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東京発「世界文学」の試み——国際研究集会「グローバル化時代の世界文学と日本文学——新たなカノンを求めて」
2013年3月2日、3日、東京大学本郷キャンパスの山上会館で国際研究集会「グローバル化時代の世界文学と日本文学―新たなカノンを求めて/World Literature and Japanese Literature in the Era of Globalization: In Search of a New canon」(東京大学文学部現代文芸論研究室主催、日本学術振興会H24年度国際研究集会)が開かれた。4つのセッション、8つのパネルで構成される研究集会には、およそ15か国から100名ほどの参加者があり、2日にわたって活発な議論が繰り広げられた。組織委員の一人として、準備からこの研究集会に携わった立場から振り返ってみたい。
初日の主催者代表のあいさつで、沼野充義氏は開口一番、この研究会の目標は世界文学のあるべき姿についての結論に至ることではなく、多様な声が響きあう場を作ることだ、と述べ、その残響から何か曖昧ながらも未来に向けた輪郭が現れるのではないか、という展望を示した。実は、プログラムのうえでは、この研究集会にはさらにもう一つの副題が加えられている。Does it make sense to discuss World Literature in Tokyo? この反語的な問いかけにこそ、本研究会の意図が込められていたように思う。
「世界文学」という言葉はこのところしばしば耳にするようになったが、その指すところは、文学研究者にとっても決して自明ではない。近年、この概念を提唱している沼野氏、そして2011年に『世界文学とは何か』(2003年、邦訳は国書刊行会から2011年)が邦訳されたアメリカの比較文学者デイヴィッド・ダムロッシュの説を簡単にまとめると、世界文学とは、単に、多様な言語で多様な地域で書かれた文学をひっくるめて指す総称ではなく(それならば「文学」で足りる)、また、ゲーテ、さらにはマルクスが思い描いていたような、普遍的かつ理念的な「世界文学」のことでもない。異なる文化・言語圏に入って、新しい文脈で新たな読みを生成するような文学、言い換えれば、翻訳を通し、異なる文化圏における受容を通してさらに豊かに生まれ変わるような文学である。このように星座的な連関として思い描かれる世界文学のイメージは、従来の「世界文学」がアウエルバッハ然り、往々にして西欧中心的な、「西欧文学」もしくは「欧米文学」とイコールであった事実も明るみに出す。ダムロッシュも強調するように、「世界文学」とは、常にどこかからの視線に基づくナラティヴであり、世界文学は視線の数だけ存在するはずだ。
本研究集会の参加者は海外の日本文学研究者、内外のロシア東欧、ラテンアメリカ文学研究者、あるいはイディッシュ語文学やチカーノの文学、クレオール、複数言語使用者の文学、翻訳研究の研究者など、いわば従来の「世界文学」カノンの外部を専門とする研究者が主体だった。さらに付け加えれば、参加者の多くが期せずして、母国以外を拠点に、母語以外の環境に身を置いて外国語文学の研究活動を行っている。つまり、この研究会が目指したのは、欧米中心の「世界文学」に対し、もうひとつの別の「世界文学」の見通しを示すことであり、それは決して日本という国や言語から見た世界文学ではなく、研究者たちの報告の点描から浮かび上がるかもしれない、今日の世界認識に適うはずの世界文学の姿であった。
以下、各報告を振り返る。
基調講演
基調講演では、アメリカ出身の日本語作家であるリービ英雄氏が、アイデンティティと言語の関わりについて語った。母語ではない日本語を執筆言語とする氏は、多和田葉子の提起する「エクソフォニー」を想起しながら、母語以外の言語空間に身を置くことのさらに先へ行き、非母語で別の非母語体験を書くことによって新たに開かれる文学の可能性を語った。
氏が英語で講演したことも特記しておきたい。英語礼賛の昨今の風潮に対する抵抗としてか(?)、氏は常に日本語で、時に中国語の引用も交えて講演していると聞いていた。つまり今回は、日本の日本語作家「リービ英雄」にとっては非日常語である母語を使用したことになる。これは、結果的に今回の研究会にぴったりくる選択だったように思う。日本文学研究者も多く、日本語理解者が大半を占めるなか、今回の会議の共通語は英語であった。日本人参加者のみならず、外国人参加者の半数以上にとって、英語は母語でも日常言語でもない。英語使用をグローバル化と同一視する傾向に対して異を唱えるべき世界文学会議でなぜ英語か、という疑問を当初私も抱いたが、異言語を理解しようと耳を澄まし、母語以外で応答する言語状況は、この研究集会が扱う文学のあり方に沿っているとも言える。リービ氏の英語での講演は、日本語作家のもう一つの「声」を聴いたという感慨とともに、英語の場合も日本語とほとんど同じ区切りと息遣いで語ることが印象的だった。
続いて、代表作『もうひとつの街』(河出書房新社)が日本語訳されたばかりのチェコの作家であり哲学者のミハル・アイヴァス氏が登壇した。幻想的なその作風ゆえに、体制転換前は作品の刊行をあきらめていたという氏であるが、東欧革命前後に作品を発表しはじめ、現在はチェコを代表する世界的作家である。
アイヴァス氏は1960年代のチェコスロヴァキアで外国文学が解禁になったときの衝撃を皮切りに、思想伝達の道具としての文学を成り立たせているのは、実は、他者によって持論を肯定されるときに誰もが感じる快さではないか、と指摘した。そのうえで、ヘーゲルの言葉「精神のオデュッセイア」を援用しながら、ヘルダーリン、ホフマンスタール、プルースト、ブルトンを参照し、他者および未知なるものとの出会いを文学の本質と指摘し、未知との遭遇によって、新たに思いがけないかたちで生まれ変わる文学を20世紀モダニズム文学の特徴と指摘した。異なる文化圏に入って新たな意味を獲得するような文学とは、近年の議論における世界文学の特徴と偶然ながらも一致している。予定調和の快い肯定のなかで生まれるのはイデオロギーとキッチュでしかなく、文学の本質は他者との接触にこそある、という主張は、氏が全体主義体制の証人でもあるがゆえに、単なる「多文化共生」といったキャッチフレーズとは根本的に異なる重みをもって響く。
アメリカ文学研究者で翻訳者の柴田元幸氏は、西欧文学の日本語翻訳の移り変わりにみる日本の西欧への視線の変化と変わっていない点について指摘した。近代以降の日本では、アメリカ文学の翻訳も、作家と登場人物を見習うべきモデルとして「見上げる」視線のもとに行われており、それが文体にも反映している。変化は1970年代から現れた。文体やトーンを訳すことに焦点が置かれるようになり、いわば視線が「水平化」した。とはいえ、日本文学が(たとえば村上春樹が)アメリカおよび英語圏で高い評価を得ると、日本ではナイーヴなまでに喜ぶ。この反応には、いまだに西欧を「仰ぎ見る」視線があるのではないか、と指摘した。
対象は異にしながらも、三者の講演には異なる文化・言語といかに関わるか、という共通のテーマが見出せる。翻訳というプロセス一つとっても、ある言語からある言語へのニュートラルな変換ではなく、当該言語間の政治的、社会的力関係のなかで行われている。その政治性を見据えながら、なおかつ文学の可能性の拡大に肯定的に向かう姿勢が三者の話に強く出ていた。
研究報告
報告は4つのセッションに分かれ、2つのセッションが同時進行するかたちで行われた。報告タイトルは末尾のプログラムを参照されたい。報告の要旨は研究会HPに公開されている。(http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~sekaibun/pdf/130319wlt_abstracts.pdf)
報告タイトル一覧が示すように、テーマは非常に多彩である。すべてに共通していたのは、一つの言語や国の文脈にとどまらず、異なる言語・文化圏との連関のなかに対象を捉える視野であった。
- セッションA「世界文学と日本文学――二項対立を超えて」
- パネルA-1「東京で世界文学を論じることに意味があるか?――世界文学を日本文学の文脈におく」
- パネルA-2「日本文学を他の文学と比較することに意味があるか?――日本文学を世界文学の文脈におく」
- セッションB「地域(リージョン)とヴィジョン」
- パネルB-1「イスパノアメリカ文学へのアプローチ」
- パネルB-2「越境と混成」
- セッションC「翻訳と創作」
- パネルC-1「翻訳にとってオリジナルとは何か?」
- パネルC-2「翻訳はどこまで創作で、創作はどこまで翻訳か?」
- セッションD「もう一つのヨーロッパからの声――ロシア中東欧文学の「心の中の地図(mental mapping)」脱構築に向けて」
- パネルD-1「現代ロシアを世界文学の文脈の中に位置づける」
- パネルD-2「中心-周縁の二項対立を超えて――中欧・東欧へのアプローチ」
セッションB「地域(リージョン)とヴィジョン」の「越境と混成」パネルでは、一国一言語という近代的な言語・文学観の限界を露呈する例として、多言語国家イスラエルにおけるロシア語文学の現状が報告された。これに緩やかに対応するように、両大戦間期ポーランドにおけるイディッシュ語文学の状況についての報告があった。当時のイディッシュ語作家たちは、イディッシュ語支部として世界ペンクラブに加盟し、世界文学を担う一員を自負しながら、ポーランド語文学と同義だった「ポーランド文学」からは排除されていた。植民地化される側の文脈で論じられてきたポーランドは、同時にイディッシュ語文学などマイノリティの文学に対する文化的ヘゲモニーであったという観点からの文学史読み直しの提起は、言語混淆が日常的であった他の中東欧地域に通じる部分もありそうだ。一方で、ディアスポラの言語によるイディッシュ語文学を、翻訳を介さずに広がりえた世界文学としてさらに検討することも必要だろう。もう2つの報告は言語の混淆・変容に焦点を置いたものである。クレオール語とカリブ海地域の文学の生成についての報告があり、多和田葉子の日本語とドイツ語自己翻訳作品の詳細な比較分析が発表された。それぞれのテーマが珍しいうえに、各報告の完成度が高く、フロアからの質問が相次いだ。
セッションC「翻訳と創作」は、創作テクスト(「オリジナル」)と翻訳テクストの関係を多言語化が進行する21世紀の文学状況のなかで再考する試みだった。『源氏物語湖月抄』木版本の「翻訳」、グリッサン、片岡義男、マバンクー、ベケット、ベンヤミン、ドイツ文学の「創設」において翻訳が担った役割等、多彩な例を取り上げたパネリストの各論においては、翻訳行為そのものが、創作の不可欠な一部であるという認識が共有されていた。
後半のパネルでは、そのように翻訳を捉えるなかで翻訳研究はいかにあるべきかという点に関して、さまざまな視点から意見が出された。
セッションD「もう一つのヨーロッパからの声―ロシア中東欧文学の「心の中の地図(mental mapping)」脱構築に向けて」の東欧パネルでは、21世紀の今日の中東欧の文学動向について、4人のパネリストが論じた。「戦略」が大半のスピーカーのキーワードであり、外から与えられた神話やステレオタイプ、国の歴史という大文字の物語を、現代の中東欧作家たちが逆手に取って利用し、それを打ち破るように新しい作品を作り出していること、中東欧の作家は「世界文学」に入るために(翻訳されるために)ある種の戦略をとらざるをえないことなどが論じられた。パネルを通して、他者あるいは外部に対する応答が共通点として浮かびあがったのが印象に残った。中東欧という視野で同地域の文学を比較検討していく必要性と意義を感じさせるパネルだった。
クロージング・セッション
最初に細川周平氏が、ブラジル日本移民による日本語文芸の一世紀近くの歩みを概観した。それらは文芸愛好家の創作の域を出ないと言いながら、細川氏はそれをアマチュアと切って捨てず、その書く営み、何より自由時間の過ごし方として文芸を選んだことに注目し、個別の営みが文芸共同体として成立するまでを捉えている。2日間にわたる文学会議は、書くこと、という個人的営みに立ち戻り、書く意志の力を確認して締めくくられた。
各分科会の報告が行なわれたのち、司会の柴田元幸氏が、言語・地域を超えた文学の多様性がさまざまな形で確認されるのはそれ自体大変よいことであるけれども、多様性・越境性・逸脱性を指摘すること自体が一種制度化しているという面もあるのではないか、と危惧を表明したところ、フロアからも、文学の本質的に重要な部分はかならずしも多様性等と連動するものではないという意見が表明された。
おおむね若手世代に向けて発せられた柴田氏の発言を聞いて考えたのは、多様性等といった言葉の頻用が隣り合わせる、言葉に対する感覚の鈍化のことであった。こうした言葉は世界文学という用語同様、使いやすく、研究成果としても収まりがよい。社会的責任という名のもとに、研究成果について「一般」に向けて「わかりやすく」説明することが、もはや必要以上の頻度と強度で求められるようになりつつある研究者にとって、現行の制度に折り合いをつけるのにちょうどいいのがこうした一連の言葉であり、もしかしたら既に制度化しつつあるこうした言説かもしれない。だが、「多様性」「越境性」「世界文学」等は、既に批判的な言及も多くされる「グローバル化」や「多文化共生」といった用語同様、空虚そのもののキャッチフレーズにも一瞬で転化しうる。わかりやすくキャッチフレーズ化した言葉や制度化した言説に馴致されてしまうことなく、その危うさに意識的であること、刻々と変容する現状に対応する言葉を、一見飽和状態にみえるなかから新たに刻み出す作業が文学研究者の仕事ではないか、といったことを考えた。
現在の日本は、政治の言葉を筆頭に、研究教育の場も含めてあらゆるところに乾いたキャッチフレーズが溢れている。それは、2011年3月11日の地震と原発事故以降、加速している印象さえある。文学研究者の今日的視点からの現状分析の一手段として、こうしたキャッチフレーズが翻訳に耐えうる「世界文学」たりうるのか、といった観点から世に飛び交う言葉や言説を検証することは、案外有効ではないか。(この会議が終わって参加したヨーロッパの学会から日本に戻る飛行機のなか、NHKニュースが英語の音声通訳付きで流れ、「信頼を取り戻す」という、「how」に欠けた不完全な印象の文章を政治家が何度も力強い身振りで繰り返していた。日本語は文の要素の省略を特徴とするが、それゆえにしばしば、欧米言語に訳したときに、その文章の本質的な論理構造の不備を露呈する。この政治家の言葉は日本語では「簡潔で」「わかりやすい」言葉に響いたのかもしれないが、そもそも対話の言葉としては「簡潔」にすぎ、対話を拒否する言葉であった。)
怒涛の世界文学会議は、セルビア在住の詩人の山崎佳代子氏による、自作の詩のセルビア語、日本語、英語の三言語の朗読によって締めくくられた。
初日のレセプションでは、主催者側の教員有志がギター片手にビートルズを熱唱し、参加者に大きな印象を残したことも付け加えたい。会場内外での白熱した議論の一方で、全体的には文学への関心と情熱を共通項に結ばれた、暖かな雰囲気の研究集会だった。
今回の報告や討議は論集などのかたちで刊行される予定である。(加藤有子)
プログラム
■2013年3月3日(日)
- オープニング・セッション(英語)
- 開会の辞 組織委員会を代表して 沼野充義(東京大学)
- 基調講演
- リービ英雄(作家、法政大学)「境界を越えて、日本語で」
- ミハル・アイヴァス(作家、プラハ理論研究センター)「グローバル化した世界の文学」
- 柴田元幸(東京大学)「我々はどこを見ているのか――西洋文学を日本語に訳すことについて」
- セッションA「世界文学と日本文学――二項対立を超えて」
- 【パネルA-1】「東京で世界文学を論じることに意味があるか?――世界文学を日本文学の文脈におく」(英語)
- 司会:沼野充義(東京大学)
- 報告:
- チャールズ・イノウエ(タフツ大学)「ポストモダニズム、形象性とものを語ること」
- 藤井省三(東京大学)「東アジアにおける阿Q像の系譜――夏目漱石と魯迅そして村上春樹」
- ツベタナ・クリステワ(ICU)「日本古典文学再考――「古代」か「未来」か」
- 討論:リース・モートン(東京工業大学)
- 【パネルA-2】「日本文学を他の文学と比較することに意味があるか?――日本文学を世界文学の文脈におく」(英語)
- 司会:イルメラ・日地谷=キルシュネライト (ベルリン自由大学)
- 報告:
- デンニッツァ・ガブラコヴァ(香港城市大学)「現代日本文学の島嶼性と群島性」
- カレン・ソーンバー(ハーヴァード大学)「移動するテクストの帝国――世界文学における世界再考」
- 秋草俊一郎(ハーヴァード大学客員研究員)「ナボコフの日本文学との隠された関係」
- 【パネルA-1】「東京で世界文学を論じることに意味があるか?――世界文学を日本文学の文脈におく」(英語)
- セッションB「地域(リージョン)とヴィジョン」
- 【パネルB-1】「イスパノアメリカ文学へのアプローチ」(スペイン語・英語)
- 司会:野谷文昭(東京大学)
- 報告:
- アウレリオ・アシアイン(関西外国語大学)「鏡に映った影――イスパノアメリカにおける日本文学の受容と日本におけるイスパノアメリカ文学の受容」
- 柳原孝敦(東京外国語大学)「ラテンアメリカ主義再考」
- マヌエル・アスアヘ・アラモ(東京大学博士課程)「村上春樹とロベルト・ボラーニョ――周辺が生みだした世界文学」
- 山辺弦(日本学術振興会特別研究員)「毒と遁走――ピニェーラとゴンブロヴィッチの亡命」
- 【パネルB-2】「越境と混成」(英語)
- 司会:西成彦(立命館大学)
- 報告:
- エレーナ・バイビコフ(翻訳研究者)「移民、離散、少数派…?――イスラエルにおけるロシア語文学の理解に向けて」
- 浜邦彦(早稲田大学)「カリブ海のクレオール文化と文学」
- カロリナ・シマニャク(『ツヴィシュン』編集長/ユダヤ歴史研究所)「辺境の逆襲――少数民族文学の認知を求める闘い:ポーランド文学、ポーランド=ユダヤ文学、世界文学の狭間のイディッシュ文学」
- 齋藤由美子(東京大学/ベルリン工科大学博士課程)「日本語とドイツ語の間で――多和田葉子のバイリンガリズム」
- 討論:奥彩子(共立女子大学)
- 【パネルB-1】「イスパノアメリカ文学へのアプローチ」(スペイン語・英語)
■2013年3月4日(月)
- セッションC「翻訳と創作」
- 【パネルC-1】「翻訳にとってオリジナルとは何か?」(日本語・英語)
- 司会:イルメラ・日地谷=キルシュネライト(ベルリン自由大学)
- 報告:
- 藤井光(同志社大学)「アメリカの外における創作と翻訳――現代アメリカ文学より」
- 管啓次郎(明治大学)「翻訳はオリジナルに対して何ができるのか?」
- 松永美穂(早稲田大学)「多和田葉子の作品における「翻訳」の概念」
- 討論:チョイ・ゴンヨン(延世大学)、アルベナ・トドロヴァ(ソフィア大学)
- 【パネルC-2】「翻訳はどこまで創作で、創作はどこまで翻訳か?」(日本語・英語)
- 司会:柴田元幸(東京大学)
- 報告:
- マイケル・エメリック(カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校)「詩作としての翻訳」
- 小野正嗣(明治学院大学)「少なくとも創作は翻訳ではないか?」
- 大宮勘一郎(東京大学)「創設としての翻訳――ドイツ的翻訳の理念について(ゲーテからベンヤミンまで、およびそれ以降)」
- 討論:デイヴィッド・ボイド(プリンストン大学博士課程)、ベアタ・コヴァルチク(ワルシャワ大学博士課程)
- 【パネルC-1】「翻訳にとってオリジナルとは何か?」(日本語・英語)
- セッションD「もう一つのヨーロッパからの声――ロシア中東欧文学の「心の中の地図(mental mapping)」脱構築に向けて」
- 【パネルD-1】「現代ロシアを世界文学の文脈の中に位置づける」(英語・ロシア語)
- 司会:ヴァレリー・グレチコ(東京大学)
- 報告:
- マルク・リポヴェツキー(コロラド大学)「詩学の政治――現代ロシア文学における「単純さ」と「複雑さ」」
- イ・ジヨン(漢陽大学校)「パフォーマンスとしてのテクスト――ドミトリー・プリゴフの詩的インスタレーションにおける「崇高」」
- 乗松亨平(東京大学)「ナショナル・アイデンティティとしての「爆発」――ロシア・ポストモダン論におけるユーリイ・ロトマンの影響」
- 松下隆志(北海道大学博士課程)「現代ロシア文学における「ナショナルなもの」の表象――V・ソローキン、P・ペッペルシテイン、M・エリザーロフ
- 【パネルD-2】「中心-周縁の二項対立を超えて――中欧・東欧へのアプローチ」(英語)
- 司会:阿部賢一(立教大学)
- 報告:
- ヴィクトリア・エッシュバッハ=サボー(チュービンゲン大学)「今日のヨーロッパ的な文脈におけるハンガリー文学の現状――ドイツの窓から見たエステルハージ・ペーテル」
- 亀田真澄(日本学術振興会特別研究員)「想像のユーゴスラヴィア――ユーゴノスタルジー以降の新しい文学」
- 井上暁子(北海道大学研究員)「越境の戦略――ベルリンの「ポーランド人失敗者クラブ」を例に」
- ピョートル・マレツキ(『Ha!art』編集長/ヤギェロン大学)「聖化とアヴァンギャルド――1989年以降のポーランド文学シーン」
- 討論:ミハル・アイヴァス(作家 /プラハ理論研究センター)、加藤有子(東京大学)
- 【パネルD-1】「現代ロシアを世界文学の文脈の中に位置づける」(英語・ロシア語)
- クロージング・セッション(英語)
- 特別講演 細川周平(国際日本文化研究センター)「ブラジルにおける日本人移民の文学世界」
- 全パネル・モデレーターによる総括
- 全参加者による討論
- 詩の朗読 山崎佳代子(ベオグラード大学) 日本語・セルビア語・英語