研究ノート | 調 文明 |
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御真影試論:モノとしての御真影
——奉掲位置と変色現象に注目して
調 文明
慶応3年の大政奉還とそれに続く王政復古の大号令は、250年以上続いた江戸幕府の終結と近代天皇制国家の幕開けを告げた。明治新政府は、明治2年の東京への再幸(明治元年に東京への行幸、すなわち東幸がなされた)によって、首都機能(皇居と政府機関)を朝廷や後宮の因習根深い京都から東京へと遷したが、それは天皇を可視化させる始まりでもあった。宮中の御簾の後ろに鎮座まします天皇像は、すでに近代国家の元首像にはそぐわなかったのである。そこで、政府は天皇及び皇后の存在を国内外に広く知らしめるために、巡幸と天皇・皇后の肖像写真、すなわち「御真影」を大いに利用した。その後、御真影は大正・昭和天皇のもとでも謹製され、軍国主義の色合いを刻一刻と深めていく日本の社会に大きな影響力を与えることになったのは、周知のことだろう。
1 御真影にかんする先行研究
明治・大正・昭和と三代にわたり、絶大な影響力を誇った御真影だが、それにかんする研究の動向はどうであろうか。教育学者の佐藤秀夫によれば、御真影が本格的に研究対象として扱われるようになったのは、1970年代末からのことだという ※1 。佐藤秀夫や籠谷次郎、山本信良、今野敏彦らによる教育学的見地からの研究は、主に当時の公文書等の文字資料に基づいて遂行され、教育機関と御真影・教育勅語の関係を着実に浮かび上がらせていった ※2 。1980年代に入ると、師岡宏次の「天皇皇后陛下の写真〈御真影〉の研究」 ※3 を皮切りに、教育学的な切り口に限定されない研究も進み、御真影の視覚表象をめぐる問題を扱った業績が次々と発表される。その代表が、猪瀬直樹の『ミカドの肖像』 ※4と多木浩二の『天皇の肖像』 ※5 であろう。政治的な権力構造と視覚イメージとの関係を鋭く分析したことにより、御真影に対する多様なアプローチの可能性が見え始めた。
それを示すように、2000年以降も視覚表象をめぐる研究と教育学の両アプローチは継続的に行われ、昭憲皇太后の視覚表象(御真影含む)を分析した若桑みどりの『皇后の肖像』 ※6 や古写真研究の立場から明治天皇の肖像を図像学的に扱った倉持基の分析 ※7 、明治・大正・昭和期の御真影下賜・奉護に注目して近代天皇制と公教育との関係を扱った小野雅章の研究 ※8 が発表されている。とはいえ、大正天皇や昭和天皇の御真影にかんしてはまだ不明な部分も多く、より一層の研究成果が望まれるところである。
2000年以降のアプローチのなかでも、2007年に刊行された内藤正敏の『江戸・王権のコスモロジー』 ※9 は、写真の技術的観点から御真影の物質性を考察している点で、注目に値する。上記に示したこれまでの御真影研究は、ともすると教育史と視覚表象とに二分されてきたが、御真影がモノとしてどのように制作、下賜、配置、奉護されたかを改めて考察することで、ふたつの研究領域を接続させることが可能になるように思われる。すなわち、御真影の視覚表象と御真影下賜・奉護の研究を如何に結び付けていくのか、これが目下の課題のように思われる ※10 。そこで、今回の研究ノートではそのふたつを結び付ける紐帯として「モノとしての御真影」に着目する。議論を先取りするならば、御真影の物質性が明らかにするのは、写真を介した近代天皇制国家確立の用意周到さと困難さとを同時に示しているということだ。本稿では、筆者自身が今現在関心を向けていることを羅列的に挙げるにとどまるかもしれないが、今後の研究によって、これらが密接に結び付くよう展開していきたい。
2 御真影の奉掲位置
佐藤秀夫は『続・現代史資料8:教育―御真影と教育勅語Ⅰ』の解説文のなかで、明治・大正・昭和三代の天皇皇后両御真影の配置を比較した結果、大正天皇皇后の御真影から天皇皇后が互いに向き合うポーズになるよう工夫・制作されており、これが昭和天皇皇后の御真影にも踏襲され、「近現代天皇制『御真影』の一種の定型が成立した」と述べている ※11 。だが、向き合うポーズは果たして大正天皇皇后の御真影からだったのであろうか。
ここで注意すべきは、佐藤の取り上げた明治天皇皇后両御真影が明治22年に公布されたヴァージョン ※12 であるということだ(以後、明治22年の御真影と表記)。明治天皇皇后の御真影には、実はそれ以前の明治6年に公布されたヴァージョン ※13 が存在する(以後、明治6年の御真影と表記)。もちろん、佐藤もそのことを承知していたが、学校機関に広く下賜されたことを理由に明治22年の御真影を比較対象に選んだ。だが、相対的に数が少ないとはいえ、明治6年の御真影も学校機関に下賜 ※14 されており、比較対象になる資格は十分に持っているだろう。そして、もうひとつ注意すべきは、天皇と皇后の写真を左右どちらに配置するかという問題である。先の著作に掲載された各世代の天皇皇后両御真影を見てみると、全て「向って左に天皇、向って右に皇后」の写真を配置している。だが、この並びは明治時代から一貫していたわけではない。
明治32年1月11日に、文部大臣秘書官が明治天皇皇后両陛下御真影の奉掲位置にかんして、以下の文面で宮内省に照会している。
式場ニ 御聖影ヲ奉掲スルニ当リ向テ 天皇陛下ヲ右トシ皇后陛下ヲ左トスルハ古来ヨリノ慣例ト存候得共目下伺出ノ学校モ有之且後来一定ノ標準相定度候条一応御意見承知致度此段及御照会候也 ※15
「向テ 天皇陛下ヲ右トシ皇后陛下ヲ左トスルハ古来ヨリノ慣例」という記述は、左を右よりも優位とする思想を反映しているといえる。ということは、少なくとも明治6年と明治22年の御真影は、いずれも「向って右に天皇、左に皇后」という並びにしたがって制作されていた可能性が高いということである(図1、2)。その並びで明治6年の御真影を見るならば、和装立姿の皇后と洋装座姿の天皇というズレはあるものの、天皇皇后は見事に向き合うポーズになるように撮影されている。
図1 明治6年に公布された明治天皇皇后両御真影(出典:若桑みどり『皇后の肖像』。筆者により天皇皇后の並び順を逆にしている。)
図2 明治22年に公布された明治天皇皇后両御真影(出典:『続・現代史資料8:教育―御真影と教育勅語Ⅰ』より。筆者により天皇皇后の並び順を逆にしている。)
明治22年の御真影が向き合うポーズをとっていない理由は定かではないが、明治天皇の御真影がコンテ画の複写であること、皇后の御真影の撮影者が複数挙げられていること(鈴木真一と丸木利陽の両名が挙げられている)などといった、一貫した意思のもとで制作されているとは限らない事情もあったことは、考慮に入れるべきであろう。
さて、先の文部大臣秘書官の照会に対して、宮内省は明治32年1月12日に以下のように回答している。
両陛下御真影奉掲位置之儀ニ付本月十一日付甲第二〇号ヲ以テ御照会之趣了承右御位置之儀ハ右ヲ以テ 天皇陛下ノ御位(臣下ヨリ向テ左手ニ拝シ奉ル)致度此段及御照会候也 ※16
宮内省の思惑は不明だが、少なくともこの回答が示していることは、西洋式と同じく、天皇皇后両御真影の奉掲位置は「向かって左に天皇、右に皇后」という並びになることを意味している。このことを考慮するならば、大正天皇皇后の御真影において画期的であったのは、日本古来の格式で並んだ明治天皇皇后の位置づけを西洋式に逆転させ、服装と姿勢も洋装立姿に統一し、互いに向かい合うことを想定しながら、用意周到に天皇皇后を個別撮影しているということである(図3)。こうした「統一感」に対して、佐藤は「封建的な夫唱婦随的なるものから夫婦同伴的な近代家庭像の印象を打ち出し、(中略)家族主義的に臣民を『見守る』、威厳と慈愛とに充ちた天皇家という構図になっている」 ※17 と述べる。それは、明治期以上の徹底した西洋近代化の現れのひとつと言えるかもしれない ※18 。この形式は、その後の昭和天皇皇后の御真影にも引き継がれ、終戦にいたるまで近代天皇制国家を支える大きな柱であり続けた(図4)。
図3 大正天皇皇后両御真影(出典:『続・現代史資料8:教育―御真影と教育勅語Ⅰ』より)
図4 昭和天皇皇后両御真影(出典:『続・現代史資料8:教育―御真影と教育勅語Ⅰ』より)
3 御真影の変色
御真影の物質性が顕著に現れるのは、奉掲位置に限らない。御真影の奉掲位置が政府の用意周到さを示していたとすれば、本節で取り上げる問題は、むしろその物質性によって政府が如何に振り回されていたのかを見ていくことにする。その問題とは「変色」という現象である。もちろん、政府にとっては他にも予想外の出来事はあり、火災や津波による御真影の消失や盗難など外的要因による「事故」も同時代に起こっていた(その対策として奉安殿の設置や教師の宿直制度などが定められた ※19 )。だが、本節では写真の生成過程に内在する問題として変色現象に注目したい。
明治27年、沖縄県知事は宮内大臣に宛てて、以下の内容の上申書を提出した。
御真影下賜之義ニ付上申
本県尋常師範学校及同中学校ヘ奉安致居候 御真影ノ義ハ僅々数年前ノ御下賜ニ候得共(師範学校明治廿年下賜、中学校明治廿二年下賜)当県ハ湿気至テ強ク之ガ為メ最早著ルシク変色ヲ来タシ候間今般更ニ両校ヘ御下賜相成候様致度此段上申候也
明治廿七年五月廿一日
沖縄県知事 奈良原 繁 ※20
上記の文面によれば、明治20年と22年に教育機関に下賜された御真影がわずか数年のうちに、湿気の影響で「著ルシク変色」してしまったことを報告している。明治天皇皇后の御真影は、当時一般的であった鶏卵紙で制作されていたと考えられるが、鶏卵紙は必ずしも褪色に強いわけではなかった。近代天皇制国家を盤石なものにする過程において、変色という現象は思わぬ落とし穴であったと言える。
では、モノとしての御真影が否応無く被ってしまう「変色」に対して、どのような対応がなされたのか。内藤正敏は写真史家の小沢健志や写真家の師岡宏次の言も参考にしながら、大正天皇と昭和天皇の御真影における支持体の変遷に注目する。内藤によれば、小沢の言では、大正天皇の御真影はガスライト紙で、昭和天皇の御真影はカーボン印画で制作されたとするのに対し、師岡の調査では大正天皇の御真影はカーボン印画で制作されていたという。意見の食い違いはあるものの、御真影の支持体が鶏卵紙からカーボン印画へと変更されていったことが認められる。鶏卵紙と比較したカーボン印画の特徴は、「顔料に純粋なカーボン(炭素)を用いると、化学的に最も安定した物質なので、半永久的に耐久性がある」 ※21 点であり、内藤はこの耐久性こそが御真影にとって必要不可欠な要素であると考えた。
カーボン印画による永久不変色化は、「万世一系、天壌無窮」の天皇制国家の思想を化学的に強化し、御真影の呪力を決定的に高めることにほかならなかった ※22。
変色という現象は、写真といえども天皇皇后の尊顔に傷をつけてはならないという禁忌的感覚だけでなく、永遠不変に続くとされる天皇家の血統が「褪せる」という思想上の危機までも引き起こしかねない憂慮すべき問題であった。上記にみられるような内藤のカーボン印画評価も裏を返せば、変色現象が少なくとも大正天皇の時代までは満足に解消されていなかったことを示している。その意味で、写真は近代天皇制国家にとって良き仲介者であり、かつ敵対者でもあったと言えよう。
以上、御真影の奉掲位置と写真の変色現象に注目することで、近代天皇制国家と写真とのあいだの緊張関係をみてきた。モノとしての御真影は、政府が写真というメディアを周到に利用しながらも、一方でそのメディアに如何に振り回されていたのかを明らかにする。今後の研究では、大正天皇や昭和天皇の御真影にも焦点を当て、明治・大正・昭和の三代にわたる視覚表象と近代天皇制国家の関係を、写真の物質性にも留意しながら考察していくことにしたい。
調文明(東京大学大学院)
※1 佐藤秀夫「解説」『続・現代史資料8:教育―御真影と教育勅語Ⅰ』みすず書房、1994年、5頁。
※2 山本信良・今野敏彦『近代教育の天皇制イデオロギー:明治期学校行事の考察』(新泉社、1973年)、山本信良・今野敏彦『大正・昭和教育の天皇制イデオロギーⅠ:学校行事の宗教的性格』(新泉社、1976年)、佐藤秀夫「天皇制公教育の形成史序説」『季刊現代史』(現代史の会、冬季8号、1976年12月)、籠谷次郎『近代日本における教育と国家の思想』(阿吽社、1994年)など。
※3 師岡宏次「天皇皇后陛下の写真〈御真影〉の研究」『カメラレヴュー』31号、朝日ソノラマ、1983年10月号。
※4 猪瀬直樹『ミカドの肖像』小学館、1986年。
※5 多木浩二『天皇の肖像』岩波新書、1988年。
※6 若桑みどり『皇后の肖像:昭憲皇太后の表象と女性の国民化』筑摩書房、2001年。
※7 倉持基「明治天皇写真秘録」『英傑たちの肖像写真』渡辺出版、2010年。
※8 小野雅章「天皇の肖像写真(御真影)と学校との関係史研究」平成22年度日本大学学位論文。
※9 内藤正敏『江戸・王権のコスモロジー』民俗の発見III、法政大学出版局、2007年。
※10 拙論「御真影と『うつし』」(林田新・森山貴之編、展覧会カタログ『かげうつし―写映・遷移・伝染―』京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA、2013年)では、遷都、御真影複写、御真影奉迎式などといった様々な「うつし」を介して、天皇と臣民の関係が自然化されていくことについて論じた。
※11 佐藤秀夫「解説」、8頁。
※12 明治6年の撮影から15年が経過し、天皇の相貌も変化して、新たな軍装も制定されたため、天皇の姿を改めて撮り直す必要が出てきた。しかし、明治天皇は写真を嫌い、撮ることが困難になってしまった。そこで、明治21年に大蔵省印刷局のイタリア人版画家エドアルド・キヨッソーネに命じて、天皇行幸の際にこっそりスケッチさせ、それをもとにコンテ画を制作させた。さらに、東京の写真師丸木利陽がキヨッソーネの指導のもとに、コンテ画を複写し、数日をかけてその複写を「写真」に仕上げた。皇后の御真影も明治22年に制作されたが、写真師の鈴木真一(二代目鈴木真一を襲名した岡本圭三のこと)と丸木利陽によって、洋装姿の皇后が撮影されている。
※13 明治5年、宮内省は当代随一の写真師内田九一を天皇の公式写真の撮影者に選び、和装姿の天皇と皇后(数か月後に皇太后も)を撮影させた。翌6年、天皇が自ら断髪宣言をしたため、新たに撮影する必要が生じ、内田は三度宮中に召し出され、洋装姿の天皇を撮影した。この洋装姿の明治天皇と和装姿の皇后の御真影が以降、下賜されることになる。
※14 東京開成学校(明治7年下賜)、大坂中学校、東京師範学校、東京女子師範学校(共に明治15年下賜)、華族女学校(明治18年下賜)、第一高等中学校(明治19年下賜)、第五高等中学校、沖縄県尋常師範学校、東京府尋常師範学校、尋常中学校(共に明治20年下賜)などが挙げられる。詳しくは、『続・現代史資料10:教育―御真影と教育勅語3』(みすず書房、1996年)を参照。
※15 『続・現代史資料8:教育―御真影と教育勅語Ⅰ』みすず書房、108頁。
※16 同、108~109頁。
※17 佐藤秀夫「『御真影』再考」『歴史書通信』no. 110、歴史書懇話会、1997年1月、3頁。
※18 天皇の服装にも違いが見受けられる。明治天皇の御真影も昭和天皇の御真影もいずれも、大綬を右肩から左脇にかけて佩用しているのに対し、大正天皇の御真影のみが大綬を左肩から右脇にかけて佩用している。明治8年に初めて制定された当時の日本の勲章制度において、この方式を採用している勲章は功一級金鵄勲章のみである。金鵄勲章は1890年の紀元節(2月11日)に明治天皇の詔勅により設けられ、武功を挙げた軍人にのみ贈られた勲章である(戦後廃止)。大正天皇の御真影が撮影された大正3(1914)年は、世紀転換期の日清・日露戦争という大きな対外戦争を経て、第一次世界大戦が勃発する年であり、日本の「外部」をより一層強く意識する年でもあった。その意味で、大正天皇が功一級金鵄勲章の大綬を佩用している姿は、西洋列強国に武力で対峙する日本の姿でもあったと言えよう。ただし、大正天皇の御真影にかんしては未だはっきりと分かっていないことも多く、功一級金鵄勲章の大綬をかけた大正天皇の御真影が、教育機関等に下賜された御真影であるかどうかは一考の余地があるだろう。勲章の歴史にかんしては、那珂馨『勲章の歴史』(雄山閣、1973年)、栗原俊雄『勲章――知られざる素顔』(岩波新書、2011年)などを参照。
※19 教育現場と御真影の関係については、岩本努『「御真影」に殉じた教師たち』(大月書店、1989年)を参照。
※20 『続・現代史資料10:教育―御真影と教育勅語3』みすず書房、1996年、410頁。
※21 内藤正敏、2007年、20頁。
※22 内藤正敏、2007年、24頁。