下を参照。拙稿「ジャックを探せ!−−佐々木耕成と「ジャックの会」:1964-1967」、『佐々木耕成展 全肯定/OK. PERFECT. YES』図録、3331 Arts Chiyoada、2010年、pp68-75

※14 「ジャックの会千円均一展」椿近代画廊、1964年9月27日〜10月8日/「ジャックの会1点千円均一展」岩島画廊、1965年4月5日〜14日、椿近近代画廊、1965年4月7日〜12日

※15 NETTV(現在のテレビ朝日)系列の『アフタヌーンショー』にたびたび出演していた。司会は落語家の桂小金治。

※16 1966年5月1日のメーデー。会場は代々木公園。

※17 ビタミンアートの小山哲生によるジャッキング。放送日時など詳細は不明だが、小山によると視聴者からかなりの苦情が寄せられたらしい。

※18 1966年11月23日、新宿コマ劇場前でおこなわれた《デーティングショー》。

※19 「アンデパンダン・アート・フェスティバル 現代美術の祭典」、1965年8月9日〜19日、岐阜市民センター+金公園+長良川上流一帯

※20 「シャッターに絵を描く15人の前衛画家たち」、1966年8月7日、前橋ビル商店街

※21 「堺現代美術の祭典」、1966年8月20日〜28日、堺市金岡公園+体育館ほか

※22 1943年長野県生まれ。「ビタミンアート」を提唱した伝説の芸術家。当時は「小山哲男」だったが、後に「小山哲生」と表記するようになった。2010年逝去。

※23 1937年福島県生まれ。『美術手帖』(1970年12月号)の特集「行為する芸術家たち」に紹介される。

※24 1948年岩手県生まれ。本名は千田有為子。高校生の頃から「ジャックの会」に出入りし、後に篠原有司男やゼロ次元などと交流する「前衛タレント」として活躍した。1982年、有為エンジェルの名前で発表した小説『前奏曲(プレリュード)』で第5回群像新人長編小説賞を受賞。

※25 「ジャックの会」を含む60年代の行為芸術については以下を参照。黒ダライ児『肉体のアナーキズム』grambooks、2010年

※26 1966年11月27日、数寄屋橋前でおこなわれた《デーティングショー》。

※27 荻窪駅北口の宇田川呉服店の2階にあった画廊。運営を「ジャックの会」が担っていた。

※28 荻窪駅北口にあった画廊喫茶。オーナーは抽象画家の石郷岡敬佳。

※29 大塚康生『作画汗まみれ』文春ジブリ文庫、2013年

※30 小林によると、佐々木耕成を東映動画に引き入れたのは、福本智雄である。『宇宙パトロールホッパ』(1965)、『サイボーグ009怪獣戦争』(1967)、『おやゆび姫』(1973)などの美術監督を務めた。

※31 戦後のアニメーションが成熟するうえで美術家が果たした役割については、今後の研究によってさらに詳しく解明されることが期待される。

※32 佐々木耕成が東映動画に在籍していたのは1963年から1966年。現在、確認できるかぎりで言えば、『宇宙パトロールホッパ』(1965)、『海賊王子』(1966)、『魔法使いサリー』(1966-68)の背景画を描いたなお、1964年には同社主催のアニメーションコンクールでシナリオ賞を受賞している。

※33 1952年生まれ。1972年に小林プロダクションに入社。1987年に『となりのトトロ』の美術を担当して以来、宮崎駿・高畑勲の作品に携わっている。2007年、東京都現代美術館などで「ジブリの絵職人 男鹿和雄」展が開催された。

※34 大野、小倉、水谷の3人は1983年に小林プロダクションから独立し、スタジオ風雅を設立した。

※35 2008年に独立、Studio Pabloを設立。

※36 出﨑統については以下を参照。『アニメーション監督 出﨑統の世界』河出書房新社、2012年

※37 前掲書、p55

※38 小林はこうも言う。「私は出﨑さんと出会う前に、個人で絵を描いていたのですが、「ありえない、こんなの絵じゃないよ」と言われるようなものを描こうとしていました。前衛作家たちはみんなそう言います。既成概念の殻を突き破って何かやらかそうと」。前掲書、p61

※39 前掲書、p59

※40 ちなみに、『ガンバの冒険』のなかでもとくに印象深い、あの荒々しい海の描写は、アニメーションはおろか、日本美術の歴史全体のなかでも、とりわけ傑出した表現として評価するべきだと思う。どういうわけか、この国の美術は山岳を盛んに描写する一方、大海や荒波を主題とすることはきわめて少なかった。ガンバたちの行く手を阻むかのような、鋭角的で攻撃的な波の表現は、他に類例を見ない、まさしく小林七郎ならではの絵である。

※41 大塚康生『作画汗まみれ 改訂最新版』文春ジブリ文庫、2013年、p17