第11回大会報告 パネル7

第11回研究発表集会報告:パネル7:ヴァーチャル空間と現実空間の関係の再検討——デジタルゲームにおけるアフォーダンス、インタフェース、エコノミー|報告:山上揚平

日時:2016年7月10日(日)16:30 - 18:30
会場:立命館大学衣笠キャンパス 以学館24号室

ヴァーチャル空間にアフォーダンスは存在するか
伊藤京平(立命館大学)

デジタルゲームにおける視点の多層性——「鏡」としてのインタフェース
向江駿佑(立命館大学)

越境する複数のエコノミー ——ゲームアイテムの象徴的価値をめぐって
シン・ジュヒョン(立命館大学)

【コメンテーター】吉田寛(立命館大学)
【司会】増田展大(立命館大学)

20世紀後半に誕生したディスプレイモニタを伴うコンピューターゲームは、その後のデジタル技術の革新にも後押しされて急速に普及し、今や現代社会において独自の文化領域を形成するに至った。現在、ビデオゲーム研究は北欧、北米、東アジア等世界各国の研究者によって文理の壁を超えた超領域的アプローチが盛んに進められている。今回、日本で唯一のゲーム研究拠点RCGSを擁する立命館大学が会場という事で、関連領域の最新動向のうかがえる企画があるのではと期待していたが、まさに本パネルはそれに応えるものであった。

下記の概要にもあるように、当パネルはビデオゲームを手掛かりにヴァーチャル空間と現実空間の関係性を再考しようとするものであったが、最初にコメンテーターの吉田寛からは、表象文化論学会においてゲームを主題とするパネルが立つ事自体、今回が初めてであり、果たしてゲーム研究というものが本学会において相応しい場を見出せるのか、或いはシリアスな思想的、批評的言説に乗せられるものなのか、といった可能性を探る場でもあるという、もう一つの意図が説明された。

最初の発表者、伊藤京平は、先ずヴァーチャル空間論におけるアフォーダンスの問題を俎上に載せた。アフォーダンスは生態心理学者のJ.ギブソンによって提唱された知覚理論の概念だが、その後、認知学者D.ノーマンによる自由な解釈を経て、プロダクト・デザインやコンピューター・インターフェースの領域を中心に普及したという経緯を持つ。それに対して伊藤は、再度ギブソン自身の本来の定義に立ち帰る事で、ヴァーチャル空間のアフォーダンスを論じる新しい可能性を探ろうとする。伊藤の簡潔なまとめによれば、ノーマンのアフォーダンス概念はギブソンが『生態学的視覚論』(1979)で論じた「強い視覚論」に引っ張られており、そこではアフォーダンスは視覚によって「行為に先立って知覚される」ものとなる。伊藤はこの「強い視覚論」からの脱却を説き、W.ゲイヴァーによってグラフィック・ユーザー・インターフェース(これも一つのヴァーチャル空間である)へ適用された「継時的アフォーダンス」の概念などに、ギブソン本来のアフォーダンス理論の発展形を見る。また、そもそもギブソン自身は「浮動型」環境であるヴァーチャル空間を想定していなかったという重要な問題にも触れた上で、ヴァーチャル空間へのアフォーダンス適用の肯定派の意見をまとめ、最後には自ら現実空間とヴァーチャル空間が統合された状況の具体例をもとに、ヴァーチャルな視覚情報が視野の変更や注視といった行為をアフォードしているという例を示して見せた。

続いて二番目の発表者、向江駿佑は20世紀以降の(ニュー)メディア論を参照しつつ、ビデオゲームにおけるインターフェースの特色を論じた。タイトルの「鏡としてのインターフェース」はボルター/グロマラの『窓と鏡』(2003)〔邦題は『メディアは透明になるべきか』〕を踏まえており、その存在が意識されない透明な「窓」としてのインターフェースの対極にあたる、その介在を意識し経験する事でプレーヤー自身が自我を確立するような反映性を持ったインターフェースというものを指している。向江は「仕事」のデジタル化においては効率性向上の為、多くの場合インターフェースの透明化が望まれるのに対し、「遊び」のデジタル化であるビデオゲームでは必ずしもそうではなく、むしろ「ゲームを遊んでいる事」を意識化するためにもインターフェースは不透明になるべきであると考える。更に向江は、インターフェースという境界はコンピューターゲームにおいては一種の「マジックサークル」と見做せるという大胆かつ興味深い指摘も行った。遊びの秩序を維持する為にはインターフェースは適宜意識される必要があるのである。発表の後半ではプレーヤーにインターフェースを意識させる仕組みとしての「可変的なインターフェース」の具体例 (視点の人称の切り替えや画面分割(視点の複数化))がホラーゲームのメジャー・タイトルをもとに紹介された。また向江にとって「可変的なインターフェース」の可能性を考える事は、「インターフェース=静的/メディア=可変的」という二項対立が先行議論によって示されているなか、メディア一般を対象にしたボルターらの理論をインターフェース論に接続する上で必要な作業でもあった。

最後のシン・ジュヒョンの発表では、大人数参加型のオンラインゲームに於いて、ゲーム内のアイテムがその意味や価値をゲーム外の世界へと越境させる現象が論じられた。デジタルデータに過ぎないゲーム内のアイテムが現実のマーケットにおいて高額で取引されるという現象は、しばしばネガティヴなイメージでマスメディアに取沙汰されて来たが、シンはこの「仮想空間」にあるにも関わらず「現実世界」の財貨として交換され得るという「多層性」をゲームアイテムの重要な特性の一つと見なす。しかし彼女の発表のオリジナリティは、アイテムの「価値」を考えるにあたり、その様なマーケット上の交換価値、そして最も基本的なゲーム内における使用価値に加え、新たに象徴的価値というものを提示し、これが「ゲーム世界と現実世界」とで「共有」されるという点を指摘した事であろう。彼女はこれを「プレーヤーの自発的行為によって呼び起される価値」と定義し、その具体例を『リネージュ2』(NCSoft 2004-)の「バーツ解放戦争」を事例に説明した。「バーツ解放戦争」とは、堅固な階層社会を形成するリネージュの世界において、高レベルで強力なアイテムに身を包んだ支配者層に対して低レベルの「民衆」層が反旗を翻した、仮想世界における初の「民衆革命」とも目される出来事である。この時、低レベル側が初期の基本装備(アイテム)のまま、人海戦術を用いて勝利した事で、最終的に彼らの基本アイテムそのものが「自由の象徴」となり、それらを意図的に身に着ける事が現実のプレーヤーの立場をも表明する事になったと言う。日本では余り知られていない韓国での事例という事もあり非常に興味深く聞かれた。

全発表を終えて、コメンテーターの吉田から投げかけられた最初の指摘は、3つの発表ともが「ゲームの話になっていない」という一見、非常に厳しいものであった。しかしながらこれは本質的で重要な問題を含んでおり、その後の活発な議論を誘発するものであった為、最後にこの点について少し触れておきたい。吉田が言わんとするのは、発表者は各自「ヴァーチャル空間」の問題を論じてはいるが、そこからは「ゲームならでは」の問題が抜け落ちているようにみえるという事である。これは報告者も少し思うところがあったが、吉田は今回この点を、「仮想空間」の問題とゲームが持つ「虚構空間」の問題とが区別されていない、という角度から指摘した。確かにビデオゲームの重要な特性としてフィクション(虚構)世界の表現を挙げる先行研究は多く、それは往々にしてヴァーチャルリアリティの問題とは区別されてきた経緯がある。一方、フロアからはすかさず、この場合の「虚構性」とは一体何なのか、本当に仮想性と区別できるのか、といった疑問が飛び出し、また更にはパネル全体において「仮想」と「ヴァーチャル」が区別されていないのも問題なのでは、という指摘もなされた。この様にフロアも巻き込んで議論が深まる中、発表者は各自の立場からコメンテーターの問いに回答を試みていたが、私見では各自が今後の研究に向けての大きな宿題をコメンテーターから託された形に見えた。その他にも多くの質問、感想がフロアから寄せられたが、紙幅の都合上、割愛せざるを得ないのが残念である。

司会の増田展大は今回のパネリストに関して冒頭、様々なバックグラウンドの研究者をゲーム研究が集める事になったというのが面白い、と感想を述べたが、それはフロアに関しても同様であったと思われる。様々な分野の専門家がゲームへの関心で一つに集まり、これだけ盛況な議論を繰り広げた事は、表象文化論学会に於いてもゲーム・スタディーズの為の場が確かに求められている事を強く印象付けることとなっただろう。

山上揚平(東京藝術大学)

【パネル概要】

今日における映像メディアを論じる際、スクリーン内部から身体など現実空間への関心の移行が指摘されて久しい。一方でこれまで俎上に載せられてきたのは主として映画やビデオ、メディアアートなどであった。そこでインタフェースを不可分のものとして内包するデジタルゲームに注目することで、本パネルではヴァーチャル空間と現実空間の関係の多角的な分析をおこない、両者の関係について再検討する。

第一発表(伊藤京平)では、J.Gibsonのアフォーダンス概念がヴァーチャル空間においても適用されうるかが主題となる。機械と人間を区別するGibsonの概念のデジタルゲームへの援用が引き起こす問題を、Normanらの論考を敷衍しながら検討する。第二発表(向江駿佑)では、スクリーン内部において分裂した映像の外部への滲出に焦点が当てられる。映像とインタフェースとの不整合によってプレイヤーの意識は同時に両者に向かう。そのときMcLuhan的な身体の拡張としてのメディアとは異なり、インタフェースが映像とプレイヤーを切断することが強調される。第三発表(シン・ジェヒョン)では、ゲーム内のアイテムが現実世界で売買される際に、アイテムがもつ三つの価値(使用、象徴、交換)の意味合いが変化することが議論される。これらの発表を通じて、ヴァーチャル空間と現実空間の関係が三様に提示される。

    

【発表概要】

ヴァーチャル空間にアフォーダンスは存在するか
伊藤京平(立命館大学)

J.Gibsonは「機械と人間は異なる」という定立から演繹的に生態心理学を構築した。Gibsonによれば、環境の意味や価値といった情報は行為者によって直接的に抽出される。このときGibsonは意味や価値を「アフォーダンス」と呼んだ。吉岡(1997)はアフォーダンスを「分類・命名に関係なく存在する。ということは、つまり言語を越えた存在だということである」とする。換言すれば言語とアフォーダンスは独立しているということになる。

デジタルゲームのプログラミングにはかつてアセンブリ言語などの低級言語が用いられていた。しかし現在はより抽象度や汎用性が高い高級言語に置き換わっている。低級言語、高級言語は共にマシン語に意味や価値が与えられたものであり、それらをプログラマーが利用する。よって高度に抽象化された言語の羅列ともいえるヴァーチャル空間にアフォーダンスは存在しない。もしこういった媒体にアフォーダンスが存在するならば、我々の住む実環境も概念を持たない言語に分解しうる。また環境に住む我々自身も何ら機械と変わらないことになる。しかしそれはGibsonの想定とは異なるのである。

それにもかかわらず、アフォーダンスはヴァーチャル空間において論じられている(Rambusch & Susi 2008)。本発表では、Gibsonが自身の理論を生み出した背景を再考し、アフォーダンスの含意を読み取る。同時に、なぜ現在のような用法が行われているかをNorman(1988)やGaver(1991)のアフォーダンス論を取り上げて説明する。

デジタルゲームにおける視点の多層性——「鏡」としてのインタフェース
向江駿佑(立命館大学)

プレイヤーによる視点操作はデジタルゲームと映画の差異の一つと言える。操作され、分割される画面もまたインタフェースの一つである。本発表ではその顕著な例として三本のゲームを取り上げ、それぞれの視点操作や画面分割について比較検討をおこなう。インタフェースが操作されると、プレイヤーの意識は映像だけでなく各種コマンドやメタ情報にも向けられる。このときインタフェースはBolter & Gromala(2003)がいう「鏡」として作用する。映像は直接観られるだけにとどまらず、インタフェースを通しても観られるのである。

本発表では、『バイオハザード』(1996)、『零』(2001)、『サイレン・ニュートランスレーション』(2007)の三作品を対象とし、各作品の視点操作と画面切り替えの自由度がスクリーン外部への映像の滲出のしかたにかかわっていることを論じる。固定カメラやオブジェクト配置などに映画との強い類似点がみられる『バイオハザード』と、一人称視点と三人称視点が排他的に切り替え可能な『零』および多数の視点を画面分割によって同時にみられる『サイレン』ではインタフェースは大きく異なる。だがいずれの作品においても、インタフェースはMcLuhanが言うメディアのような身体の拡張ではなく、むしろスクリーンとプレイヤーとを隔てている。その点において、デジタルゲームがもたらす既存の枠組みに捉われないヴァーチャル空間と現実空間の関係が提示される。

越境する複数のエコノミー ——ゲームアイテムの象徴的価値をめぐって
シン・ジュヒョン(立命館大学)

すでに我々の生活の一部分になりつつある今日のデジタルゲームだが、社会的影響の面で否定的な見解も多く、ゲームを取り巻く新たな社会現象と問題をめぐる論争が続いている。とりわけゲーム中のアイテムは、少年犯罪やサイバー犯罪と関連して問題視されてきた。アイテムとはある特定の「モノ」を指し(Jeon)、ゲームにおいては武器、貨幣(経済的価値を持つモノ)、食べ物、薬など、「交換・販売の対象」として定義できる。それらはゲームの中でフィードバックの役割を担う。フィードバックには「ポジティブ」、「ネガティブ」、「情報」の三種類があり、アイテムは主にポジティブ・フィードバックとして分類できる。またアイテムには使用価値と交換価値に並ぶ第三の価値、すなわち象徴的価値(Baudrillard)の側面もある。だが現実世界で売買された場合、その役割は変化する。

本発表では、アイテムが現実世界において売買されるとき、ゲーム世界におけるそれらのアイテムおよびその価値がどのように変化するかを考察する。ゲーム中のアイテム取引は現実世界で「アイテムマーケット」を形成し、アイテムは現実の商品としても流通することになる。そこでゲームの中のアイテムを三つの価値の関係から再考する。