第7回研究発表集会報告 | ミニシンポジウム |
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以上のイメージの権利をめぐる三つの時代の報告に対し、フロアからは「誰のものか」という所有権として語られる権利の他に、そのような既存の権利概念からは抜け落ちてきた「イメージ自身が有する権利」という概念があるのではないか、という疑問が提起された。加治屋氏の報告にあるような、主体的な創作という概念の解体や、作家自身による著作権の放棄は、作家の所有から独立して存在するイメージという概念を導くことになるだろう。旧来の著作権とは別に、そのようなイメージ自体の権利について考えることが、今必要とされているのではないか。
またこの「イメージ自身が有する権利」に関連して、何をもってイメージ自身の権利の保障と定義するのかも議論の俎上に上った。オリジナルの状態を保つこと(不当な改変から保護すること)をイメージの権利の保護と見なすべきなのか。むしろ自由な増殖を容認ないし促進することが、イメージ自身の権利に繋がるのか。
橋本氏はこのような問いに対し、イメージを使用する際に感じる「おこがましさ」に言及しながら、イメージの作者になる=イメージを所有するのではないやり方で、イメージと関わることの重要性を指摘した。写真というメディアが有する、撮影者あるいは被写体に帰属しきることのない所有権のはざまの部分に、あるいはこのようなイメージ自体の権利の領域と呼ぶべきものを仮構することができるのかもしれない。
橋本氏の発言を受けて森元氏は、書物は所有不可能であるが絵画は所有可能であるとしたローマ法を例に、テクストの引用可能性に対して、イメージは長い間そのような操作の対象とは見なされていなかったことを指摘した。現在PC上で容易に画像のコピーや加工、編集といった操作が可能になったことによって、われわれはテクストのように引用可能になったイメージという問題に直面しているのである。
加治屋氏は、イメージとはそもそも他者に向けられたものであり、流通を前提としているという観点から、この他者とのコミュニケーション可能性を保つことこそが、イメージ自体の権利の保障になるという立場をとった。氏によれば、新たな創造の機会を生み出すためには、われわれの慣習的なイメージへのリスペクトとは別に、このようなイメージ自体のコミュニケーションの権利を仮説的に設定することが重要となるのである。
討議の中で岡田氏が指摘したように、今回のシンポジウムの中では、バルトらによる「作者の死」をめぐる議論は、一度も話題に上らなかった。これは現在の状況が、はるかにその先へと進みつつあることの証左とも言えよう。今回主たる問題となったのは、いわゆる芸術作品(と写真)だったが、たとえば現在のサブカルチャーの世界では、作者の所有権を離れて野良化したイメージがそこかしこに氾濫している。既に各所で論じられているように、ゼロ年代にヒットした一連のボーカロイド楽曲やMMD(ミクミク・ダンス)動画、既存の映像・音楽の接合によって制作されるMAD系動画、あるいは東方Projectやヘタリアなどの作品では、人気を支える主体となったのは、オリジナルのコンテンツを素材として派生したいわゆる二次(X次)創作だった。これら二次創作においては、作者・原作へのリスペクトはあくまで根強いものの、オリジナルとの関係はもはや絶対的ではなくなっている。オリジナル自体が別のコンテンツの二次創作である、あるいはオリジナル自体が二次創作を前提としたデータベース提供的役割を担っている場合も珍しくない。さらにこれらの二次創作の多くには、ニコニコ動画やピクシブを通して無償でアクセスできる。同人誌の販売も含む市場の流通形態にすら、則ってはいないのである。
従来の著作権や版権のみならず、部分的には市場原理からも抜け落ちてしまうようなこれらの現象こそ、自立したイメージという概念を最も鮮明に反映していると言っても過言ではないだろう。誰にでも利用可能なイメージ編集ツール、そしてインターネットという新しいメディアの出現によって、旧来の芸術概念に基づくオーサーシップやコピーライトといった概念は、今後どのように・どの程度問い直されていくのか。今回のシンポジウムは、過去の事象を通して現在のイメージの権利をめぐる問題の所在を確認し、次なる議論のための枠組みを用意したと言えよう。
本田晃子(北海道大学)
【シンポジウム概要】
著作権をめぐる近年の動向は、イメージを扱う研究者にとっても決して無縁のものではない。権利上の問題により、論文等への図版の掲載を断念せざるを得ないという経験は、多くの研究者が日常的に味わっていることだろう。主として営利目的の場面を想定して整備されてきた法や制度に、現状では研究者は一方的に従うことを余儀なくされている。しかしながら欧米の学会などにおいては、イメージの利用についての独自のルールを作成し、ステートメントを公表しているところも少なくない。表象文化論学会もまた、そのようなステートメントを出すか否かの判断を迫られる日が、遠からず訪れるのは間違いないだろう。本シンポジウムは、そのための準備として、個々の具体的な場面に立ち入るよりも前に、まずは歴史的・哲学的な観点から、「イメージ」と「権利」の関係を問いなおすことにより、議論の土壌を整えることを目指す。森元は、イメージに関する規範形成を考えるにあたって範例となる思想史的場面のいくつかを確認しつつ、翻って権利と侵犯の境界が自明性を失う地点を問題化する。橋本は、19世紀において写真の著作権が初めて問題とされた際の議論を手がかりに、「著者」や「作品」という概念が、そこでいかなる変容を迫られたのかを考察する。加治屋は、現代美術の分野で「著者」や「作品」の概念がゆらぐ事例を検討して、今日のイメージのあり方を考察する。