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国際シンポジウム「デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉」
情報学環『デジタル・スタディーズ討議 2016』
デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉
日時:2016年3月12日(土)・13日(日) 会場:東京大学本郷キャンパス 福武ホールB2(福武ラーニングシアター)
「夢を見る」という言葉には大きく二つの意味がある。一つは、未来への主体的な投企。プロ野球選手になりたい、ノーベル賞を取りたい、という将来の「夢」を思い描く想像的な行為だ。もう一つは、睡眠中の意識現象。こちらには明確な主体性はない。見る夢を選択することは基本的にはできず、脳の生理現象によって、夢は受動的に見させられる。言い換えるなら、「ヒューマン」の領域における夢と、「ポスト・ヒューマン」ならぬ「インフラ・ヒューマン」とでも呼ぶべき生物学的領域における夢である。
2016年の3月12日(土)、13日(日)の2日間にわたって開催されたシンポジウム『デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉』が照準を合わせていたのは、「夢を見る」ことのこの二つの側面だ、と言える。その議論の前提となるのは、そのシンポジウムタイトルに明記されているように、デジタル・テクノロジーがもたらした新たな環境だ。デジタル・テクノロジーは、未来を想像するという行為をさまざまなレベルで媒介するだけでなく、ジョナサン・クレーリーが『24/7』で描き出したように、人間の睡眠という領域にまで介入しそれを管理下に置くことさえ可能とする。そしてこの新たな可能性をめぐって、さまざまな「権力」が作動している。この現状をどう捉えるのか、これがシンポジウム全体の問いであると言えるだろう。
アプローチは二つ。やや単純化してしまうことになるが、「デジタル現象とメタ美学」をテーマに掲げた初日は、アートだ。人間にとっての「現象」がデジタルに媒介され始めることで出現する、「デジタル現象」をめぐる作品を数多く生み出してきた藤幡正樹とフォルマント兄弟。この二組のメディアアーティストを軸として、記憶や自己像、さらには内的生としての声さえもがデジタルに再構成/合成しうる状況への創造的介入の実践を手がかりに、まさに出現しつつある新たな美学=感性学の条件が探求された。そして「ハイパー・コントロールと自動化社会」をテーマに掲げた2日目は、理論だ。その出発点となっているのは、そのテーマ設定のうちに明らかなようにジル・ドゥルーズのコントロール社会論である。デジタルベースのアルゴリズムが社会および人びとの生を管理=制御する現代の資本主義において、欲望もしくは欲動としての夢と権力はいかなる配置を取っているのか。現代フランスを代表する哲学者であるベルナール・スティグレールや韓国における記号学の第一人者であるキム・ソンドをはじめとして、社会学、映像論、メディア論、コミュニケーション論などのさまざまなフィールドから、ネゲントロピー、感染、カタストロフィー、情動といったキーワードをめぐって活発な議論が交わされた。
石田英敬による導入講演のなかで触れられていたように、アートおよび理論という二つのアプローチを通して目指されたのは、デジタル時代における「批判」の復権である。デジタル・テクノロジーとともに出現しつつある新たな事態を知の対象とするためには、知の基盤そのものをデジタルを前提として書き換えていかなければならない。基調講演者の一人であるベルナール・スティグレールが提唱するデジタル・スタディーズのこのような問題意識を共有しつつ、多様な論者、クリエイターの視点が交差し新たな「批判」の可能性を探ったこの2日間は、この危機の時代における一つの出発点になるはずである。(谷島貫太)