研究ノート 林田 新

かげうつし
林田 新

2012年11月3日から25日にかけて京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAを会場として展覧会「かげうつし——写影・遷移・伝染——」が開催された。筆者が企画者として関わったこの展覧会には、出展作家として加納俊輔、高橋耕平、松村有輝、水木塁、水野勝規の五人の作家が参加していた。彼らは、版画、漆工、彫刻というようにその出自は異なれども、多かれ少なかれ写真やヴィデオといった映像メディアを用いて制作を行っている。彼らの作品は、例えば、かつて写真を論じる際に用いられたような、作家の内面を写す表現としての「鏡」と世界に開かれた記録としての「窓」という、二元論的な喩えでは捉えられないような豊かな広がりを見せている。

松村有輝は、破壊という偶発的・一回的な出来事によって形作られたオブジェを人為的に反復する。ヌード写真を握りつぶした際に生じる偶発的な紙の形を長方形の鉄板を手作業で折り曲げてうつしとったり、あるいは、ひしゃげたロッカーの扉をやはり力づくでその形を隣の扉へとうつしとったりする。一見するとそれぞれのオブジェは類似しているように見えるものの、しかし、手作業による成形ゆえ、よくよく見るとそれぞれの形は全く異なっている。松村の作品が私たちに提示するのは、一回的な出来事が反復されていることの奇妙さであり、私たちがそれらに対して類似性を認めてしまうことの奇妙さなのである。加納俊輔の作品は、一見すると単にテープを貼っただけの大理石や木板に見える。しかし、よく見てみるとその表面には全面に写真が貼付されている。加納は、シールやテープを貼ったり、あるいは物を置いたりした大理石や木板の表面を撮影しその写真を大理石や木板に貼付したうえで、さらにその表面を加工し撮影・貼付する。表面の撮影と撮影された写真の表面への貼付を繰り返し行うことで、観賞者は、物質とイメージの境界をかき乱されるとともに、物質・イメージの中に閉じ込められた時間の堆積を見いだすのである。水木塁は意図的な照明の配置によって観賞者の影を作品へと写り込ませる。彼自身のセルフ・ポートレートを見ようと観賞者が作品に近づいていくと、観賞者自身の影が写真の中の水木の姿に重なり合ってしまう。また、壁面には巨大の星空の写真が、その向かいには巨大な波打ち際の写真が展示されている。星空と波打ち際といった全く異なった対象を写したこれら二枚の写真は、しかし、よくよく見ていると、上下逆さまにされた同じ写真なのである。水木の作品は、見る物の身体・視覚に応じて見え方が変化していくのであり、それを通して観賞者は静止画であるはずの写真のうちに可変的なうつろいを経験する。高橋耕平は、映像内の自分自信を叱責したり、あるいは映像内の自分から叱責されたりする自分の姿を撮影したうえで、映像内の自分と映像内映像内の自分の発言・仕草をそれぞれ模倣し、さらにその自分自身の姿を撮影する。ゆえに観賞者が目の当たりにするのは、三層にわたって繰り広げられる三人の高橋耕平の対話なのである。映像内と映像内映像と映像内映像内映像という入れ子的な構造を通じた自己の対象化と自己の自らへの憑依を通じて、高橋は映像化された自分が、自分でありながら他者であるという両義的な性格を顕在化させ、それを見る者に突きつけてくる。水野勝規は、木々が反射する水面を定点カメラで撮影する。水面に映る風にざわめく木々や、水面自体の揺らめきによって静止画と動画の狭間を往来するような映像を、水野はプロジェクターで壁面に投影し展示する。のみならず水野は、暗い部屋の中で壁面へと投影される木々が反射する水面の映像を光沢のある会場床面へと写り込ませるのである。このように、彼らの作品は、オリジナル/コピー、単一性/複数性、物質/イメージ、一回性/反復、特異性/類似性、同一性/相違性、自己/他者、固定/変化、実像/虚像といった区分を往来し、その境界に動揺を強いるような架橋的・越境的な特徴をもつ。展覧会タイトルとしてこうした彼らの作品の傍らに添えたのが「かげうつし」という言葉である。

「うつし/うつす/うつる」という日本語は、そこに漢字を当てはめてみると、〈写し〉、〈映し〉、〈遷し〉、〈移し〉、〈顕し〉、〈現し〉、〈伝染し〉と様々に表記可能であることからもわかるように、極めて豊かな意味をその内に含んでいる。それは、二つの空間・時間・事物・身体・状態の間を架橋することの謂いであり、ときにそれは、〈顕し/現し〉、つまりは「顕現」というように、不可視なものと可視的なもの、あの世とこの世、不在と存在にかけての移行をもそのうちに含む。また「かげ」という言葉も同様にこうした架橋的な性格をもつ。それは、光が遮られた暗い部分、物事の表面にあらわれてこない裏面を指す。と同時に、光や発光体、目に映るものの姿形、鏡や水面などに映る色や形でもある。それは一方で「真影」というように肖像であり、他方で幻影・霊魂でもある。影の響きである影響は過去を引きずることもあるし、ときに、未来に投影されることもある。

「かげうつし」と聞いて、こんな遊びを思い出す人も多いだろう。晴れた日に自分の身体の影をそれぞれ地面に映し、その影の輪郭を誰かになぞってもらう。次に、別の人の影の輪郭に自分の影をあてはめてみる。すると、体の大きさによって影の大きさもそれぞれ異なるがゆえにうまくいかない。しばらくした後、今度は自分の影の輪郭に改めて影をあてはめてみる。すると、自分のものであったはずなのに、影が動いてしまっていてうまくいかない。まさに「かげうつし」と呼ばれるこの遊びが教えてくれるのは、何よりもまず、時間の移り変わりによって、自らの影が映る場所が移っていく、という光学的・時間的・空間的な影のうつし(映し・移し)である。加えて、この遊びを興味深いものにしているのが、地面に描かれた型を模倣して、自分/他人の影の輪郭に自らの影をあてはめようとする試みである。その試みが教えてくれるのは、〈わたし〉の影はあくまでも〈わたし〉と結びついており、〈あなた〉とは決して共有できないということである。しかしその一方で、かつて・あった〈わたし〉の影の痕跡にいま・ここに映る〈わたし〉の影を重ね合わせようとしてもそれはもはや叶わない。その影は〈わたし〉から決定的に切り離された他者として余所に移されてしまったのである。

「かげうつし」遊びにおいて経験される、同一性と他者性の狭間をうつろう影の在り方は、いわゆるドッペルゲンガーに似ている。江戸時代の文学者、只野真葛(1763‐1825)は、『奥州ばなし』の中で次のような逸話を紹介している。北勇治という人物が帰宅すると、机に向かう男の後ろ姿が見えた。髪の結い方や着衣までもが自分と同じなので不思議に思い近づいていくと、少し開いていた障子をすり抜けて外へと逃げてしまった。あわてて追いかけると、もはやその姿は何処にもなかった。そのことを母に伝えたところ何も言わず押し黙ってしまった。そのすぐ後、勇治は病に臥せ、その年の内に亡くなってしまった。「是迄三代、その身の姿を見てより、病つきて死たり。これや、いはゆる影の病なるべし。祖父・父の此病にて死せしこと、母や家来はしるといへども、余り忌みじきこと故、主にはかたらで有し故、しらざりしなり」。ここで語られているのは、自らと共にあるはずの御霊(かげ)が他の場所に移ってしまい、それを目撃してしまうという、いわゆる離魂病であり、それが影の病と呼ばれているのである。そのように考えるとき、写真術photographyが日本に移入されて間もない頃、印影鏡や留影鏡と訳されたことや、写真に撮られると魂を吸いとられてしまうという当時の人々の驚きと恐れが理解される。影の病がごとく写真には像主の影(魂)が移され、そこに留まっているからである。

今日において映像という言葉はもっぱら写真・映画・ヴィデオといった、テクノロジーを介して生成する像の総称として用いられている。しかし、坂本浩「「映像」という言葉の成立」(『映像学』第62号、1999年5月)によると、映像という言葉は「image」の訳語として考案されたのが最初であったという。映像という言葉の初出は『物理日記』(明治7年)で、広く光学的な像一般を意味する物理学の専門用語として創案されたのである。国語辞典『大言海』で「映す」の語をひくと「影ヲ移ス」とある。その意味において映像とは、移された影に他ならない。

「かげうつし」展では、上述した作品のみならず展示室の一角に「かげ」を「うつす」ことに関する資料展示を行った。そこには「うつし」に関する文献の複写や、様式の変遷を図示した樹形図、日本初の心霊写真の図版資料、ウイルスの伝染や、それをヴィデオの複製に喩えた映画『リング』のヴィデオを展示した。「かげうつし」とは、決して美術的な映像表現に留まることはない。本展で試みたのは、昨今広く用いられている映像という言葉を「かげ」を「うつす」ことへとパラフレーズし、その言葉を様々な映像の傍らに添えることで、映像についての常識的な認識を揉みほぐし、新たな映像の在り方の発見へと開いていくことなのである。

林田新(同志社大学)

展示風景(松村有輝)

展示風景(加納俊輔)

展示風景(水木塁)

展示風景(高橋耕平)

展示風景(水野勝規)

撮影:豊永政史