新刊紹介 単著 『映像と文化 知覚の問いに向かって』

荒川徹、日高優、ほか(分担執筆)
日高優(編)『映像と文化 知覚の問いに向かって』
京都造形芸術大学東北芸術工科大学出版局藝術学舎、2016年5月

本書は、〈知覚の問い〉を緩やかに軸として立てるという監修者の方針のもと、カメラという機械知覚による映像たる写真の出現から映画、テレビ、インターネットの動画配信まで、映像について扱い、思考している。執筆者は、監修者の私に加えて荒川徹氏を含む全三人。それぞれが五章ずつ担当し、上記の緩やかな方針以外は基本的に各々の責任で自由に執筆された。メディアが複合的に高度に発達した現代を担当した荒川氏の個所では、音と映像の同期、アートと映像、「圧縮」されたデータとしての映像といったテーマが、必然として多様に取り上げられている。

本書は、映像と文化を扱う多くの本がそうであるように、各種映像メディアの展開をおさえてはいるが、主眼にあるのはその各々が誕生してきた歴史的経緯を辿ることではないし、また、映像のジャンルや内容の分類整理、その記号的読解を主題とするものでもない。映像のテクノロジーや流通、文化的記憶を巡る政治といった映像に外在的、空間的な問題、映像の〈広がり〉を本書で扱うことはあっても(現代社会を席巻する映像の氾濫という状況や加速度的に進行するメディアの発達は、そうすることを誘うが)、それ以上に、監修者としても一執筆者としても目指したのは、映像それ自体の力、映像に内在するものに向かうこと、映像の〈深さ〉が私たち人間にとってもたらす経験を探求することだった。そのために、〈知覚の問い〉を立てることを試みた。

映像が映像として生きられるためには、知覚されることを通してより他にない。映像の本質を成り立たせる〈知覚〉の問いを軸に据えるにあたって、本書の出発点であり基底として冒頭を執筆した私が示したのは、カメラという機械による知覚が人間の身体の知覚とは本質において異質であるということだ。一見わかりきったようなことであるし、部分的には語られてはいるが、このことひとつとっても、それを手放すことなしに映像を思考し抜く本格の仕事が待たれている。また、私の執筆個所でも記したが、アンリ・ベルクソンの再認回路の図が教えてくれるように、映像がその深さを顕わすためには、それを知覚する人間の知覚が深くならねばならない。このことを真に思考し言語化するのは困難だが、同時に実はそれは注意深く振り返れば、日常の私たちの経験で確かめられることでもある。電車の吊り広告の写真よりも自分の家族写真の方が観者の知覚を深くして多くを発見できる、というような知覚の深さの問題を基盤に据える映像の作品もあるし、「写真回想法」という心理療法の実践もある。

映像をみる人間の知覚の問いを問うことなく映像と人間の知覚を切り離して考察しても、映像が映像として生きられるという位相、映像の本質は取り逃がしてしまう。つまり、映像論は、人間の知覚を巡る身体への眼差しを抜きには、映像論として立ち上がってこないのではないか。予備知識、専門的知識を前提とせずに書かれている入門書だが、読者諸氏が自らの映像経験に照らして、身を通す手ごたえを持ってゆっくりと読み進めていただくならば、思考し育てていくべき種を、本書にさまざまに発見していただけるのではないかと思う。(日高優)

荒川徹、日高優、ほか(分担執筆)日高優(編)『映像と文化 知覚の問いに向かって』京都造形芸術大学東北芸術工科大学出版局藝術学舎、2016年5月