第11回大会報告 | パネル6 |
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日時:2016年7月10日(日)16:30 - 18:30
会場:立命館大学衣笠キャンパス 以学館23号室
「世界の都」を開く血——ゴンファローネ兄弟会の受難劇
杉山博昭(早稲田大学)
霊の身体に通う血——ケイティ・キングの脈拍測定
浜野志保(千葉工業大学)
戦場から持ち帰られる血——日露戦争における血の幻影
向後恵里子(明星大学)
【コメンテーター】橋本一径(早稲田大学)
【司会】向後恵里子
「血」は、古来より絵画や演劇、映画等のメディアで描かれてきたのみでなく、血そのものが色々なものを表象してしまうという点で一種の特権的主題である。本パネルでは、血の表象についてメディアを限定せず横断的に議論をすることでその多様性への接近が試みられた。
最初の発表では、杉山博昭がローマ受難劇にあらわれた多層的な血の意味を明らかにした。銀行家カッポーニの監督のもと、ゴンファローネ兄弟会が1450年から制作・上演したローマ受難劇では、イエスは、綾織りの美しい衣装のみでなく、屠畜業者から購入した血の滴る生肉のスーツを纏った姿で演じられた。本発表で問題とされたのは、当時のイタリアの規範的キリスト像に反するこの滴る血の道筋と主体の在り処であった。杉山はまず、受難劇のパレルゴンである宗教行列のルートや上演場所のコロッセオ、そして劇の核であるキリストの身体や衣服に、予めユダヤのコンテクストが通底することを確認した。上演時の台本のうち、ダーティ版(1496年初版)テクストでは、血は「美しい血」と「汚らわしい血」という二種の表現に分かたれていた。しかしそのような血の両義的言語表現は、シニクス版(1517年初版)においては、生肉スーツで表現される鞭打ち後の汚いイエスと、綾織の美しい衣装を纏うエッケ・ホモを経た磔刑時のイエスという、キリスト像のふたつの視覚表象へ変わったのだという。さらに杉山は、この両義性を受難劇の場における二つの事象へと敷衍した。ひとつは劇中でイエス役が流す獣の穢れた血である。もうひとつは、鞭打ち苦行で流れた兄弟会の巡行者の現実の血が、上演後にワイン=神の血で中和され聖なる血へ転化することである。この分節化が提示したことは、劇中の鞭打ちで滲み、磔刑で一旦舞台の足元に潜伏することを経て、現実世界の巡礼者らによってローマの街に出現する血の道筋であった。では誰の血かというと、それは単にキリストの血の代理ではなく、ペサハの屠殺と「犠牲の羊」イエス・キリストの重なりから現れるユダヤの血である。以上から本発表では、「キリストを殺したのはローマ人ではなくユダヤ人である」という宗教的・政治的命題のために、教皇庁とゴンファローネ兄弟会が、遺跡に残るユダヤ人の恥辱を受難の物語で上書きし、ユダヤの血をカトリックの血に対置して穢す操作を行ったことが明らかにされた。
二番目の発表者である浜野志保は、ケイティ・キングの脈拍測定を例として、19世紀から20世紀の近代心霊主義における幽霊の物質化の問題を論じた。交霊会の展開とともに霊媒を生業とする者が増え競争が激化するにつれて、幽霊は物質化(materialization)され、遂には生きた人間と同じ身体を持つ完全物質化現象(full-form materialization)が出現したのだという。この流れの中、霊媒が霊を騙っているという客の疑念を晴らすために、幽霊たる彼/彼女らの身体的特徴が計測・比較された。その一つの方法こそが脈拍測定である。固有の生きた体を持つことで霊の存在が証明されるこの奇妙な状況がなぜ起こったのか、浜野が主張したのは次のことであった。霊でありながら血の通うケイティの生々しい身体は、生者の世界と死後の世界をつなぐ中間的な存在と、猥雑な見世物としての若く美しい女という、交霊会における彼女の存在の二面性を強調したのだという。なおかつそれらが、死者の魂を呼び出す神聖な場でありながら、世俗的な見世物の場でもあるという、交霊会自体の両面性にも呼応していた点が指摘された。すなわち、その身体に血が通っているという物質性は、霊媒や交霊会に呼ばれる霊の存在と、近代心霊主義における交霊会という場、各々の特殊性による要請に応えた結果生じたものであることが提示された。
最後の発表は向後恵理子が、日露戦争の血の表象を題材に血の正統性に焦点をあてた報告を行った。ここでは、兵器の近代化によって生じる大量死、マス・メディアの発達による血の報道、武士道の再発見による「血を流すこと」の正当化が交錯する時期に、血のイマジネーションがどのように共有され、何を示したのかが論点となった。まず確認されたのは、近世以前からの血を流す英雄像という歴史的コンテクストをもちいた、兵士と武士のアナロジカルな重なりである。己と敵の血に染まる兵士の身体はメディアによって報道されることで、軍神として神格化されたのだという。この軍神の物語の共有は、現実の血に染まった遺品を媒材として強固になった。向後が指摘したことは、国家の正統性を示すための血とその物語の形成である。例えば、英霊を祀るためとして彼らの血に染まった剣でつくられた塔は、近代の国民道徳を反映した「忠勇」の文字を夜空に電気という文明の力で浮かび上がらせた。血の意味が、武士の〈伝統〉の文脈をもちながら、近代の新しいエネルギーで煌々と光る「正しさ」のイデオロギーを示すこと。すなわち、想像上の国民兵士の血と現実の人間の血の交錯は、人が物理的な血を流した記憶と軍人が国家のために血を流したという歴史とを結びつけ、美しい血・正しい血という幻影を徹頭徹尾提供していたのだという。本発表では、今なおそれが続いている可能性にまで言及された。
三者の報告の後、司会・コメンテーターの橋本一径が血液を「体の中で流れる血(血液循環の発見以前のプネウマと、以後の人間の身体=ポンプとする考え)」と「体の外に出た血(瀉血と輸血)」の二つに区分した視点で討議を先導した。杉山とは、キリストの血の宗教的表象にみるローマとユダヤの歴史的相克を軸に、体外に流れ出た血が単なる排泄物でなく「誰かの血」となった特権性を議論した。浜野との間では、「血が流れる幽霊」が、単に体外に血を流す幽霊と脈がある幽霊とに峻別されることが確認され、結果的に後者の矛盾や特殊性が際立った。向後とのやりとりでは、主に血の所有者と世俗化について議論され、万人がもち、体外に流れ出、体内を流れる血のレトリックを考えることの重要性が浮かび上がった。その後、会場との間でも息をつくことなく活発に質疑が行われた。
以上を振り返ると、血液を議論することそれ自体が、血の精神性と物質性、聖と俗、個別と総体、身体の内と外などをおのずと巡るものなのではないだろうか。本パネルでは、冒頭に記した血の表象の多様性に接近するという目的をこえて、循環する血の特権性がまさに露わになった瞬間を目撃できたように思う。
大貫菜穂(立命館大学)
【パネル概要】
わたしたちはみな血の嚢である。
ふだん皮膚の下にあって見えないが、血液はたしかに体内をめぐり、その脈動は生きていることのあかしとなる。皮膚が破れれば、赤い血が肌を伝い、命を損ないながら、凝って固体へ、黒い染みへとかたちを変える。血が目撃されるのは必ずその肉体が損なわれる瞬間であり、生が喪われたあともなお遺される、ひとの最後の痕跡ともなる。
かような肉体のしるしであるとともに、血は呪力の源でもあった。古来より血を使う儀式は多く、聖杯に満たされる血も、起請文の効力を約束する血も、この人体からうみだされる液体に神秘的な力をたくし、肉体をこえた霊的なものとの関係をとりむすぶイメージの媒介としてはたらく。
血はしたがって、生身のだれかの肉体とぬきがたく結びつきながら、液体と固体、物質と精神、生命とその喪失とのあわいで表象されてきた。それはときに水を染めた贋物であるかもしれない。本物の血のむこうにあらわれる幻影の証明かもしれない。血は肉体とイマジネーションとを結ぶメディアであり、その血の流れのうちには常になにかが顕れ、なにかが隠される。本パネルは、こうした普遍的でありながら多様な意味のあいだにゆれ動く血の表象を主題とし、杉山は血の宗教性を、浜野は物質性を、向後は正統性をそれぞれ検討する。そのうえで、血の顕現と隠蔽の諸相のうちに、肉体とイマジネーションの表象を探究する。
【発表概要】
「世界の都」を開く血──ゴンファローネ兄弟会の受難劇
杉山博昭(早稲田大学)
1490年から1539年の聖週間に聖地ローマへたどり着いた巡礼者は、ほぼ例外なく、ゴンファローネ兄弟会制作の受難劇を見物して贖宥を得た。現在、しばしばこの受難劇は、同時代の反ユダヤ的感情の投影という文脈で参照される。実際、上演後の見物客は毎年のようにユダヤ人へ暴行を加えており、この「不祥事」を重く見た教皇パウルス3世は、受難劇の上演禁止とローマ初のゲットー建設を指示したのである。
しかしローマ受難劇をこの「不祥事」をもって総括することは、ウィッシュが『信仰を演じて』(2013)で指摘したとおり、短絡にすぎる。そこで本発表は、上演を構成した二つの要素に注目する。まず上演会場であるコロッセウムとそこにいたる宗教行列のルートを確認し、異教世界最大のモニュメントやティトゥス凱旋門において交差した人文主義者と教会の欲望を考察する。次にその場において「キリストに倣いて」流された血を確認する。つまりキャストであるキリスト役が柱に縛られて流す血と、スタッフである同兄弟会会員がローマ市内を行進しながらみずから傷つけ流す血である。ときに屠畜業者が製作した衣装からしたたる前者と、同兄弟会が経営する病院において手当される後者は、興味深い相補性を見せる。
研究史上初めてキリスト役の衣装を検討する本発表は、ケノーシス(神性放棄)の表象がローマに刻んだ美的かつ宗教的な裂け目と、共同体を更新しつつその攪乱を招いた「世界の都」の中心の空虚をあきらかにするだろう。
霊の身体に通う血──ケイティ・キングの脈拍測定
浜野志保(千葉工業大学)
近代心霊主義の交霊会では、霊は生身の人間と同じような身体を持つ姿で出現することがあった。このような霊の完全物質化を英国で初めて行なったとされるのが、霊媒フローレンス・クックである。物理学者ウィリアム・クルックスは、霊媒が霊に扮しているのではないかという疑惑を晴らすため、交霊会に出現した霊ケイティ・キングの脈拍と霊媒クックの脈拍との比較を行った。水療法の提唱者として知られる医師ジェイムズ・マンビー・ガリーも、クルックスと共に交霊会に参加し、霊と霊媒の脈拍測定を行っている。だが、そもそも「脈拍」が測定可能であるということは、その身体に血が通っているということ、すなわち、心臓があって血液を送り出し続けているということを示している。クルックスやガリーの主張する通り、脈拍を測定された身体が霊媒ではなく霊のものであるとすれば、そのような身体を持つ霊は、死者でありながら生きているということになるのではないか。本発表では、そもそも死者であるはずの霊が「血」の通う生々しい身体を持って現れること、さらに、そのような霊の身体のあり方が心霊主義者たちによって違和感なく受け入れられたことの意義について、ガリーによるキングの脈拍測定の写真や、その他のキングの写真、キングに関するクルックスの手記およびガリーの証言、同時代の心霊主義者および批判者たちによって書かれた物質化論などを主な手掛かりとして考える。
戦場から持ち帰られる血──日露戦争における血の幻影
向後恵里子(明星大学)
古来戦場に血はつきものである。刀剣であれ砲弾であれ、肉体の損壊があるところ血はかならず流れ、多くの詩人はその様をうたってきた。しかし、画家はどうだっただろうか。血は描くべきなのか、そうではないのか? 西洋の近代戦争画では、どれだけ凄惨な場面でも、血は抑制されるかまったく描かれない。ときには血の流れない理想の戦場が出現する。他方、日本近世の歌舞伎や錦絵においては、血は鮮やかに体を染めて流れ出す。激しい戦いであればあるほど、現実をこえた流血表現がつきものとなる。この血の表現をめぐる異なる潮流が出会い、実際の血と虚構の血とがせめぎあって、血のデコールム(適切さ)がゆれ動くのが1904(明治37)年におこる日露戦争である。この戦争はそれまでよりはるかに多くの死者・負傷者を数え、報道も物語もその言説は朱に染まり、「屍山血河」の戦場が語られた。ここには近世より続く英雄の血の物語がある。一方視覚表現において、血は抑制される傾向にある。描かれた血が「嘘」または「下品」に見えることを恐れる編集者は、挿絵画家たちに血を描かないことを注文すらした。しかし流血をめぐる英雄のイメージは、「本当の血」――すなわち、戦場から持ち帰られる血、血痕ののこる遺品を展示することに向けられる。本発表では、これらの、語られ、描かれ(ず)、持ち帰られる血の表象において、日露戦争における現実と幻影がどうむすびつくのかを検討し、その血が可視化する戦争のイメージについて考察する。