第7回研究発表集会報告 | ミニシンポジウム |
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続いて橋本一径氏は、新たなメディアとしての写真の出現が、オーサーシップやコピーライトに与えたインパクトを取りあげた。
写真の誕生前夜のフランスでは、書物や音楽、絵画といったいわゆる芸術作品は、それらが「精神・想像力・才能の果実」であるという曖昧な理由によって、作者の所有権に属するものとされていた(1810年刑法)。では、法によって保護されたこれら芸術というカテゴリーに対して、写真の権利はどのように位置づけられたのだろうか。
そこで橋本氏が指標とするのが、いくつかの写真をめぐる裁判の判例である。たとえば無許可での写真の複製を告発した裁判(1862年)では、まさに写真には著作権が存在しないという理由によって、訴えは棄却された。作家の想像力や知性の産物である「芸術」に対して、機械によって生産される写真は「産業」に属するものと判断されたのである。この背後には、写真は対象を文字通り機械的に再現するのに対して、芸術においては作者の解釈が主要な役割を担うという、現代まで連綿と続く考え方が存していた。
しかしここで、疑問が生じる。ある建物を描いた絵が、それを描いた画家に帰属するのは明白だとして、では同じ建物を撮影した写真は、いったい誰に帰属することになるのか。まさにそのような事例として橋本氏が次に挙げたのが、万博パヴィリオンの写真の無断複製をめぐる判決(1855年)である。ここでは、被写体となった建築物が公共のモニュメントであったことを根拠に、それを写した写真もまた公共のものであるとして、写真家の著作権はやはり認められなかった。
とりわけ被写体が人間である場合、事態はさらに複雑化する。そこには肖像権という、今日も紛糾の絶えない問題が介在するからである。橋本氏はその一例として、1858年に行われた民事裁判を取りあげる。そこでは死者の肖像写真の無許可の複製に対して、違法の判決が下された。写真はそれを撮影した写真家にではなく、被写体(人物、この場合は故人の親族)に属するものと判断されたのである。
このように19世紀には芸術にカテゴライズされることなく、それゆえに著作権の認められていなかった写真であるが、写真によって生計を立てる人口が増大していくとともに、彼らの利益を保護する必要性も高まっていった。その結果として、写真家の独創性が認められたものに限って、写真にも著作権が認められるようになるのである。しかしそれは、あくまで古典的な芸術の概念に、写真が包含されることによってであった。橋本氏によれば、写真の出現は、それまでの「芸術」の曖昧で同義反復的な定義が問い直される契機にもなり得るはずであった。けれどもこれら著作権をめぐる判決では、結局その可能性は看過されたのである。
氏は最後に、これらの判例とは反対に、写真は芸術の定義にも、したがって芸術をめぐる著作権の概念にも、けっして完全には収まりきらないメディアであることを強調する。肖像権の問題のように、そこにはやはりタブローにはない、それゆえに現在まで議論の続く問題が含まれているのである。
三人目の報告者である加治屋健司氏は、1960-70年代のモダンアートにおける著作権や作品の概念の揺らぎの問題をとりあげた。
氏がまず挙げるのが、アンディ・ウォーホールとロバート・ラウシェンバーグの例である。両者ともに、他者の撮影した写真を許可なく自らの作品に用い、時に写真家自身から訴えられもした(ただし二人とも示談で解決しており、橋本氏の報告のように司法の場における判断は行われなかった)。加治屋氏が注目するのは、彼らが無許可の写真の利用に対して罪の意識をもっていなかっただけではなく、他人が彼らの作品を無許可で利用することに対しても寛容であったという点である。
著名な美術作品の模倣(贋作)によって知られるアーティスト、エレーヌ・スターテヴァントとのエピソードから、氏は二人の著作権に対する姿勢を描き出す。ウォーホールは彼女に自らのシルクスクリーンを提供し、スターテヴァントが彼の作品を模倣するのを助けた。他方ラウシェンバーグは、ジャスパー・ジョーンズのタブローを用いた自らの作品からジョーンズの絵が盗まれたとき、そのコピーの作成をスターテヴァントに依頼した。
このような著者性に対する柔軟かつ多孔的な思考には、自主的なオーサーシップの否定も含まれる。その例として加治屋氏は、自らの作品から「美的な質と内容」を引き揚げることを宣言したロバート・モリスや、裁判によって自らの作品を取り返した挙げ句廃棄してしまうフランク・ステラ、展覧会のために勝手に再制作されたインスタレーション作品を、自らの作品と認めない広告を打ったドナルド・ジャッドらを挙げる。
他にも、展示環境の偶然性に依存した作品や、作家自身が直接制作を行わない作品、観客の参加によって成立する作品、それ自体で完結することのないアート・ドキュメンテーションなど、現代美術における作品の意味や形態、定義は、よりフレキシブルなものへと変化しつつあり、作家という主体もますます拡散し続けている。加治屋氏はこれを「コンティンジェンシー(偶然性・偶有性)」と名付け、このような現象の背後には、いわゆるオーサーシップへの批判ではなく、アート自体が持つ偶然性への関心の高まりがあったと述べる。
最後に、このような旧来の作家・作品観念を切り崩していくコンティンジェンシーは、アートに限定されるものではないと氏は主張する。イメージが様々なフォーマットの中で瞬時に流通・拡散していくネットワーク空間こそ、コンティンジェンシーという問題が最も先鋭に現出する現場に他ならない。氏はこのように、イメージのコンティンジェンシーという問題を、メディアを超えた問題として考察する必要性を提示し、報告の結びとした。