新刊紹介 単著 『過去に触れる 歴史経験・写真・サスペンス』

田中純(著)
『過去に触れる 歴史経験・写真・サスペンス』
羽鳥書店、2016年4月

客観的事実がそこで同じまま保存される透明な媒体としての「歴史書」でもなく、資料を用いた「恣意的」な虚構でもなく、その中間で、いやおうなく過去に触れてしまった経験を出発点に、「記録」と「創作」を交叉させるようにして書かれざるをえなかった奇妙なテクストがある。

本書は、そのようなテクストをつぎつぎとたぐりよせ、いかにしてそれらが書かれたのかを丹念に分析することを通し、さらには、著者自身もアーカイブへと沈潜しながら同じ営みに身を投じることによって、ひとつのきわめて特異な歴史哲学をくっきりと浮かび上がらせた画期的な著作である。

指針となるのは、「過ぎ去ったもののなかに希望の火花を掻き立てる」という、これ自体謎めいた、ベンヤミンのテーゼである。死者たち、それも、公式な記録のなかに位置づけられることのない「敗者」や「名のないものたち」と、何らかのかたちでふたたび「未来」において出合うことを可能とする、そのような「希望」がどのように模索されたのか。

本書が書かれる発端にあったのは震災であると著者は言う。「身近な惨事と迫り来る危険に接して、五感が全面的に異常なほど鋭敏になっていたこの時期」に着想され、その記憶が生々しい時期にリアルタイムで書かれることになった。「希望」の一語は、まさにこの同じ時期、この国のさまざまな文脈において、それなしではすまされないような「標語」として掲げられてもおり、そのような意味で、本書の問題意識はきわめてアクチュアルなものであるといえるだろう。ただしここでなされているのは、曖昧にこの言葉に寄りかかるのとは真逆の姿勢において、むしろ、あらゆる言葉が空転するような失語の感覚にとどまりながら、「希望」の意味するところは何かをあらためて、あたうかぎり厳密に検証しようとすることだった。

危機や破局にこそ希望を見出す、というが、その道は危険に充ちている。ベンヤミンをはじめとして、カルロ・ギンスブルク、堀田善衛、橋川文三、ジョルジュ=ディディ・ユベルマン、ヘイドン・ホワイト、アビ・ヴァールブルクたちとの徹底的な対話を展開しつつ、著者はさぐりあてられるべき「希望」を、たとえば「宗教的絶対性への帰依」、「表象不可能性の絶対化」、「歴史修正主義」、未来から隔絶した「ノスタルジア」といったものから丹念に腑分けしていく。

こうしたきわめて濃密な「方法論」の模索の過程で、本書はいくつもの驚くべき見解を提示する。この書評の執筆者自身がまさに驚愕させられたのは、「サスペンス」こそが、名を忘れられた者たちにふたたび場を与えるための歴史記述の方法と本質的な関連性を持つという指摘である。

パスカル・ボニゼールが強調していたことだが、とりわけヒッチコックにおいて、「サスペンス」は単なる娯楽のためのメソッドではなく、政治的な意識に根差した、認識の方法である。忘却されたはずの過去が、日常につけられた謎の「染み」から回帰し、やがて現在の秩序を根底から覆す。その前提にあるのは、「歴史」や「世界」が多重であって、「現在」と呼ばれるその一つのまとまりが、見えない層にたえず脅かされているという認識だ。本書は、そこから考察を大胆に進め、「サスペンス」こそが、「過去」と「現在」の固定的な関係を打ち破る動的な歴史記述のために援用されうる有効な方法である事実を、ロラン・バルト、W・G・ゼーバルト、畠山直哉(写真との関係がきわめて重要だ)といった極限的な例のなかに見出していく。

著者の姿勢が徹底的だと思われるのは、こうして、恒久的かつ客観的な「歴史」を超越的な視点から書く記述者、という従来の像を根底から揺り動かすことの帰結として、当人もまた過去に触れる危機を通過することを積極的に引き受ける点だ。第一部第二章「アーシアを探して──アーカイブの旅」、第二部第一章「剥ぎ取られたイメージ──アウシュヴィッツ=ビルケナゥ訪問期」では、「現在」につけられた「染み」としての写真に文字通り連れ去られる経験が著者自身によって記述されている。

印象的なのは、その強度の経験をもたらす対象を、ふたたび「公式の歴史」に、「学術的発見」として、性急に回収しようとするのではなく、逡巡し、もてあまし、「未来」において別のつながりが生まれるかもしれぬという予感を抱かせたまま、そっとそのままにしておくという身振りだった。未来に開かれた中間的な過程としてある歴史記述において決定的なのは、むしろそのような慎ましさであるということなのだろう。本書の分厚さは、この慎ましさという倫理の帰結であるようにも思われた。(三浦哲哉)

田中純(著)『過去に触れる 歴史経験・写真・サスペンス』羽鳥書店、2016年4月