新刊紹介 翻訳 『メディアとしてのコンクリート』

天内大樹、ほか(共訳)
エイドリアン・フォーティー(著)
『メディアとしてのコンクリート』
鹿島出版会、2016年4月

日常を彩る背景──いや、たいてい無彩色だけど。

本書(鹿島出版会2016、原著2012)には「訳者序」「訳者あとがき」がそれぞれ共訳者の坂牛卓氏と邉見浩久氏によって付されているので、著者エイドリアン・フォーティ氏に関しては同じ2名が監訳した『言葉と建築──語彙体系としてのモダニズム』(鹿島出版会2006、原著2002)、遡って高島平吾氏訳の『欲望のオブジェ──デザインと社会1750-1980』(鹿島出版会1992、原著1986)ともども、日本語で十分紹介されていよう。原著タイトルはConcrete and Culture: A Material Historyであるが、本文中でキーワードとして出てくるconcrete as a mediumという言い回しと、各章の多岐にわたる内容から、『メディアとしてのコンクリート──土・政治・記憶・労働・写真』という訳書タイトルに落着した。ちなみに翻訳メンバーは今回は4名、作業は原著の出版前に送付されたゲラのデータから始め、後に出版されたものに修正して進めた。

建築素材には極めて多弁なもの、象徴的な意味に富んだものがある。赤煉瓦は日本国内では明治以降関東大震災にいたる進取の気性を象徴する(国外ではもう少し寡黙だが)。東京藝術大学赤レンガ1号館のように、外装材のモルタルを剥いでみたら煉瓦造だったということから保存が決まった幸運な建物さえある。19世紀末英国の中世復興運動を想起してもよいだろう。近年、木材にはグローバル化した経済・社会に対する日本らしさの回復が期待されている。林業の振興は確かに推進すべき課題ではあろうが、今や各県の公共建築コンペで、県内材の積極的な使用が評価項目に挙げられ、東京・霞ヶ丘に新造する競技場にも木材がパラノイアックにまとわりつく(もちろんデザイナー個人に帰すべき問題ではない)。1851年ロンドン万博の水晶宮にせよ、シェーアバルト+タウトの《アルプス建築》にせよ、ガラスに対する幻想にも根深いものがある。その中でコンクリートだけが寡黙な材料と思い込まれ、その積極的な意味を言語化する試みが少なかった(本書でも触れられている)。

筆者は原著の内容を元に非常勤講義を組み立てたことがあるが、文学部・神道文化学部の夜間受講を主とする学生の感想に目立ったのは「コンクリート詰め殺人」と「コンクリートから人へ」というフレーズだった。かたや今どきの大学生とは思えない連想であり、かたや東日本大震災前に属する、当時すでに風化しかけていた時事用語である。つまりコンクリートが名称として対象化されるのは、陰惨な犯罪と政治スローガンという、一般には多少抽象的な場面であり、眼前の物質として観察・鑑賞の対象となることは少ないのだろう。コンクリートはあまりに日常的に使用され目に触れながら、背景化している。しかし我々の役割には、そうした日常をきちんと言語化すること、その背景にある様々な人間の意図を明らかにしておくことで、この社会の成り立ちを腑分けすることも含まれているはずだ。

最後に手前味噌ながら、筆者も原著での指摘を受けて日本国内のコンクリートについて小論を記した(「コンクリートの普遍性と地方性──日本諸地域の実践を通じて」、『美術フォーラム21』、vol.32、2015.12、pp.77-82)。(天内大樹)

天内大樹、ほか(共訳)エイドリアン・フォーティー(著)『メディアとしてのコンクリート』鹿島出版会、2016年4月