新刊紹介 単著 『怪物的思考 近代思想の転覆者ディドロ』

田口卓臣(著)
『怪物的思考 近代思想の転覆者ディドロ』
講談社選書メチエ、2016年3月

本書は18世紀の哲学者ドニ・ディドロの初期の著作『自然の解明に関する断想』の読解を主題としている。実際、本書は、数々の断章からなるこの難解な著作を読解するにあたり、歴史的な文脈への目配せもしつつ、そこで語られているディドロの言葉を極めてクリアに提示している。しかし本書の試みは『自然の解明に関する断想』の解説や体系的整理にとどまらない。著者自身が強調しているように、本書の核にあるのは「『自然の解明に関する断想』で示されたもろもろの思想内容を抽出して満足するのではなく、それらの言説の諸形式が、思想内容にどのように作用し、どのような変容をもたらすのかを追跡すること」(30頁)である。それゆえ問題は、この著作のなかに散りばめられた断想、寓意、隠喩、類比、夢想といったさまざまな表現技法をとおしてそのつど姿を変えていくディドロの思考のダイナミズムであり、そこから織りなされる問題系の空間なのである。本書を手にとるものは、著者の精緻な分析に触れるにつれて、これまでとは異なる新たなディドロ像と出会うにちがいない。

それでは本書で読者が出会うだろうディドロ像とはどのようなものか。ディドロが属する18世紀の啓蒙思想は、これまで数多くのレッテルを貼られてきた。理性によって自然を支配する「理性信仰」(アドルノ&ホルクハイマー)、幾何学的演繹に基づいた合理哲学に対して観察・実験・帰納を重視する実験哲学の高らかな宣言、言語と世界のあいだに透明な一致をみる百科事典的な世界観(フーコー)。しかし著者はこれらのレッテルが必ずしも妥当ではないと指摘する。なぜならディドロは『自然の解明に関する断想』のなかで当時の学説について推論を重ねることで、体系の法則性のなかに還元されえない「過剰なもの」に直面していたからだ。そこにあるのは、理性の光で世界をくまなく見とおす「理性信仰」とは異なる「啓蒙」の姿である。本書のタイトルでもある「怪物的思考」、それは体系の過剰余地が外部として生成する場面に立ち会うディドロの思考のプロセスにほかならない。このような視点はディドロが語る言葉のリズムを正確に追跡・記述する著者独自の「語ることの思想史」という方法だからこそ得られるものであろう。

『自然の解明に関する断想』をめぐって、ニュートン、ベーコン、ルソー、ビュフォン、ライプニッツといった近代の学説だけでなく、現代の哲学との関連づけも行われている点も本書の大きな魅力のひとつである。たとえば終章では、ディドロの思考を体系の剰余に対峙するものとして規定したうえで、改めてアドルノ&ホルクハイマーやフーコーとの生産的な対話が図られているし、それ以外でも「仮説的推論」(パース)、「流動の過程」(カッシーラー)、「特異なもの」(カンギレム)、「他者の言葉」ないし「異種交配」(スタロバンスキー)といった概念が各所で登場する。さらに、著者がディドロ独自のテーマとして挙げる盲目的な身体運動による予測不可能なものとの遭遇、推論を積み重ねることで既存の体系に過剰余地を見いだしその外部へと向かう流体的思考、目的論批判をとおして個体の潜勢力を強調する個体性の原理といった主題をとおして、レヴィナス、ドゥルーズ、デリダ、ナンシーといった本書のなかで直接には言及されていない哲学者たちと関連する問題系も浮かび上がってくるだろう。この点で、本書が提示するディドロの「怪物的思考」は現代にも通ずる哲学上の諸問題のひとつの「資源」をも提供している。本書を読み進めるにつれて読者は、本書が古典研究にとどまらず、現代的意義を備える優れた哲学研究の書であることに気づくはずだ。(松田智裕)

田口卓臣(著)『怪物的思考 近代思想の転覆者ディドロ』講談社選書メチエ、2016年3月