第11回大会報告 パネル2

第11回研究発表集会報告:パネル2:エロスの哲学/哲学のエロス|報告:市川博規

日時:2016年7月10日(日)10:00 - 12:00
会場:立命館大学衣笠キャンパス 以学館24号室

バタイユにおける思考のエロティシズム
横田祐美子(ストラスブール大学)

メルロ=ポンティの窪みの現象学
黒澤由里

『リビドー経済』における「隠蔽」概念について
渡邊雄介(早稲田大学)

【コメンテーター】松本卓也(京都大学)
【司会】加國尚志(立命館大学)

本パネルのタイトルは「エロスの哲学/哲学のエロス」であった。「エロス」とはおそらく哲学におけるもっとも古い思考のモチーフのひとつである。それゆえ、この語は長い歴史においてさまざまな場面で広く用いられ、その意味は、それが指示するものは、多様に派生あるいは変化してきた。性的なものを指示するところの現代における一般的な意味も「エロス」の一側面にすぎない。そして、本パネルはそのエロスの哲学/哲学のエロスの多様性をめぐる議論の場であったといえよう。まずは司会の加國尚志氏が本パネルの概略説明をしながら各発表者とコメンテーターの紹介を行い、発表が開始された。

最初の発表者、横田祐美子氏の論題は「バタイユにおける思考のエロティシズム」であった。ジョルジュ・バタイユの思想を知る者にとって、エロティシズムと聞けば、彼の代名詞のように響くだろう。しかし、彼においてエロティシズムという語は人口に膾炙しているイメージとは異なっている。それは、性愛の場面だけに限定されず、人間存在の「交流」を示す。そして、彼は自身の思考をエロティックに──「ドレスを脱ぐように思考する」と表現する。そこで、氏はバタイユのこの思考のエロティシズムに着目し、それを検討することで、伝統的哲学とバタイユの思想のつき合わせを試みた。氏は、バタイユが思考や知をエロティックな表象をもって示している場面に、プラトン的なエロスとの重なりを読み取り、バタイユにおける絶対者へのまなざしを描き出す。しかし、それはこれまでの(たとえば、デリダやナンシーによる)バタイユ像、つまりバタイユの思考から不連続性や絶対的なものの不在を読解する立場とは相反するものである。しかし、氏はそのようなバタイユ解釈に還元されえないバタイユの両義的な思考を、あるいは揺れ動く思想として、論じていくことで、バタイユ研究はさらなる豊かさをもつことができるのではないかと主張していた。

次に、黒澤由里氏が「メルロ=ポンティにおける窪みの現象学」という題で発表を行った。モーリス・メルロ=ポンティの哲学はいわゆる「エロティシズム」なるものとは縁遠いかに思われる。しかし、氏は、エロスが「自身に欠けているものへの欲求」であり、「知を求め、真理へと向かう魂の働き」であるならば、彼が語る「窪み(creux)」という語に着目することで、彼にとっての「エロティシズム」が、彼の思考する「自己を離れる」という様態において、見出されうるのではないかと考えた。「自己を離れる」といっても、それは対象・真理へと向かう(一方向の)矢印のような運動ではなく、逃れる対象・真理をめぐって円環を描くような揺れ動きである。メルロ=ポンティにおいては自己を離れつつ再び戻るようなこの運動こそが哲学の営為であり、また芸術の営為でもある。芸術家・画家は、知覚する世界を知として把握しようとする意志・眼差しを持たないというその欠如(あるいは知以前の知)によって、世界そのものを描き出そうとする。そして氏は、メルロ=ポンティの哲学からは、そのような画家における欲求・態度、ないしその作品を観る者の欲求にエロスというものを見出しうるだろう、と論を結んでいた。

そして、渡邊雄介氏は、「『リビドー経済』における「隠蔽」概念について」という題のもと、リオタールにおいて悪名高い書として知られる『リビドー経済』を「隠蔽」の問題として着目しながら、その見直しを図った。氏は、一見すると非道徳的とも思えるリオタールの言及──産業革命期のような過酷な労働のなかに「享楽」が見出されることを肯定する──は、資本主義にはそのうちに自身を内破させる根本的に無条件で予見不可能な「力」が隠蔽されているのだという意図のもとになされたのではないかと考えた。そして、前掲書と同時期に書かれた論文を補助線としながら、またリオタールの概念をカントやニーチェ、とりわけフロイトと交差・衝突させながら紐解き、変異の契機となりうる隠蔽された「力」を思考するリオタールが引いた線の再描がなされた。その線上において、「リビドー」が見出されるのだが、それには「エロス」と「死への欲動」という二面的な「反復」、すなわち(生の)維持への欲望と破壊・変異への欲望が同居している。そのような欲望の力を賞賛するのがリオタールの狙いではなく、リビドー的なものが社会・経済の「装置」に「隠蔽」されていることを記述することがリオタールの狙いだった、と氏は解釈する。最後に氏は、リオタールによる「売春」の考察を解釈し、「値のつけられないもの」を価値評価するような無条件で予見不可能な「力」が、イギリスのプロレタリアにも「隠蔽」されていたことを示すというのが『リビドー経済』の意図だったと結論付けていた。

つづいて、コメンテーターの松本卓也氏が各三者に対しコメントと質問を行った。

一人目の横田氏に対しては、まずバタイユの思考のエロティシズムとある種の精神疾患患者の思考との近似を感じた旨を言及し、その上でバタイユにおいてはエロティックな引力がいったいどこで生じているのかを質問した。また、エロティシズムと「禁止と侵犯」との関係および対象との連続性の回復についても問いを投げかけた。

二人目、黒澤氏については、発表におけるメルロ=ポンティの芸術論とラカンにおける画家と対象との関係の分析と照らし合わせた上で、そこでエロスというものが芸術とどのようなつながりを持つのかを質問した。

そして、渡邊氏については、リオタールはかつてのイギリスに対して解釈をおこなっていたが、あるいはそれは現代社会(ブラック企業や消費社会)にも適応可能な、現代的な理論かもしれないとコメントし、快だけでなく不快や嫌悪についての反復も思考材料として興味深いと言及した。そして、質問としてはリオタールの語る「装置」というものの定義を尋ねた。

それらに対し、まず横田氏はエロスというものはおそらく対象や真理そのものにおいてあるのではなく、それらの逃げ去り・退隠において、つまりそこに到達できないというところにあるのではないかとこたえた。また、エロティシズムと「禁止と侵犯」は切り離されてはおらず、その図式は思考のエロティシズムにも見出しうると述べ、連続性に関していえば、バタイユは対象との「融合」という表現を用いたこともあったものの、それは対象との合致という連続性というよりは、逃れ去る対象とエロティックな思考による脱自とが重なりうるという意味での連続性であるだろう、と返答した。

つぎに、黒澤氏は、画家ならびに鑑賞者が(前者と後者とでは異なる仕方であるだろうとしながらも)、対象を還元しようとしてもそれを還元しえないということに気づきながらも、なお努力する、その営みをメルロ=ポンティにおける魂の働きとするならば、それがメルロ=ポンティのエロスであるだろう、と芸術とエロスの関係を説明した。

そして、渡邊氏は、リオタールの理論の現代性を肯定しつつ、今回の意図は享楽のなかに社会を変異させる力があり、享楽性というものの不快や嫌悪に関しても享楽・肯定できてしまうという無条件さのうちに変異の契機がある、という解釈を示すことにあったと説明した。「装置」の定義については、リオタール自身は明確な定義をしていないものの、「装置」がdispositifという語であらわされていることを鑑みれば、リビドーの反復がもつ傾向性・配置(disposition)を示すのが「装置」ではないか、と返答していた。

最後に、会場全体での質疑応答が行われた。主だった討議をあげていくと、まず、横田氏の発表において示されたバタイユ像ないしバタイユにおけるエロティシズムの相貌が、ナンシーらによるラディカルな見方から離れて伝統的な哲学(プラトンのエロス)のほうに引き戻されてしまっているという問題が提起された。そこでは、近代から現代へと移り変わる過渡期にあったともいえる、バタイユの思考のゆらぎをどのように扱うべきかが議論され、横田氏からは、バタイユのエロス(質問者は禍々しいエロスと表現していた)は(プラトンのような)伝統的なエロスとは異質とされてきたが、それをただ対立するものとして排除するのではなく──ナンシーも示唆しているように──むしろ重ねて検討することで新たな可能性をバタイユのゆらぎのなかから思考していく意図があった、という応答があった。

また、渡辺氏に対して、「隠蔽」と訳されたdissimulationは単に「隠す」というよりは「見せかける」あるいは隠して「ごまかす」といったニュアンスがあるのではないか、という発議がなされた。それにつづけて、リオタールの「享楽」についての分析は労働に関する「現代(後期資本主義を経た「いま」という時代)」の感覚からはやはり「不謹慎」といわざるをえないものではないか、という意見も出された。それについて渡邊氏は、dissimulationという語に対し、効果のあるものとして事後的に想定されるようなもの(simulacre)ではなく、実在的に作用するものとして「隠蔽」という語を用いたが、確かに「見せかけ」という意味も考慮していくべきだとこたえていた。(それに対し、「偽装」という訳はどうかという提案が会場からなされていた。)また、二つ目の意見に対しては、決して今回のリオタール解釈は資本主義を加速させることを是とするものではないということ、労働のなかに変異をもたらす偶然性(=「享楽」)を肯定してはいることで「不謹慎」という謗りを免れえないが、しかしそれをして資本主義の肯定をしているわけではないということを反論していた。

またほかには、バタイユにおけるエロスの向かう先は「死」であって、プラトンや伝統哲学におけるように「絶対者」へとは向かわないのではないかという点についての議論が展開された。そこでは、その「絶対者」と「未知のもの」との関係をめぐる討議、バタイユ思想における「融解」のイメージをめぐる意見交換がなされていたが、時間の都合上──まだ他にも質問のために挙手する参加者が残っていたが──、本パネルはそこで終了となった。

プラトンによれば、エロスは豊かさと欠乏の子であり、その両方をもつがゆえ、飽くなき欲求、愛を司る神であるという。その愛とはすなわち真を求める愛知=哲学であるだろう。ならば、本パネルはエロスの哲学/哲学のエロスをめぐる議論の場であると同時に、その真を問い求める探求という意味では「エロスの哲学/哲学のエロス」という題を体現するものであったといえるだろう。

市川博規(立命館大学)

【パネル概要】

「エロス」は性愛を意味する語として広く理解されており、古くから絵画や文学作品において主題的に描かれてきた。現代思想史では、精神分析学者フロイトの提唱した「生の欲動」としての「エロス」がとりわけ知られており、彼の理論は20世紀の哲学、主としてフランス現代思想に強い影響を与えている。他方で、「エロス」に関する議論は古代ギリシアのプラトンにまで遡ることができる。彼によれば、それは自身に欠けているものに対する欲求であり、ひいては知を求め、真理へと向かう魂の働きである。そのため、「エロス」は愛知としての哲学を語る際に無視しえない概念であるといえるだろう。

このような文化的・思想史的背景をもつ「エロス」を、フランス現代思想に位置づけられる思想家たちはどのように論じているのだろうか。そして、彼らの著作に見受けられるエロティックな表象は、いかなる哲学的な問いを孕んでいるのだろうか。本パネルでは、こうした問題意識に基づき、バタイユの思考のエロティシズム(横田)、メルロ=ポンティの窪みの現象学(黒澤)、リオタールのリビドー経済(渡邊)を、各思想家におけるエロティックな表象を出発点として論じることとする。それによって、三者における「エロス」の問題が、これまで語られてきた「エロス」に関する哲学的伝統をいかなる仕方で継承し、あるいはそこからいかなる差異化を図っているのかを明らかにしたい。


【発表概要】

バタイユにおける思考のエロティシズム
横田祐美子(ストラスブール大学)

本発表の目的は、ジョルジュ・バタイユの「思考」の問いを「エロティシズム」という観点から捉え直すことで、彼の思想を哲学・思想史の流れのなかで再定義することである。

周知のとおり、バタイユの「エロティシズム」は存在の「連続性」の回復を目指すものとして「禁止と侵犯」の問題系のなかで論じられてきた。だが、これに回収されない「エロティシズム」の問題を、われわれは彼の思索のうちに見いだすことができる。それは、『瞑想の方法』で「わたしはまるでひとりの娼婦がドレスを脱ぐように思考する」と表現された「思考」と「エロス」の問題である。ジャン=リュック・ナンシーはLa pensée dérobéeでこの両者の関係を取り上げ、バタイユのいう「思考」を、おのれ自身から逃れる思考、思考それ自体の「退引」の運動として解釈している。しかしながら、このような読解が可能である反面、バタイユの「思考」は不断に引き退きながらも、彼にとって根源的な絶対者ともいえる「未知のもの」へと接近しようとしたのではなかったか。そのため、バタイユの「思考」と「エロス」の問題はプラトン以来の「エロス」概念にも接続されうる側面をもっている。

本発表では、上述した問題背景を踏まえながら、バタイユの「思考」の「エロティシズム」が有する両義性を明らかにし、根源的な絶対者という伝統的な哲学の問題に対してバタイユがいかなる態度をとっていたのかを検討する。

メルロ=ポンティの窪みの現象学
黒澤由里

メルロ=ポンティの哲学に「エロティシズム」の問いが内在していたかどうかは甚だ疑わしい。彼自身の著作にこの語を見つけることが困難を極める以上、そんなものは存在しないという意見が大多数であろう。だが、こうした状況のなかで本発表は、彼の現象学的美学・存在論的美学の視座を掘り下げることで、彼の哲学における「エロティシズム」の可能性を探ることを試みる。この視座は、厳密な体系を築き上げることなく多義的な状態そのままに、あらゆる顕れに触れ続けることで円環的に紡ぎ上げられているものである。そして、そのなかでメルロ=ポンティが論じる「窪み(creux ; cavité)」の様態にこそ、彼にとっての「エロティシズム」を定義する糸口を見出すことができるだろう。

ある芸術(事象)に我々の意識が向かい、そのものに心を揺り動かされるということ。そして、その事象を把握し尽くすことができなくとも、己の意識がそこへ向かう力には抗いきることが出来ず、むしろそこへ辿りつきたいと終わりのない努力をし続けるという渦に自分自身が意識的に巻き込まれていかざるをえないということ。それでありながら、己を「逃れ」るという「存在の裂開」がおこり続ける反省的否定的態度をとり続けるということ。そこには、一体どのような意識を背景とした体験が隠されているのだろうか。本発表では『見えるものと見えないもの』を中心に、こうした問いを「エロティシズム」との関係から検討する。

『リビドー経済』における「隠蔽」概念について
渡邊雄介(早稲田大学)

ジャン=フランソワ・リオタールは『リビドー経済』(1974)において、「構造(structure)」と「情動(affect)」の関係を「隠蔽(dissimulation)」として論じた。本発表では、この「隠蔽」関係が『リビドー経済』において「売春」の形象において思考されたことに注目しつつ、リオタールが記号の強度化をいかに思考したのかを分析する。

「構造」とは、「このもの」と「非-このもの」とが明確な境界線を形成することで機能する表象の空間として定義される。対して「情動」とは、欲動エネルギーが諸表象に働きかける際、エネルギーがそれらへの備給と置き換えのなかで持つ名であると言われる。そして「隠蔽」とは、「構造」が「表象」を介して「情動」を覆い隠すことである。本書においてこの「隠蔽」関係のモデルとなっているのは、フロイトにおける「エロス」と「死」の関係である。しかし、「エロス」には「寄せ集めて拘束する」といった機能が結びつき、「死の欲動」には「攻撃性」が結びつくと言ったような二元論的モデルはリオタールよって却下される。重要なのは、フロイトが「死の欲動は<エロス>のざわめきのなかで沈黙のうちにはたらく」という場合に含意される、「エロス」と「死の欲動」の二重性である。本発表では、この「二重性」や「隠蔽」を肯定するリオタールを分析し、単なる相対主義とは異なるリオタール像を提示したい。