第11回大会報告 パネル5

第11回研究発表集会報告:パネル5:神話と共同体──ジャン=リュック・ナンシーの近著『本来的に語ると──神話についての対談』を中心に|報告:乙幡亮

日時:2016年7月10日(日)14:00 - 16:00
会場:立命館大学衣笠キャンパス 以学館25号室

神話と政治──ジャン=リュック・ナンシー『本来的に語ると』が照射する共同体の可能性
市川崇(慶應義塾大学)

「新たな神話」新論──あるいは「途絶」のやり直し
柿並良佑(山形大学)

神話表現論の系譜──ニーチェ、バタイユ、ナンシー
酒井健(法政大学)

【コメンテーター/司会】渡名喜庸哲(慶應義塾大学)

本パネルのスプリングボードとなったフランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシーの近著『本来的に語ると—神話についての対談』(2015)は、フランスの哲学者・精神分析家マチルド・ジラールとの対談形式で著された書物である。本著で彼が自らの活動を振り返る際に通奏低音としてあったのは、副題にも見られる通り「神話」の問題であった。ナンシーは神話の性格を規定するにあたって、神話とは「アレゴリー(寓意)」ではなく「トーテゴリー(自意)」(=「同じ−話すことtaut−agoreuein」)であるというシェリングの議論に着目する。この規定が示すように神話とは常に自らの起源を自らで語るものであるのだが、ナンシーにとってこの自己創発的な力を伴った神話は、共同体ならびに共同体の措定の問いと不可分なものとして思考されていることに留意する必要があるだろう。

本パネルでは、そうした神話と共同体の関わり合いの問題を軸に、政治(市川氏)・文学(柿並氏)・言語(酒井氏)といった様々な角度からナンシーのこれまでの仕事の再検討がなされた。また発表に先立って、司会兼コメンテーターの渡名喜庸哲氏による『本来的に語ると』の内容、および関連著作の簡潔な紹介がなされ、全体の見通しが与えられたことも付言しておきたい。

市川崇氏の発表では、『ナチ神話』(1980)、「途絶した神話」(1986)、『否認された共同体』(2014)という主に三つのナンシーのテクストの読解を通じて、『本来的に語ると』にまで至るナンシーの神話をめぐる思考のプロセスが分析された。まず80年代のナンシーの神話論が「トーテゴリーとしての神話」と「同一化を可能にするミメーシスとしての神話」という二つのモティーフのもとに整理され、そこから近年のナンシーにおける神話解釈の修正およびそれに伴う共同体観の変容が焦点化された。そしてこの修正ないし変容を見定めるうえで補助線として引かれるのが、ブランショの『明かしえぬ共同体』への応答として書かれた『否認された共同体』である。バタイユをめぐるナンシーとブランショの応酬の争点をおさえつつ市川氏が述べるところによれば、ナンシーはそこで、ブランショが提示する「なにものにも規定されない無名の共同体」のうちに共同体を(再)神話化する身振りを看取するとともに、ブランショの批判に応じる形で政治の再定式化を行っているという。そこから、こうした政治の再定式化を通じて、ナンシーは存在論的な位相での共同性と「現実の」政治の理説関係の明示、あるいは文学が引き受ける神話的なものと政治との差異の明確化を行っているのではないかと指摘された。

続く柿並良佑氏の発表は、70年代のドイツ・ロマン主義論から近年の「キリスト教の脱構築」まで幅広いテクストに目配せしつつ、ナンシーの神話論をとりわけ文学との関係から読み解くものであった。冒頭で、ドイツ・ロマン主義の企図は新たな神話としての文学を創出することにあった、という『文学的絶対』(1978)におけるナンシー、ラクー=ラバルトの記述が確認された後、「神話の途絶」の問題へと議論が進められる。柿並氏によれば、『本来的に語ると』において「神話の途絶」の再定義が行われており、そこでナンシーは途絶が単なる「停止」ではなく「中断の運動」であることを強調しているという。さらに近年のナンシーにおける神話論を考察するにあたって検討されるのが、「キリスト教の脱構築」シリーズ第2巻にあたる『アドラシオン』に補遺としておさめられた「フロイト──いわば」という小論である。「欲動理論は、いわば我々の神話学である」というフロイトの言葉を引きつつナンシーが評価するのが、非宗教的な物語としての神話の発明者=フロイトである。つまりナンシーによればフロイトの欲動論とは何か隠されたものを発見する類のものではなく、我々を駆り立てるような力について語ることで物語を発明することであったのだ。こうした議論から、かつて批判的に言及されていた神話を、ナンシーは別の仕方で紡ぎ直そうとしているのではないかと示唆された。

最後の酒井健氏の発表では、ニーチェ、バタイユというナンシーに多大な影響を与えている思想家からナンシー自身まで連なる神話表現論の系譜が辿られた。神話やレトリックを積極的に評価していく「レトリック講義」などにおける初期のニーチェ、そのニーチェを批判しながら、錯乱した断章を書きつけるバタイユ、彼らに共通する問題意識とは、合理的な言語体系が生じるより以前の地平を開くこと、それによって新たな共同体を構成していくことにあった。ナンシーにおいてこの問題系は、意味作用/意味、語られたこと/語ること、神話学/神話という区別化の中で俎上に載せられることになる。発表では、以上のような見取り図が与えられたのち、酒井氏の専門であるバタイユとナンシーの関係についてより踏み込んだ解釈がなされた。氏によれば、バタイユには、大きな物語(キリスト教神学・歴史の終焉、等々)と戦った思想家としての側面と、根源的に他性的な存在を身近な周囲に見出した思想家としての側面があり、『本来的に語ると』におけるナンシーはバタイユの後者の側面を継承しているという。『本来的に語ると』の中でナンシーが、ラクー=ラバルトとの語りの場面、およびそこで生じる両者の齟齬について言及していることを踏まえつつ、相手に差異を示しながら共存する「語る私たち」の場としての神話こそがナンシーの神話論の賭金になっているのではないかと結論づけられた。

三者の発表を受けた渡名喜氏からは、現在のナンシーが「神話なき神話」という仕方で改めて肯定的に神話の問題を捉え返していることを認めつつ、その時「神話」という言葉には具体的に何が託されているのか、そしてその場合に共同体はどこに向かっていくのか、という問いが投げかけられた。前者の問いに対しては柿並氏から、大文字の差異とは異なった、 ほとんど無であるような差異をいかに現代の文学が引き受けるのか、とナンシーは問うているのではないか、という酒井氏の発表と通底する返答がなされた。後者の問いに対しては市川氏が自身の発表を補足する形で答え、これまでのナンシーには見られなかった「敵を同定することの必要性」という発言や、近年増していくジャック・ランシエールの政治論への依拠などに具体的な方向性が認められるのではないかと述べた。

上述の通り本パネルは、ナンシーにおける「神話」の問題、というやや限定的なテーマ設定のもとで進められた。しかしながら、各発表が相互に補足しあいながらナンシーの思想が明確に描き出されていく様は、発表者同士の間で事前に綿密な議論が交わされていたことを窺わせるものであり、その意味において、テーマの限定性を補って余りある濃密なものであったと言えるだろう。

乙幡亮(東京大学)

【パネル概要】

神話は古くから西欧の表象の重要な形式であったが、現在でも根源的な問いを投げかけている。本パネルはフランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシー(1940〜)の近著『本来的に語ると-神話についての対談』(2015)を中心に神話が惹起する本質的な問題を検討する。この対談は神話に視座を定めつつも、それまでのナンシー哲学を概観しており、今回のパネルもこの展望にそって構成される。すなわち本書でのナンシーの神話についての発言を出発点に、ナンシーの著作へ適宜問いかけ、さらに他の思想家たちの考察、その先に見える近現代の社会・文化の在り方へ視野を広げる。そのさい第一の前提として共同体の問題を掲げる。神話が共同体とともに生まれ存在してきたからである。

発表は次の三本の柱にそって行われるが、ナンシーの著作・テーマへの言及の生産的な重複を許容する。第一の柱(第1発表者担当)は政治であり、作品としてはナンシーの『無為の共同体』、『ナチス神話』、『否認された共同体』へ考察を広げ、バディウの政治思想にも立ち寄りながら20世紀の神話の問題に取り組む。第二の柱(第2発表者担当)は文学であり、作品としてナンシーの『文学的絶対』、『ナチス神話』を見据え、さらにドイツ・ロマン主義とミメーシスの関係へ考察を進める。第三の柱(第3発表者担当)は言語表現であり、ナンシーのニーチェ翻訳出版(『レトリックと言語』など)から、ニーチェ、バタイユ、ナンシーと続く神話表現論の歴史を語る。


【発表概要】

神話と政治──ジャン=リュック・ナンシー『本来的に語ると』が照射する共同体の可能性
市川崇(慶應義塾大学)

ナンシーは「途絶した神話」においてシェリングを参照し、神話とは自らについて語り、自らを解釈する固有性の形象化であると述べる。しかし、外部から意識に衝撃を与える自然の力が枯渇するとき、自然に対して閉ざされた文化は、自然と人間を結ぶ世界を創造する神話の潜勢力に訴える意志を懐胎し、自らの本質の生産を目指す内在主義、さらに全体主義へと向かう。この自然と人間、人間相互の合一を目的とする内在主義は「無為の共同体」においても批判されていた。そしてナンシーは、「神話の不在」についてのバタイユの言葉に着想を得ながら、神話への意志に神話の途絶を対置する。神話の不在が分有させる情熱は、諸存在を自らの限界に導き、そこにこそ「共同体の不在」としての共同体が開かれる。近年の著作に目を移すなら、ナンシーはブランショの『明かしえぬ共同体』への応答として書かれた『否認された共同体』において、ブランショが神話の援用を通じ共同体を再び作品化し、神秘主義へと向かったのではないかと問うている。また、この神秘主義的共同体の称揚に、30年代のブランショの極右思想の残滓が指摘される。他方、『本来的に語ると』では、神話の脱構築の試みに対して距離が取られ、自らについて固有な仕方で語るものでありながら、所有者なき言葉としての神話、政治に先立ち、権力によっては生産されない真理の言述としての神話が前景化される。以上の分析を通じ、本発表では神話と政治をめぐるナンシーの思想の連続性と変容の過程を考察する。

「新たな神話」新論──あるいは「途絶」のやり直し
柿並良佑(山形大学)

ジャン=リュック・ナンシーの思想を通じて「神話」の問題系は繰り返し現れてくるが、それをどう位置づけるべきか、いまなお容易ではない。『無為の共同体』においてはバタイユから継承された「神話の途絶」という「もう一つの神話」への対応が争点となっていたが、しかし必ずしも神話は否定的な相のもとに語られてきたわけではない。初期のラクー=ラバルトとの共同作業での扱い(『文学的絶対』におけるロマン主義ならびに観念論の「吟味」)、『キリスト教の脱構築』第二巻に補遺として収められたフロイト論に見られる神話としての欲動理論、また近年の文学論集『要求』でもあらためて問われる、文学と哲学が切り結ぶ領域としての神話…等々。

そのつど多少なりとも位相を変える問題系を一望するのに、本パネルで取り上げられる『本来的に語ると』は有効な視点を与えてくれる。ナンシーはおのれの来歴を振り返るだけでなく、あらためて神話をめぐる問いを深めていく。『無為の共同体』に胚胎していた着想が、「自己について語ること」ないし「本来のものを語ること」といった、それ自体としては保守的にも見える表現とともに展開される。しかしそこでは当の「本来的なもの」が根底から審議にかけられると同時に、かつて神話に対して企図された「途絶」という試みもまた、その内実を新たに与えられる。神話と主体の問題系がいかに開かれるのか、本発表ではそのアウトラインを描いてみたい。

神話表現論の系譜──ニーチェ、バタイユ、ナンシー
酒井健(法政大学)

本発表は、言語表現の視点に立って、ニーチェ、バタイユ、さらにナンシーへ至る神話表現論の系譜を検討し、ナンシーの考察の特徴を歴史的かつ対比的に際立たせていく。

まずナンシーの『本来的に語るとー神話についての対談』で示される神話の非人称性の定義(「自己について自己自身から語る」)から出発して、ナンシーによる初期ニーチェ遺稿の翻訳に入り、ニーチェ自身の神話表現論を検討する。ナンシーがラクー=ラバルトとともに翻訳した1874年のニーチェの講義『レトリックと言語』がとくに重要である。レトリックに傾く神話表現を孤独な真理探究者の学問的表現から区別し、祝祭共同体の生起と存在に重ね合わせるこの時期のニーチェの視点は、1930年代後半のバタイユへ継承され(1938年のテクスト「魔法使いの弟子」が重要)、さらに脱自の聖性体験を断章表現に映しだしこれを非人称の無形共同体へ開かせる作品群『無神学大全』でさらなる発展を見る。ナンシーは1983年発表の「無為の共同体」以来バタイユの共同体論を重視しているが、有形の共同体の極北を生きた思想家バタイユという捉え方は、反面、バタイユの脱自体験の射程を過小評価する傾向を示す。神話表現における非人称的な「自己」についてもその内実をバタイユの非人称の共同性と比較検討する必要がある。両者共通の他の重要概念(例えば「内在性」)にも立ち寄りながら、ナンシーとバタイユの思想上の異同を明示して、ナンシーの神話論の現代性、精密性、そして有限性を最終的に指摘し、問題提起としたい。