新刊紹介 | 翻訳 | 『垂直の声 プロソポペイア試論』 |
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郷原佳以(訳)
ブリュノ・クレマン(著)
『垂直の声 プロソポペイア試論』
水声社、2016年4月
本書は、ベケット研究の第一人者であると同時に、アウグスティヌスからパスカル、レヴィナス、デリダまで、文学的であると哲学的であるとを問わずにテクスト分析を行ってきたブリュノ・クレマン(1952‐)によるプロソポペイア(活喩法)論である。「顔、仮面(プロソーポン)」の「制作(ポイエイン)」を語源とするこの技法は、その場にいない者を呼び出し、声を与えて語らせる、という修辞学上の文彩である。プラトンの対話篇『クリトン』においてソクラテスが法をして語らせる一節がその典型だと言えばわかりやすいだろうか。とはいえ、本書を「修辞学の書」として手に取った読者は、その「修辞学」からの逸脱に、あるいは本書の「修辞学」の幅広さに、いささか面食らうことになるだろう。
なるほど、本書でも、「修辞学」の確立者ピエール・フォンタニエの名著『言葉の綾(Les Figures du discours)』における定義および解説が大いに参照されており、フォンタニエに対するクレマンの忠実さは特筆すべきものとさえ言える。典型的なプロソポペイアとして本書で真っ先に取り上げられる、プラトン『クリトン』、アウグスティヌス『告白』、ラシーヌ『フェードル』、ルソー『学問芸術論』の一節は、いずれもフォンタニエおよび19世紀修辞学においてプロソポペイアの好例として挙げられてきたものである。しかしながら、本書では、それら古典的なプロソポペイアにまったく新しい分析が施されると共に、テクストがプロソポペイア、すなわち不在の者の「現前」化を要請するとはいったいいかなることなのかという問いが提起され、その結果、プロソポペイアはもはや文彩――なしで済ませることもできる言語の彩り――の学としての「修辞学」の内部には収まることができず、むしろ思考そのものの条件となっていることが示される。
にもかかわらず、クレマンがそれでもフォンタニエに忠実だと言えるのは、フォンタニエ自身が『言葉の綾』のなかでプロソポペイアを「思考の文彩」に分類しながら、「思考の文彩」をなおも「文彩(figure)」と呼べるのだろうかと自問しているからである。つまり、フォンタニエ自身が、プロソポペイアを含む一部の「figure」が自らの「文彩」の定義にそぐわず、「文彩の学」としての「修辞学」の内部に収まらないことにうすうす気づいており、そのことを本書は明るみに出しているのである。その意味で、本書は狭義の「修辞学」を超えてフォンタニエに忠実であると言える。そして同時に、こうした事情ゆえに、本書では「figure」を「文彩」ではなく「比喩形象」と訳さざるをえなかった。私たちの思考が要請しているのは、それなしでも済ませられるような装飾ではなく、虚構性を孕んだ形象だからである。
ではその「比喩形象」とは何か。本書は、上記の古典的なプロソポペイアのみならず、きわめて広範囲なテクスト(ブランショ、フーコー、ニーチェ、サロート、ベケット、レヴィナス、ドゥギー、カント、デリダ、フロイト、ハイデガー等)のうちにプロソポペイアの声を見出しながら、それらがテクストの流れ、思考の流れに対する「他者」を到来させることを明らかにしてゆく。「他者」というのは、プロソポペイアの声が多重であり、その主が定かではないからである。私たちの思考はそのような「他者」による呼びかけを必要としている。プロソポペイアを根源的な比喩形象として分析する本書はそのように示唆しているようである。(郷原佳以)